ミルクココアと砂時計
今日はいつもより早く目が覚めた。外はまだ薄暗くて太陽もまだ半分も顔を出していない。隣には大好きな旦那が口許まで毛布を掛けて寝息を立てている。
ちょっと散歩でもしてみようかな。
いつもと違うことがしてみたくなって、私はこっそり布団を抜け出した。音を立てないようにそっと着替えて、足音も立てないように廊下を歩いた。少し廊下が寒かったからもう一枚何か羽織ろうと思って部屋に戻る。まだ彼はぐっすり眠っていた。仕事を持ち帰って遅くまで報告書を書いていたから疲れているのかもしれない。
「あおいちゃん、どこ行くの」
「え」
靴を履いていた時だった。驚いて後ろを向くと、そこには眠たそうに目を擦る娘がいて、私はほっと息を吐いた。
「散歩だよ、まだ寝ていたら?」
「ゆきも行く」
「外寒いかもよ?」
「平気だもん」
「ふふ、仕方ないなぁ」
娘の有希は一度決めたら言うことをきかないので、私は風邪を引かせないように暖かい恰好をさせた。もしかして他の子供も起こしてしまったかなと心配になって、一応弟たち三つ子の様子を見に行ったが、こちらはスヤスヤと眠っている。
「よし、じゃあ行こうか」
「うん!」
もうすぐ秋になろうという頃だからやっぱり外は寒くて、有希を見るともう頬を赤く上気させていた。汗をかいてもいいようにタオルでも持って来たら良かったけれど今更戻るのも面倒だ。
「有希、どこか行きたいところある?」
隣でスキップする有希を見てそう尋ねる。朝の散歩は初めてだからか、いつもより楽しそうだ。
「んー。えっとね、いつも行く、コーヒー屋さんのところ行きたい」
「コーヒー屋さん?」
「なるちゃんのとこ!」
有希はニコニコとこちらを見上げている。どうやら冗談ではないらしい。この間夫が有希に冗談の言い方なんて教えていたのを思い出した。本当に変なことを教えるのはやめてほしいと常々思う。
「那瑠ちゃんのコーヒー屋さん遠いよ?いいの?」
コーヒー屋さんとは、親友がやっているカフェのことで、那瑠とはその親友の名前だ。みんながそう呼んでいるから、有希もそれで覚えてしまったらしい。
カフェはここから車で二十分程離れた場所にあって、流石に歩くのはきついが、有希の目は輝いている。
「きょうは日よう日でようちえん行かなくていいからいいの!」
有希は真面目な顔をして見てくる。我が娘ながらかわいい。夫の家の血を濃く受け継いでくれて良かったと切実に思う。
「よし、じゃあ行っちゃうか!」
「うん!」
言っちゃった、と言ってから後悔したが有希はもう行く気満々だ。私の前をどんどん歩いていく。
「あんまり早く行かないでね、後から疲れちゃうよ!」
「はーい!」
とは言うものの、私も有希もテンションがいつもよりも高くて、走ったり歩いたりを繰り返しながら、一時間くらいで本当に親友の店の前まで来てしまった。
「あ」
そして二人で声をそろえた。
来る前に考えていれば良かった。こんな朝の七時をちょっと過ぎたくらいの時間に、お店が開いているはずがない。目の前にクローズの札が出ているのを見て少し後悔した。
「有希、お店開いてないし、かえ」
「あいてる!」
私が帰ろうかと言い終わる前に有希は精一杯の背伸びをしてドアノブを回して押していた。
「え、ちょっ、なんで?」
本当ならば開かないはずのドアが開いてお互いに軽いパニック。
「あいた、あいた!」
カランカランと可愛らしい鈴の音がして、ドアはゆっくりと有希の手によって開かれていく。
