ドッピオと居残り学習

「夏生、夏生」

 コンコンと部屋をノックされて寝ぼけ眼でドアに向かう。オレンジ色の扉の外には「夏生、昼寝中」の札が下がっている筈だが、これを無視して来るのは。

「秋良、どうしたの」

「俺のパソコン改造し終わったから夏生のパソコンいじらせて」

 やはり秋良だった。

「いいよ」

 秋良を自分の部屋に招き入れる。

 僕達は高校三年生、既にセンター試験を課す推薦入試で三人とも聖北大学に進学が決まっていた。日曜日の暇を持て余して、僕は音楽を聴きながら昼寝をしていたところだった。

 秋良は持っていた工具箱を開けて、僕のノートパソコンの裏を開けると、新しいパーツと入れ替えたりなんだりしている。僕はそれにあまり興味が無かったのでまたソファに身体を沈める。暫くすると秋良は満足したようで、電源ケーブルを挿すと電源を付けてプログラミングをし始めた。流石の僕でも難解すぎて分からない。

「ねえ、楽しい?」

「楽しいよ」

「そっか」

 秋良はそれっきりパソコンをいじりだしたので何も言わないでおく。僕は人がいても気にせずにいられる質だったので、僕も何も言わずにその英数字の羅列を眺め続けた。僕はそのうち眠たくなってしまい、その退屈な羅列から目を逸らす。僕にとっては音楽を聴くことの方が有意義だ。スマホから流れる音楽をヘッドホンで爆音で聴く。これがなんとも気持ちがいい。母親からは耳が悪くなるから大きい音で聴くなと言われているが、たまには良いだろう。たまにになっているかは甚だ疑問だが。

 秋良は集中していて、僕はすごいなあと思った。僕は昔から注意力散漫でぼんやりしていると言われていたし、どうにも集中することが苦手なのだ。短期集中型と言ってもいい位には集中力が持続しない。授業も考え事ばかりしていたが成績は悪くなく、むしろいい方だ。褒めて欲しい。なんせ推薦枠まで取れたのだから。

 僕は欠伸をしてこの退屈な時間をどう潰そうか考える。しかし考えても何も出てこない。僕は仕方なく明日の予習でもしようと思って古文の教科書とノートを鞄から引っ張り出して予習を始める。単語帳片手にスラスラとペンを走らせるが、すぐに飽きてしまう。大学の授業は九十分もあると言うのに、こんなペースで大丈夫なのだろうか。自分の事が少し心配になった所で、秋良の作業が終わったようだ。

「触らせてくれてサンキュ」

「不具合があったら?」

「ちゃんと対応します」

「よろしく」

 秋良は敬礼して部屋を出ていく。部屋に残された僕は秋良が改造したパソコンの電源を付けて動画サイトを開いた。以前より心なしか処理が早い気がする。気がするだけかもしれない。僕は父親が好きなギターデュオの曲を練習する。動画を見ながらギターを弾くのは難しいが、これがなかなか良い練習になる。僕が持っているのはお小遣いを貯めて買ったタカミネのエレアコ。こいつは那瑠さんが選んでくれた。大学時代はギターボーカルでバンドを組んでいたらしい。何でも大人ってのはよく見えるもんで、僕も秋良も有希も憧れている人物ってのがいる。晴樹は知らない。僕は特に那瑠さんに憧れていて、よく一人でカフェにお邪魔させてもらっているし、昔話なんかも聞かせてもらっていた。何故あの人達の青春時代はあまりにも輝いて見えるのだろう。自分は友達も少なくて関わりがあるとすればバンドメンバーとクラスの趣味仲間、そして家族と親の友人達くらいしか交友関係がない。いや、そんなもんなのかもしれないが。

 僕は古文の予習をギターの練習の合間に済ませると、鞄に明日の授業分の教科書類を詰めて立ち上がる。外を見ると晴れていたので那瑠さんの店に行こうと思った。日曜日だから蓮さんもいるだろうか、有希も誘ってみよう。昔から有希は蓮さんに、僕は那瑠さんに、秋良は桜さんに憧れて、その届かない背中を追いかけ続けている。僕がなぜ那瑠さんに憧れているかと言うと、そのコミュニケーション能力の高さと豊富な知識、僕には無いものを持っている。まあ、僕の話は良いんだ。僕はどうせ三人の中でも落ちこぼれ組だから。何故か分からないが僕は二人から比べるとかなり劣っているような気がする。気がするだけかもしれないが僕は確信している。僕は劣っている。勝りたい訳では無いが、決して。有希の部屋の前に立って深呼吸をする、すると僕がノックする前に有希が出て来た。僕は焦って一歩引く。

