カルアミルクとポーカーフェイス

 大学時代というものは時間が早く過ぎ去るもので、私はその学び舎を眺めた。国立にしては綺麗でまるで私立の様なキャンパス。植木は手入れが行き届き、食堂のテラスは駅前のカフェの様なお洒落さ。私は友人にも恵まれ、高校からの付き合いのある五人は同じ聖北大に進学し、毎日のように昼食を共にした。課題やレポート作成なども一緒にワイワイしながら行い、試験勉強は校内の学習スペースでお互いに分からない所を教え合いながら行った。その全てが懐かしく、昨日の事の様だ。鷹之宮財閥社長令嬢という肩書きにも臆せず、対等に競い合い助け合った私達が今日、卒業という日を迎える。

 卒業式当日、私と葵は袴、蓮に璃音、逹、それに那瑠はスーツという出で立ち。

「那瑠はどうして袴じゃないの」

 葵が不思議そうに那瑠を眺める。私としてもそこは聞いておきたいし今なら着替えも間に合う時間だ。

「袴なんて暑苦しい物着てられないよ」

「ゼミの教授に何か言われるよきっと」

「何とか躱すさ」

 那瑠は乾いた笑いをして溜息を吐く。那瑠とは学部もゼミも同じでよく一緒に行動していたが、確かに教授に何か言われそうだ。教授の研究室には卒業生の写真がいっぱいあって、教授が学生をどれだけ大事にしていたか分かる。那瑠の姿を見たら落胆するかもしれない。

 とにかく私たちは卒業式場に移動することにした。あちこちで卒業生らしき学生が歩いている。会場はキャンパス内の一番大きい講堂で、卒業生がすっぽり入る大きさである。講堂内は既に学生でいっぱいだ。もうすぐ卒業式が始まる。


 卒業式後、私達はそれぞれの学部に散って、教授に挨拶をしに行った。案の定那瑠の姿を見た教授が残念そうな顔をして顎髭を撫でた。

「那瑠君の袴姿も見たかったなあ」

「セクハラですよ」

「それは言いすぎですよ那瑠」

 皆で談笑しながら集合写真を撮る。きっとこの写真も教授の部屋に並ぶのだろう。私は名残惜しかったがそこで教授とお別れをして、着替えるために一度帰宅することにした。この後は智弘さんのお店で卒業祝いをする予定だ。私は那瑠と別れて自宅に帰る。家に帰ると直ぐに袴を脱いで着替える。男性陣と那瑠はスーツのまま智弘さんの店に向かうはずだから、少しでも早く到着しておきたい。ラフなワンピースにカーディガンを羽織り、急いで出発する。早足で行けばここからは十分とかからないはずだ。大学のキャンパスを通りすぎ、道行く学生にちらちら見られながらも私は闊歩する。

「こんにちは」

「おー桜ちゃんいらっしゃい、奥の個室使ってー」

 智弘さんの店に着くと彼女が忙しそうにしながらもそう言ってくれた。言われた通りに奥の個室に向かうと、既にスーツ姿の四人が談笑している所だった。

「お待たせいたしました」

「ようお疲れさん」

 蓮が手を挙げて席を空けてくれた。

「この後どうする?飲みに行く?」

 逹は気が早くも次の話をしている。皆でゆっくり集まれる日はこれから少なくなるだろう。皆次の進路が決まっているはずだ。

「葵が来てから考えよう」

 璃音が上着を脱ぎながら冷静にそう言う。今日は春の陽気で温かい。店内も空調が効いているので温かかった。

「それもそうか」

「そういやお前」

「ん?」

 蓮が思い出したように逹に向かって口を開く。

「プロポーズはいつするんだ?」

「え」

「結婚を前提にって付き合い始めてもう四年だろ」

 私はニマニマしながら逹の顔を眺める。逹は照れて赤くなっている。

「今日しちゃえば、会う機会もこれから激減するぞ」

 那瑠まで乗っかって逹を焚き付け始めた。こうなるともう逹も止まらないだろう。もうお酒も入っているようである。

「葵嫌がらないかなあ」

「嫌がるとは?」

 私はその単語に違和感を覚えて聞き返す。付き合っているのだし結婚も前提なのだし、むしろ喜ぶのでは?