那瑠は用心深い人なのに、鍵を閉めて帰らなかったのだろうか。
「うふふ……」
有希はこの何とも言えないスリルを楽しんでいるのか、少し唇を噛んでにやけた顔をしながら、開けたドアの隙間から入っていく。
「有希、ダメだって」
大きい声を出すのは憚れて小声で言うが、有希には聞こえていないようで風除室のドアを開けて店の中に行ってしまった。
「あーもー……」
仕方無く自分も中に入る。店内はやっぱり暗かったが、カウンター席の向こうと調理場の明かりが点いていて、ホッと溜息を吐いた。
調理場から何かを調理する音がするので、やっぱり彼女は居るのだろう。
気が付くと有希の姿が見当たらない。どこに行ったのだろうか。
「あれ」
有希はどこだろうとカウンター席に近付くと、見知った感じの男が伏せて寝息を立てていた。有希はその隣にちょこんと腰かけてニコニコしている。
「なんだ、葵が有希と来たんだ」
「え、あ、ごめん!」
いきなり声をかけられて体が大きく跳ねた。ドキドキしながらそちらを見ると、彼女がカウンター越しに苦笑しながら私たちを見ている。
「いや、悪いことはないけど。早い時間に散歩、いいね」
那瑠はコーヒーを飲みながら座ったらとジェスチャーした。座らない理由は全くないので大人しく有希の左側に腰をかける。
「なんか飲む?好きなやつ飲んで行ったらいいよ」
「あ、じゃあ、あたしはカフェ・オレがいいな」
「ゆきも!」
有希の言葉に彼女は笑った。彼女は笑いながら、寝ている男の前にあったカップを洗っている。
「有希にはまだ早いんじゃない?」
私も彼女も笑みを零した。やっぱりかわいい。
「ゆき、今度からコテキタイのタイチョウさんもやるんだよ、おねぇさんだよ!」
有希は頬を膨らませて、那瑠の方に身を乗り出す。怒った時の眉の上がり方が父親にそっくりで何だか嬉しい。
「あ、有希、怒った時のその顔、アイツにそっくり」
「それ、あたしも思った。そっくりだよね」
私たちは顔を見合わせてから有希の顔を眺めた。
「む……」
椅子に座りなおして恨めしそうな表情の有希を見て、那瑠は困った顔をしながら口を開いた。
「そうかあ、じゃあ、葵と同じが良いならココア・オレにしたらいいよ」
ただのミルクココアじゃん、というツッコミはこの際言わないでおく。
「なにそれ!」
「ココア・オレはな、カフェ・オレの友達でさ、ちょうど葵と有希みたいに仲良しなんだよ」
「そうなの!じゃあゆき、ここあ・おれでいいよ!」
那瑠の言葉に有希は素直に頷いて、きちんと椅子に座りなおした。彼女が出してくれたのか、きちんと子供用の椅子に座っている。
彼女は洗ったカップを拭いてから私たちの飲み物を作ってくれた。相変わらず丁度よい濃さだ。
「そういえば、アイツは今日休みなのか?」
熱いドッピオを淹れながら、那瑠はそう聞いてきた。言わずもがな、私の旦那の事だろう。
「うん、今日は休みで、珍しく火曜日に有給取ったみたい。たぶん今も寝てると思う。なんで?」
「そうか。いやー、蓮が昨日、一杯引っかけてから来てさ、『火曜に休み取ったから何処か行こうぜ。』とか本当か嘘か分からない事言うから、逹もそうなのかなと思って」
ふわっとドッピオの苦い香りが広がる。それはたぶん有希の隣で突っ伏して寝ている蓮の為だろう。
那瑠も蓮も何も言わないが、私は二人がお互いを好きあっていると思う。お互いの事私より分かってるし、知ってるし。本当の事は分からないけれど。少しだけ羨ましい。