「あれ、夏生どうしたの」

「那瑠さんのところ行こうと思ったんだけど一緒にどうかなって」

 僕はどぎまぎしながらやっと答える。どうもやはり家族といえど人と話すのは緊張する。

「行くっ」

 有希はそう答えるとダッシュで部屋着から着替えて来た。

「よし行こうっ」

「うん」

 有希は僕よりも乗り気で、僕の先をどんどん進んでいく。僕らの足では四十分くらいだろうが、さすがに有希も歩く気は無いらしく僕らはバスに揺られた。聖北高校前のバス停で降りると那瑠さんの店はすぐそこだ。

 カランカランと可愛らしい鈴の音を抜けると、CDラックをいじっている那瑠さんと目が合った。

「那瑠さんこんにちは」

「こんにちは」

「有希に夏生か、いらっしゃい」

 いつもと変わらない笑顔が眩しかった。有希はきょろきょろと辺りを見渡す。きっと蓮さんを探しているんだ。それを見て那瑠さんが笑う。

「蓮なら今呼んできてやるよ、適当にカウンターに座っときな」

「え、あ、ありがとうございます」

「はーい」

 時間はちょうど昼を過ぎたあたりで、ランチタイムのお客さんでテーブル席は埋まっていた。バイトの男の子がオーダーを取りに来る。

「私はバニラ・ラテとAランチで」

「僕はブラックティー・ラテとカルボナーラでお願いします」

「承りました」

 バイトの子が行ってしまうと、有希は此方を向いて微笑んだ。

「ブラックティーなんて珍しいね」

「最近はまってるんだ」

 那瑠さんが蓮さんを連れ立って戻って来た。蓮さんは気さくに、よおと手を挙げて挨拶して来るので、僕らもぺこりとお辞儀をした。

「なんだ、二人か、珍しいな」

 蓮さんは有希の横に座って此方を眺める。確かに僕ら三人はいつでも一緒に行動しているし、此処に来る時も三人だ。

「そんな時もありますよ」

 有希はそう答えて那瑠さんが出してくれたコーヒーに手を付けた。確かバニラ・ラテは父親が好きだなとぼんやり考える。

「ねえ夏生、そのコーヒー少し飲ませて」

「いいよ」

 僕はブラックティー・ラテを有希に差し出した。要は紅茶にミルクだ、ロイヤルミルクティーに近い。

「あ、意外と飲みやすい」

「そうでしょ」

「うん」

 有希は満足してありがとうと言うと、蓮さんに向き合った。教科書を開き始めたので講習でも受けるのだろう。蓮さんは苦笑していた。

 僕はと言えば那瑠さんの料理捌きに目を奪われていた。何といっても手際が良い、僕にも出来るだろうか。

「出来るよ」

「えっ」

「練習すりゃあ誰でも料理なんて出来るさ、何ならここでバイトでもするか」

 僕の心の声が漏れていたらしい。僕は那瑠さんの提案に頷いた。

「バイト募集してるなら是非」

「此処で料理やらコーヒーやら、盗めるものは盗んでいけ」

 僕はコクコクと頷いて目を輝かせた。那瑠さんの隣で働ける、それが嬉しかった。

「丁度大学四年のバイトの子が辞めていったばかりだから助かるよ」

「そうなんですね」

 那瑠さんは今店内を歩き回っているバイトの男の子をちらりと眺めて溜息を吐く。

「あいつも今年で大学四年だし、そろそろ新しい子探さないとな」

「僕にも色々出来るでしょうか」

「はは、出来るよ、まずはそのポーカーフェイスを剥がす所からだな」

 僕は言葉に詰まった。あまり人前で笑った事も無いし笑うと引き攣る。

「ほら、笑ってみなよ」

 那瑠さんがカルボナーラとAランチを僕らの前に置いてそう言う。僕は少しだけ笑って見せた。

「夏生……それじゃお客が逃げる……」

 那瑠さんは笑いながらそう言う。僕は溜息を吐いてパスタをつついた。僕に接客業は向いていないなと結論付けるが、那瑠さんの様に笑える人になりたい。

「うーん、笑うのが難しいならクール路線で責めるか」

 何て事を言うんだ。僕はクールじゃない。僕は慌てて首を横に振った。

「頑張るのか、そうか分かった、一緒に頑張ろうな」

「はい」

 穏やかな笑みに心癒されて僕もつられて微笑む。

「お、笑えんじゃん」

「え」

「その調子さ」

 那瑠さんはコーヒーを蓮さんの前に出しながらそう言ってくれた。蓮さんのコーヒーはいつも苦い匂いがする。僕も大人になったらあのコーヒーが飲めるようになるだろうか。

「蓮のコーヒーは一般人が飲む濃さじゃないぞ」

「え、そうなんですか」

 有希が食いついた。僕の心の声は一体どうしてしまったんだろう。これはあれだ、遺伝ってやつだ。母親の声がいつも漏れているのを思い出す。

 一口飲ませてもらえ、と那瑠さんが言うので、僕達は順番にドッピオを飲ませてもらった。

「うええ」

「……」

 有希は顔をこれ以上ないと言うほど顰めさせ、僕は即座にティー・ラテを飲んだ。苦いの一言に尽きる。蓮さんはこんなに苦いコーヒーを平気な顔をして飲んでいたのか。僕は普通のドッピオではない事を知っていたので、普通のドッピオを注文した。