「俺酔った勢いでとかされたら嫌だからさ」

「なるほど」

 確かにそれは嫌かもしれない。逹の優しさが垣間見えた。逹と葵が付き合い始めたのも蓮と那瑠がキューピッドになったからだ。それぞれがどうやら相談されて両想いだと知って引き合わせたらしい。

「お待たせー」

 葵がこのタイミングでやって来た。那瑠の隣が空いているので彼女はそこに腰を落ち着ける。

 逹は口を噤んで、蓮と那瑠は素知らぬ顔をする。私は何だかおかしくなって笑った。璃音も苦笑している。

「お疲れ様です」

「ありがとう、なんか空気おかしくない?大丈夫?」

 葵は三人を見てそう言う。タイミングが良いのか悪いのか、智弘さんがビールを六人分持ってやって来た。

「おまちどおさま、ゆっくりしていってね」

「ありがとうございます」

 私は彼女からジョッキを受け取って皆に配る。

「では皆さん、ご卒業おめでとうございます、かんぱーい!」

「乾杯!」

 ジョッキを鳴らして一口、冷たくて美味しい。それから智弘さんは食べるものを次々に持って来てくれた。

 逹は無言でビールを飲み続けて既に顔が赤くなっている。お酒に弱いからいつ笑いだすか分からない。彼は笑い上戸なのだ。

「葵」

「ん?」

 鶏の唐揚げを頬張る葵に逹が声を掛ける。私達は無言でそれを見守った。

「あとで話がある」

「あとで?」

「うん」

 私達四人はにやけ始めた。

「ちょっと何で皆にやにやしてるの」

「何でもない」

 那瑠がにこやかにそう言う。葵は釈然としない感じではあったが、ふーんと相槌を打っておつまみに手を伸ばす。私と璃音はその様子を黙って見守った。蓮もひらひらと手を振って何でもないの意を表す。

 それにしても逹のお酒を飲むペースが早い。大丈夫だろうか。潰れたりしないだろうか。

「逹、大丈夫ですか随分飲みますね」

「大丈夫」

「本当に大丈夫か」

 璃音も逹の顔色を見て心配している。顔が真っ赤だ。しかしニコニコ顔だ、完全に酔っている。

「大丈夫だって」

「それならいいが」

「ふへへ」

 逹は奇妙な笑いをし始めた。やはり酔っ払いだ。葵が心配して顔を覗き込む。

「逹、飲み過ぎだよ」

「大丈夫だって、みんな心配性だなあ」

「吐くなよ」

 蓮がぼそりと呟く。逹はぐいぐいジョッキを空けていく。まだ昼間だが、このペースで飲んでいたら二次会どころではないのではないのだろうか。

「緊張してるんですかね」

「さあな」

 私は璃音に耳打ちする。璃音はお酒が強い方ではないので、まだ一杯目のジョッキだ。私はビールを早々に諦めてカルアミルクを飲んでいる。私にはまだビールの美味しさが分からない。那瑠と蓮はビールを既に空けてジンライムという強いお酒を二人で飲んで談笑している。いずれ結婚して欲しいなあという願望はまだ璃音にしか漏らしていない。

 それにしても。

「逹、笑いすぎですよ、お水貰って来ますね」

「はあい」

「あ。私がお水貰いに行くよ」

「いえいえ座っていてくださいな」

 葵の言葉を断って智弘さんの元へ向かう。店内は袴やスーツ姿の学生でてんやわんやだ。これでは智弘さんも目を回しているだろう。バイトの子を激励して料理をしコーヒーを淹れている。