「あ、火曜日、ここ定休日だもんね。二人で話したのかな」
「さあ、わかんないな、八時に起こせとか言ってたけど、蓮の寝顔なんて珍しすぎて起こせないし」
那瑠は蓮の顔を覗き込んでクスクスと笑った。
今現在八時五分。
そういえば、高校の時からの付き合いだけど、蓮の寝顔なんて見たことない…
私はカップを置いて、そっと立ち上がる。有希は不思議そうな顔をして私と那瑠の間に視線を行ったり来たりさせた。
よくよく考えると、最後に蓮と顔を合わせたのは、有希が四歳になる前だった気がする。年賀状やメールでしか、有希は彼の顔を見たことが無いかもしれない。それにここ三年くらい、彼はイギリスやアメリカに企業留学していたと聞くし。
「どれどれ…蓮の寝顔」
私が回り込んで顔を見ようとした時、ちょうど蓮のスマホのアラームが鳴った。有希も私も肩を大きく跳ねさせる。
「くっそ」
覚えているよりも目つきの悪い表情で、アラームは彼によって消されてしまった。
「残念だったね」
けらけらと笑いながら、那瑠は作ったドッピオを蓮の前に置く。
私は渋々、自分のカップの前に座った。こんなスカシを食らったのはどんなに久し振りだろう。大学卒業以来だから、六年振りくらいかもしれない。
「お兄ちゃん、かっこいいね」
「え」
唐突に有希がそう言った。那留は噴き出して爆笑して、私と蓮は目を丸くして有希を見る。
「あ、ありがとう」
蓮は私よりも早く立ち直ってそれだけ言うと、コーヒーカップに口をつけた。
まだ眠たそうな顔をしているが、思ったよりもずっと男らしく大人な顔つき。そんなに月日は経っていたのか。
「蓮、こんな子供にもモテるの。なんか目覚めそうだね」
人のショックを余所に、そんな事を彼女は言う。そういえば、中学の頃彼氏を家に連れてきたのを見て、うちの両親はとてもショックだったと言っていた。そんな気にすることないのに、と思っていたが、ああ確かに。娘に彼氏が出来たらこんな気持ちかもしれない。
「馬鹿野郎。そんな趣味はない」
蓮の言葉に人知れず安心する私。て言うか、幼稚園児と三十間近の男が付き合ったらおかしいよね、犯罪だよね。よし、有希は渡さない。
「おい、葵。久し振りだけど、その心の声は全部聞こえている」
蓮は相変わらずポーカーフェイス。
「有希と蓮が付き合うとか……有り得な過ぎる」
那瑠は未だ笑いを堪えている。面白くないぞ、死活問題だ。
「あおいちゃん……」
有希までそんな目で見ないで。可愛いけど。
私は三人の視線を受け流そうと視線をカフェ・オレのカップに落とした。飲むのが早いらしく、カップはもう空になってしまった。カップの底に綺麗な三日月が出来ている。底に三日月が出来るのは美味しいコーヒーの証だとか聞いたことが有るけれど、本当かどうかは分からない。
「そういえば、葵たちは歩いて帰るの?」
那瑠は調理場から何かを持ってきながら聞いてきた。私が大好きな甘すぎないケーキ。それを眺めながら少し私は思案した。
「逹に迎えに来てもらおうかな。私歩くの疲れちゃったし」
私の言葉に那瑠は小さく笑みを零す。どうせそう言うと思ったとか言って既に夫が迎えに来ているように電話しているんだ、多分。
「ふ、葵、そうやってデザイナーの仕事部屋の中でやるから動きたくなくなるんだ、太るよ」
「なっ」
「仕事場でやったらどう?一応事務所あるんだし。子供もデカくなったし」
「ううっ」
痛いところを突かれた。でも私の目の前にある美味しそうなモーニングとケーキは?食べていいの?
