アイスモカと参考書

「もういい!!」

「有希!!」

 私は咄嗟に鞄を持って、泣きながら家を出た。

 逹君と喧嘩をしてしまった。最悪だ。これが反抗期特有の苛立ちなのだろうか。数十分歩いた時の冷静になった頭で考える。

 きっかけは些細な事だった。進路の事で揉めた。それだけ。私は先程出て来たばかりの学校に気が付けば来ていた。

「璃音先生いるかな……」

 高校三年の春一番の風が私の頬をなぞる。私は校門をくぐって昇降口に入ると、迷わずに職員室に向かった。

「璃音先生いらっしゃいますか」

「東条先生なら進路指導室だ」

 真波先生が丁寧に教えてくださる。私はその声にお礼を言って進路指導室に向かった。

「失礼します」

「お、有希、どうした帰ったんじゃなかったのか」

「先生」

 私は何だかまた泣けてきて、涙を溢れさせた。

「大丈夫か」

「はい」

 数分して涙を落ち着かせて、私は手渡されたティッシュを受け取る。

「逹君と進路の事で喧嘩してしまったんです」

 璃音先生は私の真正面に座って足を組んだ。

「珍しいな、逹が進路の事で口を出すなんて」

「私が蓮さんの後を追いかけているのが気に食わないんですきっと」

「システムエンジニアか」

「はい」

 璃音先生は腕組みをして何かを考えている。私は溜息を吐いた。

「確かにSEの仕事は生半可な気持ちじゃ出来ないからな……」

「でもやりたいんです、せっかくやりがいのある仕事を見つけられたのに、こんなに否定されるとは思っても居ませんでした」

 私はただの憧れで蓮さんの後を追いかけている訳では無い。それを分かって欲しかったのだが、逹君にはまだ私が幼く見えているのだろう。

「そんなに否定されたのか」

「蓮さんをだしに自分の進路を決めるなと言われてしまいました」

「ははあ。嫉妬しているんだな彼奴は」

「嫉妬、ですか」

 璃音先生は頷く。

「いつも競い合っては蓮に負けていたから、それで有希が蓮の後を追いかけているのを知って嫉妬しているんだよ」

「なるほど、でもそれと私の進路に反対するのは筋が違うと思います」

「そうだな」

「私は進路変更した方が良いのでしょうか」

 私は多分一番情けない声を出していただろう。

「いや、こればっかりは何とも言えないな、学力テストの結果は見せたのか?」

「もちろんです」

「うーむ」

 璃音先生は考えてくださる。私もどうしたらいいか考えるが、この怒りに任せた感情のままでは良い判断は出来ないだろう。

「葵は何て言っているんだ」

「葵ちゃんは私の好きな事をしたらいいと言ってくれています」

「そうか、なら良いんじゃないか」

「え?」

「このまま好きな大学を目指していい成績を取り続ければ逹も折れるだろう、そういう奴だ」

「そんなもんですかね」

「そんなもんだ」

 私はその後も色んな話をして璃音先生にお礼を言った。

「ありがとうございます、こんな話に付き合っていただいて」

「いや、生徒の話を聞くのも大事だよ、気にするな」

 笑ってそう言ってくださることに安心して私も少し冷静になった。

「このままいい成績、取り続けてみせます」

「その意気だ、頑張れ、応援している」

「ありがとうございます」

 私はその場で璃音先生と別れて喫茶店に向かう事にした。今は帰りたくないし、勉強もしなければならない。熱くなった頭を冷やす為にコーヒーを飲もうと思ったのだ。

 近くにコーヒーが飲める場所はないかとスマホに問いかけると、「あ・ら・かると」と言う店がヒットした。聖北大学駅前にあるらしいのでそのまま徒歩で向かう。

 入り組んだ住宅街を抜けて駅前に。学生や仕事帰りのサラリーマンでそこはごった返していた。

 チリィンと可愛らしい鈴の音、コーヒーの香り、入りやすい場所にあったその喫茶店は大学生で溢れていた。そりゃそうか、此処は大学前なのだ。

「いらっしゃいませ」

「こんにちは」

 大学生の視線を一身に受けて気不味い。バイトの子が気を使ってくれたのか、カウンター席の一番端に席を取ってくれた。

「あれ、那瑠ちゃん?」

「え」

「なわけないか……」

 私はその声の主を見た。名札に「ちひろ」と可愛らしい文字で書かれている。

「あの……」

「いやあ、ごめんね、知り合いにあまりにも似ていたから」