「智弘さん、お水くださいな」

「はいはい、ちょっと待ってね」

 智弘さんはパスタを皿に盛り付けてバイトの子に渡すとグラス一杯にお水を入れて渡してくれた。

「ありがとうございます」

「逹君が酔いつぶれた?」

「もうそろそろそんな感じです」

 私は苦笑して答える。智弘さんも苦笑して吐かないように気を付けてねと忠告してくれた。私は席に戻ってお水を逹に手渡す。

「ありがとう桜さーん」

「どういたしまして」

 逹は受け取ったままお水を飲む。零した。酔っ払いめ。

「逹、零してる零してる」

 葵が慌ててハンカチを出して逹のスーツを拭く。逹はされるがままになっている。

「ゴメン、ありがとう」

「しっかりしてよ、飲み過ぎだし」

「すっかり夫婦だな」

「だな」

 蓮と那瑠が振りかけて、葵の顔が赤くなった。

「まだそんなんじゃないし」

 葵は照れて否定するが、逹が真面目な顔になった。おや、これは。

「まだって事は結婚意識してくれてるって事だよね」

「え」

「結婚を前提にという話だったんだからそうだろう、葵違うのか?」

 璃音は澄ました顔でそう言う。葵は耳まで赤くして那瑠の方を見た。助けを求めているようである。

「こっちを見ても無駄だぞ」

 那瑠はケラケラ笑って葵の背中を撫でる。

「そんなあ」

「観念するんだな」

 蓮まで乗っている。かわいそうに。と思いつつ私も微笑みがにやけ顔になっているだろう。

 葵はちびりとビールを飲んだ。苦さに顔をしかめつつ、ジョッキをあけていく。葵もお酒が強い方では無いから、この後はカクテルなどを飲むのだろう。那瑠と蓮は今の経済について話をしている。私も経済学部に在籍していたので、その話に興味があったが、真横に座る葵と逹が気になってしょうがない。私はそっとグラスを傾けながら二人の会話を聞いていた。

「葵~好き~」

「はいはい、ありがとう酔っ払いさん」

「本気だよ?」

「はいはい、ありがとう」

 葵は嬉しそうだ。私も嬉しくなってお酒を少し飲んだ。私も酔いが回ってきたかもしれない。あまり強いお酒は飲めないがカルアミルクは美味しいので飲めてしまう。コーヒー牛乳のアルコール入りを飲んでいる気分だ。私はくいくいとグラスを空けて、また次の飲み物を頼みに行こうと思った。

「私、飲み物頼んで来ますが、何か飲み物とか要りますか?」

「あ、逹にお冷と、私カシスオレンジがいいな」

 葵が逹の方を向いてそう言った。私は那瑠の方を見やる。

「じゃあジンライムもう一杯貰おうか」

「俺もジンライム」

 蓮と那瑠は口を揃えてそう言った。私は微笑んで頷く。璃音は、と端に座っている彼を見ると、彼は立ち上がって私の方へと向かって来た。

「桜と一緒に酒、貰いに行くよ」

「あら、ありがとうございます」

 私はお礼を言って璃音と二人で智弘さんの所へ行く。店の方もだいぶ落ち着いてきたのか、智弘さんは椅子に座ってコーヒーを飲んでいる所だった。

「あら、追加オーダー?」

「そうです、カルアミルクとカシスオレンジ、それにジンライムを二つと……」

「お冷二つ」

「はいよん」

 智弘さんは璃音の言葉に直ぐ出来るから待ってねと声を上げて、サーバーがある所まで小走りで行く。私は璃音を不思議そうに眺めた。

「もう飲まなくて良いのですか?」

「ああ、二次会に行く気満々の奴らが多いからな」

「なるほど」

 智弘さんがトレーにお酒とお冷を持って来る。私が持とうとした所で璃音が先に手を出した。

「桜もだいぶ酔ってきているだろう?僕が持って行くよ」

「ふふ、ありがとうございます」

 璃音の背中が頼もしく見えた。高校時代までは私の方が背も高かったので璃音の背中も小さく見えていたが、今では背も抜かされて少し見上げなければ彼の目と合わなくなっていた。月日が経つのは恐ろしく早い。自分の中身は幼稚園位で止まっている気さえする。