「食べていいよ」
那瑠は苦笑してそう言う。どうやらまた心の声が心の声にならなかったようだ。ありがたいのか、ありがたくないのか、この癖は治らない。
「なるちゃん、ゆきは歩いてかえられるよ」
有希がモーニングに付いている手作りのジャムをトーストに塗ってからそう言った。なんだか大人になったね……
「そうかぁ、じゃあ私とお昼に歩いて帰ろっか」
「うん!」
「え、ちょっと、那瑠が一緒に歩いてくれるなら私も歩いて帰る」
「マジか」
「……子供か」
蓮がハムエッグをつつきながらボソッと呟く。私は蓮とか桜さんと違って精神年齢が幼いんです!とは言いたくないが、那瑠と一緒に居たいので、これは譲れない。
「うっ、れ、蓮は?これからどうするの?」
「俺は今日ここで商談だ。那瑠、風呂借りるぞ。」
「どうぞ」
蓮はあっという間にモーニングを食べ切ってしまうと、奥にある住居スペースに入って行ってしまった。ここは那瑠自身の自宅に併設している形でカフェがあるのだ。
「いいな、蓮は那瑠の彼氏みたい」
「いいなって、どういう意味よ」
彼女はさっさと食えと言わんばかりに、私の目の前にあるモーニングを顎でしゃくってみせた。私がこんがりまで焼いたトーストが好きだと知っているからなのか、メニューの写真よりもきつね色になっている食パン。お店に売っている食パンより絶対美味しい。
「ねぇ、このトースト、どこから仕入れているの?」
不思議なことを訊くかもしれないが、家でこれが食べられるのなら、買ってみようかなと思ったのだ。
「あぁ、小麦は普通にアメリカ産、バターはスイス、イースト菌はそこらに売ってるやつで、あとは……」
「もういいや」
材料をききたかったわけではないんだ…多分こんな風に原材料を言うっていう事は、きっと手作りのパンだろう、売ってくれないかな。
「売ってるよ」
「買う」
私は脱力した。また心の声が漏れていたようで肩を落とす。隣で有希が心配そうな顔を覗かせた。
「ゆきにも食べさせてね」
「もちろんだよ。何して食べようか?」
「マーガリンに、はちみつと、お砂糖がいい」
私はちょっと眉をよせる。あんまりカロリーが高いものは食べさせないようにしていたから、そんな風に言われると少し困惑する。
「逹に食べさせてもらってるんじゃないの?」
「あ……」
那瑠の言葉に有希が気まずそうな顔をした。私には内緒にしないとね、とか逹に言われていたのだろう。甘いものが好物な彼のやりそうなことだ。
「葵、怒るなって」
那瑠は眉を下げて有希の頭をぽんぽんする。
「どうせ葵も逹がいない時に子供らと美味いもん食べてるでしょ」
「ゆきね!あおいちゃんといっぱいケーキ屋さん行くよ!」
有希は那瑠の前だと何でも話してしまうから、内緒の話は全て彼女に筒抜けになっていた。
那瑠はまた笑った。高校で初めて会ってから変わらない笑顔だ。
「やっぱり、ケーキ食べてるならハニートーストも変わんないよ」
彼女はけらけらと笑いながら時計を見た。つられて私も時計を見た。八時半を少し回ったところだ。今頃日曜の朝のアニメラッシュのために有希の弟たち三つ子が起きている頃だろう。もしかしたら私がいないことに気が付いて軽くパニックになっているかもしれない。
「ちょっと私、逹に電話して三つ子のこと見てもらう様に起こさないと」
「その方が良いね。何ならアイツに車で迎えに来てもらったら?」
那瑠の提案に私は頷いて電話をかけた。数コールしたところで電話の向こうで欠伸を噛み殺した逹の声がする。
『おはよう、どこに居るの』
「今那瑠の店に有希と来てるの。もし大丈夫だったら三つ子連れて迎えに来てくれないかな」
『いいよ』
逹は二つ返事でそういうとモソモソと動き出した。
『三人は何とか連れていくよ。ただアニメを見てからじゃないとイヤイヤするだろうから少し待ってて』
「うん」
それから他愛のない話を少しして私は電話を切った。顔を上げるとにんまりと笑う那瑠と目が合った。
「夫婦らしくなったね、姉として嬉しいよ」
「ちょっと、からかわないでよ」
私はそう言いつつも嬉しかった。私からしたら双子の二人を引き離すような事になって少し心配していたのだ。なんせ私の夫はシスコンかと言うほどに那瑠の事を好いていたから。
「さて、アイツの為にバニラ・ラテでも淹れるか」
彼女は豆を焙煎する際に使う砂時計をカウンターにコトンと置いた。
「私、ココア・オレ飲みたいな」
「ゆきも!」
那瑠はまた笑いながら言う。
「三つ子も来るんじゃ大所帯だな。葵、今だけモーニング作るの手伝ってよ」
「うん!」
私は大きく頷いて、あの頃から大好きな彼女の隣で砂時計をちらりと見た。半分ほど砂が落ちていた所で、私は有希と顔を見合わせて笑った。
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