 その人はカラッと笑った。那瑠さんの知り合いだろうか、しかし名乗り出て間違っていたら恥ずかしい、何も言わないでおく事にした。

「モカ・ラテをください、アイスで」

「承りました~」

 ちひろさんは手際よくアイスモカを淹れる、それは那瑠さんよりも早いのではないのだろうか。

「おまちどおさま」

「あっ」

 アイスなのに、ラテ・アートが。しかも私の高校の校章の模様だ。

「その制服、聖北高校だね、近くにユーモレスクって店もあるの知ってる?そっちの方が近いのにどうして此処に?」

 私はぐっと言葉を詰まらせた。逹君の双子のお姉さん、那瑠ちゃんの店だから今日はなんとなく行きにくかったのだ。

「えっと、今日は違う店にも行ってみようかななんて思いまして」

 ぐいぐい来る人だが何となく憎めない雰囲気がある。

「それは嬉しいね今後ともご贔屓に」

「はい」

 私はストローでコーヒーをちびっと飲んだ、美味しい。

「美味しいです」

「あら、ありがとう」

 ふふっと笑う彼女に既視感を覚える。やはり那瑠ちゃんの知り合いなのだろうか。いや、今はそんな事はどうでもいい。私は参考書を出して勉強を始める。今回の模試でいい点を取って逹君を見返してやらなければならない。

 外はだんだん暗くなってきて、時間は十九時になろうとしている。ちらりとスマホを見ると留守電が入っている。着信履歴からすると葵ちゃんの様だ。私はイヤホンをしてそれを聞いた。

「もしもし、葵です。今日お父さんは飲み会で遅くなるそうです。帰って来る時は気を付けて帰ってきてね。帰ってきたら私と進路の話をしましょう」

「はぁ」

 私は安堵の溜息を吐く。逹君と顔を合わせなくて済むなら帰ってもいいだろう。私はお会計をするために席を立った。

「お会計お願いします」

「あれ、もう帰っちゃうの」

「はい、また遊びに来ます」

「ありがとう」

 ちひろさんににこやかに送り出されて、少し気分が上がった。私は駅が近い事を良い事に、駅前のバス停からバスで帰る事にした。バスは学生で賑わっていた。帰宅途中だろうが、もう少し静かにしていられないのだろうか。私はイヤホンを着けて外を眺める。バスに揺られる事十数分、聖南中学校前で私はバスを降りる。この市は学生は学生証を見せればバスの運賃が無料になるので利用者も多い。私の他にも何人かここで降りる学生が見受けられた。私は運転手にお礼を言ってバスを降りた。生暖かい風が私を出迎える。

 歩いて数分すると我が家が見えて来る。逹君の車がない事を確認して私は家に入った。

「ただいま」

「おかえり」

 葵ちゃんが出迎えてくれた。手洗いうがいを済ませてキッチンに向かう。もう夕飯が用意されていた。

「晴樹たち呼んできてくれる?」

「うん」

 私は葵ちゃんに言われるまま二階に上がり皆の部屋をノックして回った。

「皆、ご飯だって」

「はーい」

「あとで行くから食べてて」

「今行く」

 夏生以外は部屋から出てきて下階に向かった。私はもう一度夏生の部屋をノックして入った。

「夏生、何してるの」

「あ、今ギターの弦の張替えしてて」

「了解、言っておくね」

「ありがとう」

 私はキッチンの向かって、自分の椅子に座る。夏生の事を伝えると、葵ちゃんはそっか、と少し悲しそうな顔をした。やはり皆で食べる方が良いのだろうか。夏生は十分位した時にやっと顔を見せた。

「ごめんなさい遅くなって」

「大丈夫だよ」

 葵ちゃんは夏生の分のご飯をよそって夏生の前に置いてやる。

「いただきます」

「どうぞ」

 葵ちゃんは自分の分にやっと手を付けた。待っていたんだ。私も葵ちゃんみたいな母親になりたいと思った。

 皆がご飯を食べ終わって、私は洗い物を始める。葵ちゃんは三年生になったんだから勉強を優先していいんだよと言ってくれるが、これだけは家族の一員としてやらせてもらいたい、と言ってやらせてもらっている。一人分少ない食器を洗う。何だか怒りが沸々と沸いてきた。

「葵ちゃん」

「ん?」

「進路の話なんだけど」

「ああ、逹君ね、蓮に負けた気分がするってぼやいてたから、気にしなくて大丈夫だよ」

「嫉妬?」

 私は璃音先生に言われたことを思い出した。

「そう、ただの嫉妬」

「そっか」

 私は何だか笑えて来た。逹君はいつも子供だなと思っていたが、やはり子供だったか。小っちゃい頃の様に蓮さんと結婚したいなんて言ったらどんな顔をされるだろうか。言わないけど。