「璃音。お話があるのですが」

「どうした?」

 璃音はトレーを真っすぐに持ちながら器用に後ろを振り返って私を見た。

「私たちの結婚はいつになりますかねえ」

「!」

 璃音は顔を真っ赤にして前を向く。耳まで赤くなっているのが見えた。私は少し面白くなって追撃する。

「私達もそろそろお父様にお話をしてもいい頃だと思うのですが」

「桜」

「はい」

「その話は後でゆっくり聞こうか」

「はい」

 私はふふっと笑って頷いた。璃音はまたポーカーフェイスに戻って、しらっとお酒とお冷をテーブルに置く。いったいいつになったら彼のポーカーフェイスは剥がれるだろうか。

「ありがとう」

 葵がカシスオレンジを手にして、私達にお礼を言う。那瑠と蓮も談議を一旦辞めて私達にお礼を言った。

「お?璃音はもう飲まないのか?」

 那瑠が可愛らしく首を傾げて璃音を見る。璃音はお冷を一口飲んで頷いた。

「ああ、二次会に行くんだろう?それなりに飲ませられるだろうから、取っておかないとな」

「誰に飲ませられるんだ?」

「桜」

 那瑠はケラケラと笑う。私がそんな事をする訳が無いので、璃音なりのジョークだろうと私も笑った。


 二次会の場所は案外すんなりと決まった。那瑠が一人暮らししている部屋だ。彼女の部屋にはたくさんのお酒が置いてある。私達は食べ物を調達して彼女の部屋に向かった。日は暮れ始めて、夕焼けが私達を真っ赤に染める。私は少し立ち止まって夕陽を眺めた。

「どうした?」

 那瑠が立ち止まって私と並ぶ。

「いえ……こうして皆と夕陽を背にして歩けるのも最後かと思いまして」

「……そうだな、最後かもしれないな」

「何だか寂しいですね」

「なあに、すぐ会える距離だよ、こうして歩いた思い出は確実に残る。大丈夫さ」

「はい」

 私は何だか泣きたくなって、彼女に抱き着いた。那瑠の匂い、いい匂い。彼女は私の背中をポンポンと撫でて笑った。

「桜は寂しがり屋だな」

「そうかもしれません」

「泣きたい時は泣いたらいいよ」

「はい」

 私は那瑠に抱き着いたまま一筋涙を零す。それが唇を伝って舌を濡らした。鼻の奥がツンとする。すると誰かが此方に歩いてきた。私は那瑠に抱き着いていたので声を聞くまで葵だと分からなかった。

「桜さんが泣いてるう」

「も、貰い泣き?」

「貰っちゃった」

 葵は鼻をすすって私達に抱き着いた。私と葵はわんわん泣く。お酒のせいもあって、自分の力でそれを止めるのは困難であった。

「おいおい、今生の別れじゃないんだから直ぐにまた皆で会えるさ」

「そうですけど」

「そうだけど!」

「私はずっと智弘さんの店にいるし、桜は財閥、葵だって地元のデザイナーとして働けるんだから、土日に集まれるさ」

「そうでしょうか」

「そうだよ」

 私たちの背中を那瑠は優しく撫でる。それがあまりにも優しくて、私達はまた泣いてしまった。夕陽が私達を温かく照らす。

「ほら、二次会するんだろう?行くよ」

「うん」

「はい」

 私達は名残惜しかったが那瑠から体を離して涙を拭いた。男性陣が道の端に寄って私達を見守っている。

「おーい、行くぞー」

 逹が手を振っていた。私と葵は顔を見合わせてそちらに向かって声を掛ける。

「今行くー」

「今向かいます」

 那瑠はまるで母親の様な表情で私達を眺めてから歩き出した。私も葵もその後について歩き出す。

 那瑠の部屋には直ぐに着いた。聖北大の直ぐ傍の学生アパートの角部屋三階に那瑠の部屋はある。西日が差し込む小さな部屋だ。小さいながらも対面式になっているキッチンの戸棚には所狭しと酒瓶が並んでいる。

「皆、好きな酒持って行けよ」

 彼女の一声で私達は戸棚の前に並んでそれを眺めた。名前も知らないラベルのお酒を那瑠に尋ねながら私達はお酒を選ぶ。蓮はさっとウォッカを選び、ショットグラスを手に取った。私は相変わらずミルク系のお酒にして、それぞれ円卓を囲んだ。那瑠は軽く作れる肴を持って空いている場所に腰掛けた。