「大丈夫か」

 那瑠さんが心配そうに僕を見ながらコーヒーを淹れてくれる。

「大丈夫です」

 僕は出されたドッピオを意を決して飲んだ。あ、思ったより苦くない。

「はは、蓮のドッピオを飲んだ後だから苦くないか」

「そうみたい」

「え~私にも飲ませて」

 僕は少しだけにやけながら有希にコーヒーを差し出した。

「にがっ」

 有希にはダメだったようだ。蓮さんはこの一連の流れを微笑みながら見守っている。大人の余裕だ、ずるいずるい。

 僕はカルボナーラを平らげてしまうと、数学の教科書を出した。授業に遅れないように少しでも勉強しておかなければならない、とは言ってももうセンター試験も終わり授業と言えば二次試験の対策ばかりなので、もう自由登校になってしまった僕にはあまり関係ない。

 僕は適当な問題集から問題を選ぶとルーズリーフに解いていく。その様子を眺めていた那瑠さんが口を開いた。

「夏生、学部は何処にしたんだ」

「僕は那瑠さんと同じ経済学部ですよ」

「ほう、三人とも同じ学部かと思ってたけど違うのか」

「はい、晴樹は教育学部で秋良は工学部です」

「それは楽しみだな」

 那瑠さんはグラスを丁寧に拭きながら笑う。確かに楽しみではあるが、僕の友達やバンド仲間は進路希望が違うからばらばらになってしまう。それが少し不安でもあった。

「大丈夫さ」

「え」

「慣れたもん勝ちだ、私ら六人も点でバラバラな学部になったけど、他に友達も出来るし、軽音部に入るならバンド仲間だってまた出来るさ」

「そんなもんですかね」

「そんなもんよ」

 那瑠さんはいつも僕の不安を吹き飛ばしてくれる。小さい頃から親よりも那瑠さんに助けてもらっている気がする。父親も母親も那瑠さんの前じゃ子供みたいになる。不思議だ。父親はシスコンだと聞いたことがあるが本当だろうか、訊いてみる勇気は無い。

 母親も那瑠さんの前では隠し事が出来ないと言っていたし、本当に何者だろうか。今の僕みたいに那瑠さんの前じゃ心の声が漏れているのだろう。人の顔色や仕草等で感情や思考はすぐに分かってしまうと言うが、那瑠さんもそれに長けているのかもしれない

 僕は少し和らいだ不安を完全に払拭するために問題集と向き合った。有希も黙々と問題を解いている。

 しかし此処は学生が多い。僕らの他にもちらほらと私服の学生が見える。赤本を開いている学生も見える、やはり自宅で勉強するよりもいいものなのだろうか。人の事は言えないが。