「有希は好きな事で進路決めたらいいからね」

「うん、ありがとう」

 私は満足し、洗い物を済ませた。私はそれから自室に引き籠って受験勉強を始めた。主にセンター試験の勉強だ。過去問はごまんとある。私は集中力が続く限り過去問を解いては採点をし、間違った問題は解けるまで解いた。これが私の勉強スタイルである。模試も月一であるし良い判定を貰っておきたい。時間が許す限り問題を解いて参考書を開く。気が付けば十二時を回っていた。お風呂に入らなければならない。私は古文単語帳と着替えを持ってお風呂に向かった。逹君はもう帰ってきているだろうか。少し顔を合わせたくないという気持ちが勝って、また自室に戻る。いいや、眠くもないし三時頃にこっそりお風呂に行こう、そう決めて参考書を開く。今日は調子がいいのか過去問の正答率は八十パーセントを越えていた。主に数学の点数が良い。内心でほくそ笑む。一、二年で習った公式ばかり使うものが多かったから運が良かっただけかもしれない、そう思ってまた問題を解いていく。三年始まって直ぐに卒業生の受験勉強についての講義があって、ネガティブになれるだけなる人とポジティブになれるだけなる人と両方いて、私はネガティブに、もっと勉強している人はたくさんいると言う考えで勉強している。この判定で満足しては落とされる、そんな気持ちだ。

 それから数週間、私は逹君と顔を合わせない様に過ごした。我ながら子供じみた事をしているなと自嘲気味に笑う。もう五月、四月の模試の結果が返ってくる。そして今日の放課後に待ち受けるのは三者面談。葵ちゃんが来てくれるはずだ。放課後、私の番がやってきた。葵ちゃんの姿はまだ見えない。担任に呼ばれて進路相談室に入った。その時に現れたのは。

「すみません遅くなって」

「た、逹君!」

 私は思わず立ち上がってしまった。逹君はスーツ姿で、仕事が終わって直ぐにやって来たのだろう。気まずい雰囲気になってしまった。しかし逹君は担任に挨拶を済ませ、私の隣に座る。

「有希も座りな?」

 逹君はにこやかにそう言う。面談を潰すわけにもいかない、私は渋々座った。


 面談はスムーズに終了した。逹君は、全て有希の希望に合わせて応援します、と答えていて私は面食らった。あんなに反対していたのに。

 私は学校内を散策する逹君の後ろを追いかけた。

「ねえ逹君、どうして反対しなかったの」

「親に、そうしてもらった事を思い出したから」

「え?」

「俺さ、那瑠が行く学校って選んで、自分で選んでこなかったんだよね。その時に親に言われたんだよ、そろそろ自分の好きな事で進路を選びなさいってさ。だから、好きな事を出来ないような環境に子供達を置かせたくないって思ったんだ。好きな事を好きなようにさせてあげる環境を整えるのが親だってね、葵ともそう決めてた筈なのに、反対なんかしてごめんな」

「うん……ありがとう」

 私は何も言えなくなって、話題を何か探した。そうだ。

「ねえ、あ・ら・かるとってお店知ってる?」

 逹君は驚いたように私を見た。

「知ってるよ。那瑠が高校時代からバイトして、そのまま就職してコーヒーと経営のノウハウを教わった店だ」

「そうなんだ」

「行ってみたの?」

 逹君の話でやっと私の既視感の正体が分かった。そうか、だからあんなに笑顔が似ていたのか。

「うん数週間前に一回行った」

「今日行ってみようか、久し振りに智弘さんの顔も見たいし」

「ちひろさんて随分気さくな人だね」

「そうだね、那瑠もそれに惹かれたんじゃないかな」

「そっか」

 私達は逹君の校内散策が終わってからその店に向かうことにした。

 駅前はやはり人混みだ。私はあまり得意ではない。しかし五月の風は爽やかで気持ちが良かった。

 チリィンと鈴を鳴らして店内に入ると、ちひろさんが笑顔で出迎えてくれた。

「あれ逹君じゃない、すっかり大人になっちゃって、あらら?其方は先日の」

「星川有希です」

「俺の娘です」

 智弘さんは納得したように頷いて笑う。

「道理で、那瑠ちゃんにそっくりな訳だ」

 那瑠ちゃんにそっくりと言われるのはなかなか嬉しい。私達はカウンター席に通されて、ちひろさんの前に座った。今日は先日よりも混んでいない。

「何飲む?」

 私はメニューを眺めて、やはりアイスモカ・ラテにした。逹君はバニラ・ラテだ。ちひろさんは頷いて二人分のエスプレッソを用意する。

「いやあ、最初有希ちゃんを見た時は初めて此処に来た那瑠ちゃんを思い出したよ」

「そうなんですか」

「少し苛立っていて、それで少し泣きそうな顔をしてた。弟と家族と上手くいかないってぼやいていて、私はとびきり美味いコーヒーにラテ・アートを描いてあげたんだよ、聖北高校の校章をね」