「じゃ、乾杯」

 那瑠の一声で私達はグラスを合わせる。そして一口。

「あ、那瑠、お水、逹に貰っても良いかな」

 葵が逹の顔色を窺ってからそう言った。逹はケラケラと笑いながら璃音と何か話をしている。

「ああ、いいよ」

 那瑠は苦笑してお水を持って来ると逹の目の前に置いた。

「ほら、逹、水飲んだ方がいいよ」

「ん、ありがとう」

 逹はお礼を言ってグラスに口付ける。その様子を私達はなんとなく見守った。

「え、何で皆俺の方見てるの」

「心配してるのさ」

 那瑠はクスクスと笑ってウォッカをあおる。蓮と隣の彼女は心なしか嬉しそうだ。蓮の隣にいるから嬉しいのか、皆でこうしている事が嬉しいのか、私には分からない。

「皆俺の事心配し過ぎ」

「愛されてる証拠さ」

 璃音がそう言うので逹は恥ずかしそうに笑った。

「皆ありがとな」

 逹は頬を掻きながらお礼を言う。皆で笑う。こんな時間が愛おしかった。私は何だかまた泣きたくなってきた。決して泣き上戸ではないのだが、今日は涙腺が緩いようだ。隣に座る那瑠がそっと私の背中を撫でた。彼女はこういう時いち早く誰かの異変を察知する。私はハンカチを出して涙を拭いた。