 僕は少し苦みを感じなくなったドッピオとティー・ラテを交互に飲みながらのんびり問題を解く。

「いらっしゃいませ」

 那瑠さんの声につられてつい店の入り口を見る。そこにはなんと晴樹と秋良の姿が。

「あっれー、夏生抜け駆けは良くない」

「那瑠さんこんにちは」

「よう晴樹に秋良、なんだ待ち合わせじゃなかったんだ」

 僕は溜息を吐いて頷いた。折角那瑠さんと僕、蓮さんと有希の構図が出来上がていたのに。

「夏生ドッピオなんて飲んでら」

 晴樹はすぐに人をからかう癖があるからいけない。僕は腹を立てない様に深呼吸をする。

「悪いか」

「悪くはないけど」

 僕は晴樹を睨みつける。

「怒るなよ」

「……」

 僕はそれっきり晴樹とは会話をしないで問題集と睨めっこする。こっちの方が有意義だ。喧嘩なんてしたくない。

 秋良がさっさと僕の隣に座ってくれたお陰で晴樹と顔を合わせる事は無くなった。秋良にこっそりありがとうと耳打ちする。秋良は苦笑していいよと言ってくれた。

「那瑠さん今日も可愛いっすね」

 晴樹がまた那瑠さんを困らせている。

「ははっありがとう」

「ここに俺が居る事を忘れるなよ晴樹」

 蓮さんが晴樹に釘を刺す。穏やかな笑みが怖い。彼らはそれから暫く談笑して僕はまた問題集を解き始めるがどうも集中出来ない。僕は溜息を吐いてコーヒーを飲んだ。温い。

 有希は疲れて来たのか、僕と同じようにコーヒーを飲んで一息ついた。僕と有希の目が合った。

「夏生、いつもは集中できないのにいい感じで進んでるね」

「そうかな」

「うん」

「有希は進んだ?」

「うん、だいぶ分かって来た」

 有希はにっこり笑って蓮さんと話を始めた。

「蓮さんはいつ内定貰ったんですか?」

「俺は普通に就活でアメリカ行き決定したから、直ぐに渡米してそこでシステムエンジニアになったよ」

「なるほど」

「有希もシステムエンジニアになるのか」

「はい、そのつもりです」

「そうか、厳しい業界だからダメな奴はすぐに切られる。頑張れよ」

「はい」

 有希は笑顔になってまた教科書に目をやる。蓮さんも笑顔になって講習を続けた。

 僕はと言えばすっかり勉強する気が無くなってヘッドホンを着けて音楽を流した。嫌いなわけではないが苦手な晴樹の声を聞かなくて済む。自分と同じ声だが、僕はあんなに軽率な男じゃない。

 秋良と晴樹はカプチーノを頼んで勉強し始めた。まるで学校帰りの居残り学習の様だ。

「那瑠さん、僕帰ります、お会計お願いします」

「皆で帰らないのか」

「はい」

「そうか、今度はゆっくり話でもしような」

「ありがとうございます」

 僕はバイトの子にお会計をしてもらって店を出る。

 雪がちらつき始めていた。有希の誕生日が過ぎていて、プレゼントを渡していない事に気が付き、買い物に行こうとした。僕は駅前に向かうことにした。駅前から此処は近いので直ぐに駅ビルに着く。適当にブラブラしていると数人の同級生と遭遇した。

「あー夏生ちゃん」

 僕の事は猫背とヘッドホンで判別しているらしい。秋良は目つき、晴樹は普通、と昔聞いたことがある。

「櫻井さん……」

 櫻井さんはうちのクラスの委員長で俺と同じく聖北大学に進学が決まっている唯一の友達で元恋人でもある。いや、もう向こうははぐれ者の僕に同情して友達だと言ってくれているだけかもしれないが。

「今日は一人なんだね」

「まあね」

 僕はヘッドホンを取って櫻井さんの言われるままに歩道の端に寄った。櫻井さんは他の友達に行ってて良いよと声を掛けて俺に向き合う。

「夏生ちゃん、今日機嫌悪そう。甘い物でも食べに行こうよ」

 にっこり笑う顔が那瑠さんと被った。僕は自然と頷いていた。櫻井さんの歩幅に合わせて彼女が誰かとぶつからない様に僕は彼女の左側を慎重に歩く。僕らが別れた理由は僕に合って、僕と付き合ってると櫻井さんも友達がいないとか陰口を叩かれたり、嫌な思いをさせたりするんじゃないかと言う僕の臆病さが原因だ。折角告白してくれて付き合っていたというのに酷い所業だ。僕はずっとそれを謝りたくて居たが、受験が始まりそれも出来ないでいた。またとない機会だ。謝ってしまおう。

「櫻井さん」

「なあに」

 日曜日の夕方前、駅前のアーケードは混んでいる。赤信号。僕は声が届くように身長が低い彼女の耳元で謝った。

「ずっと謝りたい事があったんだ」

「うん」

「僕と付き合ってて嫌な事とかされたりしてたらごめん、あと、僕が不甲斐無い所為でちゃんと付き合ってあげられなくてごめん」

「……そんなことないよ」

 櫻井さんは俯いてしまった。いたたまれない気持ちになる。僕は彼女の手を引いて適当なカフェに入った。ホットコーヒーを二つとニューヨークチーズケーキを頼んで席を探す。

「あのね」

「うん」

「私、皆から羨ましがられてた。夏生ちゃんと付き合えてる事がステータスみたいに思えてた時もあった。だから私の方こそゴメン」

「そうなんだ……」

 僕らは暫く無言でコーヒーを飲んでいた。僕は那瑠さんみたいになりたい、それを思い出していた。

 僕は微笑んでみた。まずは表情から。

「これで、お互いわだかまり無くなったね」

「えっ、うん」

 櫻井さんは驚いた顔をしていたがまたすぐに微笑んでくれた。

「櫻井さんありがとう、誘ってくれて」

「うん、こちらこそありがとう」

 僕らはそれから少し話をして駅前まで行ってから別れた。お互いに心地よい関係に慣れた気がする。そうか、僕の想い過ごしで良かった。櫻井さんがいじめられて居なくて良かった。僕の評判も悪くないことが分かったし、それも良かった。僕は少しだけ猫背を直そうと思って背筋を伸ばして歩いた。


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