「へぇ俺確かに高校の時よく那瑠と喧嘩したりしてたかも」

「うんうん、だからよく覚えてるよ、それからは頻繁に此処に来てくれるようになったし、バイトもしてくれたしね」

 私は興味深い話を聞けてラッキーだ。那瑠ちゃんと逹君が喧嘩をする所なんて見た事が無い。少し見てみたい気もするが、那瑠ちゃんは口が達者だから逹君が言い負かされるのが目に見える。

「はい、おまちどうさま」

 私達の前に置かれたコーヒー。とてもいい香りがする。私はそれをクルクルかき混ぜて一口飲んだ。

「美味しい」

「それはよかった」

 逹君もバニラ・ラテにトッピングしてもらった生クリームをスプーンで掬って食べてからコーヒーに口を付ける。まるでウインナーコーヒーだ。

「やっぱり美味しいなあ」

「ありがとう」

 ちひろさんはにっこり笑ってお礼を言う。私達はそれから他愛のない話をした。昔の那瑠ちゃんの話や、大学生時代の皆の話など。私は特に皆の大学生時代の話に食いついた。とても興味深い話だった。今度ゆっくり秋良や夏生に話す事にしよう。

 逹君はちひろさんと仕事の話をしているので、私は参考書を読むことにした。すっかり草臥れてしまった参考書。私のメモが沢山挟んである。何度も読んだ参考書だがまだまだ頭に入っていない部分がある。私はその部分を重点的に読んでから問題集を引っ張り出した。

「有希、そろそろ帰るよ」

「え、もう」

 気が付けば二時間ほど経っていた。逹君はお会計を済ませてスーツの上着を着ている。私は急いで参考書類を鞄に詰めて立ち上がる。ちひろさんが穏やかに微笑んでいた。

「那瑠ちゃんにもたまには顔出してって伝えてね」

「分かりました」

 私達は彼女にお礼を言って店を後にする。逹君の車が高校に停めてあるらしいので高校まで歩く。そんなに遠くない道だが逹君と歩くのは久々だ。もしかしたら幼い頃に散歩したのが最後かもしれない。逹君と歩くよりも蓮さんと歩く方が多かったから。

「なあ、進学先は本当に聖北大にするのか」

 唐突に逹君がそんな事を言う。

「うん、どうせなら逹君が通った大学に行ってみたいし、聖北大の偏差値もそんなに悪くないし」

「そうか」

 逹君はニコニコして私の話を聞く。私はそれが嬉しくて自分の夢を語ってしまった。語ってから恥ずかしくなって俯く。

「どうした」

「逹君とこんな話するなんて思ってなかったから」

「そうか」

 逹君は物憂げな顔をして私を見る。しかしこうしてみると、確かに那瑠さんと顔がそっくりだ。女装でもしたら那瑠ちゃんと見分けもつかないだろう。そんな事を考えているとあっという間に学校に着いてしまった。逹君は車の鍵を探している。私はそれを待ちながら学校を眺めた。職員室の灯りが付いている。教師という職業は大変なのだろうか。今度璃音先生と話す機会があったら訊いてみよう。

「有希行くよ」

「はーい」

 私達は車に乗り込んでその振動に身を任せた。私は後部座席で単語帳を開く。逹君はそれをミラー越しに見て微笑んだ。

「頑張ってるんだな」

「え?」

「勉強、深夜まで一人で勉強してるの知ってたよ」

「そうなんだ……」

「この間は本当にごめんな」

「私こそ、ごめんなさい」

 私達は口々に謝ってクスリと笑った。何故だか妙に心地よかった。家に着くともう葵ちゃんがご飯の用意をして待っていてくれていた。

「おかえり」

「ただいま」

 私は手洗いうがいをして急いで自室に入り着替えると、キッチンに向かった。逹君も急いで来る。六人で食べる久しぶりの夕食、葵ちゃんはとても嬉しそうだった。私は申し訳ない気分になって後で謝ろうと決心した。

 葵ちゃんの食べようかの一言で夕食に手を付ける。

「いただきます」

「どうぞ」

 家族での団欒の時間が今私にとってとても幸せだった。晴樹の話で皆が笑い、逹君のツッコミが入る。葵ちゃんの笑い声が響く。明日からもこんな日が続けばいいなと思った。

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