「大丈夫か?」

 左隣の璃音が心配そうに私を見る。私は何度も頷いて大丈夫だとジェスチャーした。

「那瑠、こういう時ってどうして泣きたくなるのでしょうね」

「こういう時なあ、寂しさとか嬉しさとかごちゃ混ぜになって苦しくなるよな」

「そうなんです」

「分かるよ、今は泣いたらいいさ」

「はい」

 私は暫くグスグス泣いていた。すると葵が号泣し始めた。

「おいおい、お通夜じゃないんだぞ」

 那瑠は笑って葵にタオルを渡す。

「桜さんが泣いてるう」

「葵」

 私は葵の傍に寄って彼女を抱き締めた。

「泣き止んでくださいな」

「うん、うん」

 私は葵の背中を撫でて何とか涙を落ち着けさせようと深呼吸する。段々と頭がクリアになって、涙も落ち着いて来た。私はまた璃音と那瑠の間に座ってカルアミルクを手に取る。

「那瑠、今夜は飲み明かしましょう」

「お、やる気だな、付き合うよ」

 那瑠も今度はモスコミュールを持って来てグラスに注いだ。私達はそうして夜が更けてからも語り合った。

 夜十二時、逹が突然葵の手を引いてベランダに向かった。私達は何事かとこっそり聞き耳を立てる。

「もう涼しいね」

「そうだな」

 那瑠の部屋のベランダからは河原やその先の住宅街が見える。小さな夜景スポットだ。

「あのさ」

「うん」

 逹はごそごそとポケットから見慣れない箱を出して葵に手渡す。

「俺と、結婚してくれないかな」

 葵は驚いて箱を開けた。小さなダイヤが付いたリングが収められている。

「このタイミングで?」

「このタイミングだからこそ」

「嬉しい」

「結婚、してくれるよね」

「うん、勿論」

 私はそこでちらりと璃音を見た。そして半分酔い潰れている彼に寄り添った。

「璃音、私達もいずれ結婚しましょうね」

「ああ、時期が来たらな」

 璃音は照れて後ろを向く。私もつられて後ろを見ると、那瑠と蓮が此方を眺めながら微笑んでいるのと目が合った。

「いやあ、嬉しいね、弟が好きな人と結ばれる瞬間は」

「あら、那瑠だって、隣に好い方がいるではありませんか」

「蓮は家に帰って来ないから嫌だ」

「あら、そうなんですか」

「ああ、蓮は四月からアメリカに行くからな」

「え、就職が決まったと言うのはアメリカなのですか」

「ああ、そうだよ」

 蓮はしれっと頷いてグラスを空けると、今度はジントニックを作って一口飲む。これでは益々私達六人が集まる機会が激減してしまうなと思った。

「早く教えてくだされば良かったのに」

「私も最近だよ知ったのは」

「すまんな、隠していた訳じゃないんだが、桜は特に落ち込むと思って言えなかった」

「そうですか……」

 私は肩を落としてまたベランダの方を眺めた。丁度葵の手を取って指輪をはめる所である。きらきらとした夜景と相まって、幻想的だなと思った。

「璃音、私達も幸せになりましょうね」

「ああ、待っていてくれ」

 璃音から頼もしい言葉を貰って、私は彼の肩に頭を乗せる。そっと璃音が頭を撫でてくれた。

「ただいま」

 頬を上気させた葵と逹が部屋に戻って来た。おかえりなさいと声を掛けて私達は一斉に拍手をする。

「おめでとう」

「おめでとうございます」

「結婚おめでとう」

「末永くウチの弟をよろしくな」

 逹が那瑠の言葉に反応して笑った。弟って言うなよーと照れている。

「ていうか、もしかしなくても丸聞こえだったの?」

「もちろん」

 逹は明後日の方向を向いてまた照れた笑いを見せた。葵も赤くなっている。

「葵、指輪が綺麗ですね」

「そうだね、ふふ、嬉しい」

 照れ笑いの葵、私も嬉しくなって微笑んだ。璃音の方を見た。いつか指輪を買ってくれるだろうか。

「安心しろ、いずれ買うから」

 私の念が届いたのか、璃音は欠伸をしながらそう言った。

「ふふ、期待してますね」

「ああ」

 彼は相変わらずのポーカーフェイス。そのポーカーフェイスを崩すのは難しい。

 私はグラスに残っているお酒をちびちび飲みながら溜め息を吐いた。だいぶ酔いが回ってきて、立ち上がるとクラクラしている。

「どうした、桜」

 那瑠が心配そうに私を見た。フラフラな私を心配してか、璃音も立ち上がる。

「いえ、ちょっと酔いを醒まして来ます」

「なら付き合う」

 璃音が真っ先にそう言ってくれるが、私は丁寧に断った。そして那瑠を見る。

「那瑠、一緒にコンビニまでデートなんていかがです?」

「お、いいよ、蓮、ここはよろしくな」

「おう」

 ジントニックを飲みながら蓮がヒラヒラと手を振った。那瑠は財布を手にして、じゃあ行こうか、と言うと玄関へと向かう。

 外は三月と言えど夜中の為かまだ肌寒く、私はカーディガンを持ってくればよかったと後悔した。那瑠はそれに気が付いて、抱えていた上着を私に掛けてくれる。

「持ってきて良かったよ、風邪引くなよ」

「はい、ありがとうございます」

「何か話したい事でもあった?」

 那瑠は優しく微笑んで私を見た。夜空に煌めく星が那瑠の瞳の中でキラキラとしている。

「那瑠の目、綺麗ですね」

「ん?」

 那瑠はクスクスと笑った。

「いえ、なんだか、那瑠と話したい気分だったのです。特に話題は無いのですが、二人になりたくて」

「なるほどな、何でも話してよ」

「はい」

 私は那瑠の隣を歩きながら色々と話す。今後仕事でどうしたいとか、璃音との関係とか、思い出話とか。那瑠はどの話題でもきちんと反応してくれた。私はそれが嬉しくて子供の様に話し続けた。

「それにしても……」

「どうした?」

 コンビニで飲み物を眺めている時にふと思った事を話す。

「蓮がアメリカに行ってしまうのは寂しいですね」

「はは、まぁ、そうだな、寂しくなるよ。でもちょくちょく帰ってくるって言ってるし、大丈夫さ」

「本当に大丈夫です?」

「どういう意味だよ」

 那瑠は笑いながら飲み物を選んで籠に入れた。

「いえ、何となく」

「そうか、大丈夫だよ、私は」

「そうですか」

「そうだよ」

 私も飲み物を選んで籠に入れさせてもらった。そしてなんだかチョコレートが食べたくなったので、チョコレートを選ぶ。那瑠はのんびりと辺りを見渡して溜め息を吐いた。

「まぁ、でも寂しいよな、高校卒業の時でさえ、大学は一緒でも学部が違うから寂しかったしな」

「そう、ですよね」

「卒業ってそんなもんだよな」

 那瑠の言葉に少しだけ、少しだけうるっと来る。

「卒業したくないですね」

「もう卒業したのにな」

 ははっと、笑う彼女に私も笑みを零した。

 私達はお会計を済ませて、二人でまた歩き出す。夜の風の匂いがした。部屋に戻るまで私達はまた語り、私は時たまうるうると泣いた。

「桜、今日はよく泣くなあ」

「何だか涙腺が弱いようです」

「まぁ、分かるよ、私もなんだか泣きたい、心がからっぽになった気分でさ」

 自嘲気味に笑う彼女を見て私はまた泣く。那瑠はビニール袋を持っていない手で私の背中を撫でてくれた。どうして那瑠の心はからっぽなのだろう、寂しい。寂しい気分のまま那瑠の部屋に着いてしまった。涙目の私を見て心配したのか、璃音が大丈夫かと声を掛けてくれた。

「ええ、大丈夫です」

「大丈夫なら良いが」

 那瑠も心配そうな顔で私を見る。

「無理するなよ」

「ええ、ありがとうございます」

 私は買ってきたチョコレートを口に含んだ。そして那瑠にジントニックを作ってもらい、それを少し飲んだ。爽やかなライムが鼻を抜けていく。

 璃音にもチョコレートを勧めようとしたが、璃音はもう酔いつぶれていて、起きているのは蓮と那瑠、そして私だけだった。逹と葵は那瑠の布団を占拠しているので、璃音は私の肩に凭れて寝息を立てている。

「蓮、手を貸してくれますか、璃音をソファに」

「おう」

 蓮はグラスを置いて立ち上がった。そして璃音の肩を支えてソファまで誘導してくれる。璃音は少し唸ってから、また寝息を立て始めた。

「さあ、飲み明かしましょうか」

「桜は寝なくても平気か?」

「はい、酔いも少しは醒めましたから」

「よし、じゃあ飲むか」

 那瑠はグラスにまたお酒を注いで、私に向き合う。蓮もそそくさと那瑠の隣に座り、グラスを持った。

「じゃあ、改めて乾杯」

「乾杯」

 グラスを合わせて一口。強いお酒だが美味しい。カルアミルクの様な甘いお酒も好きだが、ジントニックの様なピリリとしたお酒もたまにはいい。

「蓮」

「どうした?」

「ちゃんと帰ってきてくださいね」

「ああ、そんなに長くかからないよ、大丈夫さ」

 私はそれなら良いですけど、と言ってグラスを傾ける。こうして見ると蓮もポーカーフェイスだなと思った。そしてそれを崩してみたいななんて事も思った。

「相変わらずお二人はお酒が強いですね」

「そうか?」

「まぁ、逹に比べたら強いよね」

「そうかもな」

 蓮と那瑠は顔を見合わせて笑う。蓮はいつもよりも柔らかい笑顔を見せてくれた。きっと那瑠が隣に居るから。私はそれが嬉しかった。

「お、桜、グラス空けるの早いじゃん、なんか飲む?」

 気がつけばグラスは空になっていて、私は頷いた。

「今度はカルアミルクでお願いします」

「はいよ」

 那瑠がキッチンへ行ったのを見計らって私は蓮に耳打ちする。

「那瑠が誰かに取られる前に結婚してくださいね」

「分かったよ」

「私達の間では隠し事しないでくださいね」

「ああ」

 蓮はクスクスと笑った。

「お?何か内緒話でもしてる?」

「いえいえ」

 那瑠が肴とカルアミルクを持ってくる。私はそれを受け取って笑った。

「那瑠、私今幸せです」

「そりゃ何よりだ」

 那瑠は優しく笑ってくれた。今晩は眠れそうにない。

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