アメリカンと設計書

 八月某日土曜日、蒸し暑い外の空気を胸に吸い込んで、私はある工事現場に足を運んだ。約十年前に卒業した高校の近く、河原を目前にした気持ちの良い土地だ。

 手元には細かい間取りが手書きで書かれている資料と、鷹之宮財閥のロゴマークが入った紙袋。現場にいるとび職人に紛れた親友を見つけて、私はそちらに手を振る。

「随分早いね」

 彼女のほうに駆け寄っていくと、彼女は気不味そうにヘルメットを脱いでそう言う。高校の頃あんなに長く伸ばされていた髪は、ポニーテールが出来ないくらいに短くされているし、以前よりも日に灼けて、その顔は小麦色になっている。

「ええ、蓮が口を割ったので、予想よりも早く貴女の尻尾を掴むことが出来ました。これ、差し入れです」

「蓮……」

 彼女が随分早いとぼやいたのは、新しく店をオープンさせるという彼女の考えを私が知った事だ。

 彼女は深く溜息を吐きながら私が差し出した紙袋を受け取った。

「ゼリー?」

「今度うちで出す新商品の試食です。感想聞かせて下さいね」

 私はつい営業スマイルを作ってしまう。長年、他社に自社を売り込んできたので、そうそうこの癖は治らないだろう。

「分かった。皆に振る舞うよ」

 彼女は困った顔をして頷いてくれる。彼女は昔から私のお願いをきいてくれていたなと、ふと思った。

 今日ここに来たのは他でもない彼女の話を聞くため。いつかは自分の店を出すと言っていたが、こんなに早く、しかも何の手伝いもさせずに工事を終わらせてしまうなんて、水臭いにも程がある。しかももう足場の解体が始まり、内装工事も終盤といったところだろうか。

 お店をオープンさせるときは私の会社に任せてくださいねと言っていたのだが、その約束は果たされないまま終わってしまうところだった。

「さて、本題ですが」

 私がそう言うと、彼女は先程よりも気が重そうな顔をする。

 通された事務所の中に珈琲の香りが広がった。彼女がこだわるミディアムに挽いた豆の香りだ。

「私がやることも、もちろん残っていますよね?」

「いや……」

 座った私の前にカップが置かれた。彼女が淹れたとびきり美味しいアメリカンアイスコーヒー。

「悪いけど、この店は自分の力で建てたいんだ。一から十まで」

 予想通りの答えと、相変わらず気まずそうな顔の彼女。

「自分だけの人脈と売り込みでどれだけの事が出来るのか試したかったんだ。だから鷹之宮の力は借りたくない」

「私はその人脈の中に入らないのですか?」

 眉を下げた彼女の顔は見たくないが、私もきっと彼女に負けず劣らず下げ眉になっているだろう。

「確かに鷹之宮は人脈で言ったらトップだろうけど、同級生で親友だからっていう点で外させてもらったんだ。桜なら二つ返事で協力してくれるだろうし、求めた事以上に出資してくれたでしょう?」

「それは、もちろんです。大切なあなたのお店なんですから、他のカフェや同系のお店から引けを取るなんて私には許せません」

 彼女は私に出したアメリカンコーヒーと同じものを自分に淹れて口を付けた。私も同じように冷たい珈琲を飲んだ。美味しい。

「美味しいです」

「良かった」

 彼女が少しだけ笑顔になった。そうしてから私の真正面の椅子に腰を落ち着けて溜息を吐いた。

「桜、お願いだから今回は自分の力を試させてほしい」

 那瑠が俯いてしまった。いや、頭を下げたと言ってもいい。私は慌てて立ち上がる。

「な、那瑠、顔を上げてください、私はそんな事をしてほしかった訳ではありません」

「頼む」

 私は唖然として那瑠に駆け寄って上体を起こさせた。那瑠は泣きそうな顔で唇を固く噛み締めている。私は思案してから口を開いた。

「……お花は上げさせてくだせいね」

「桜……ありがとう」

 那瑠はやっと幾分か楽になったような笑顔を向けてくれる。私は座り直してまた珈琲を飲んだ。カランと氷が音を立てて溶けた。

「設計書はご自分で?」

「ああ、一から十まで一人でやるって言っただろう、何度も書き直したよ。設計書って難しいんだな」

「ええ、そうですね」

 私は彼女から設計書を受け取って、目を通した。なかなか良い店の設計書だ。

「あら、こちらは……」

 私は設計書の店ではない部分に気が付いた。もしかしてこちらは。

「自宅兼店舗という訳ですね」

「ああ。丁度いい機会だから自宅もくっつけてもらったんだ、建築士にこの店の設計を気に入ってもらえてね、どうせなら自宅も作ったらどうだい安くするよ、なんて言われちゃったからさ」

「なるほど、では調度品は此方でご用意いたしましょう」

「桜……」

 私は否定の言葉を待たずに言葉を続ける。

「那瑠の住まいの一部に私の想いを込めさせてくださいな、他の事には口を出しません。もちろんきちんとお金は受け取ります」

「……」

 彼女は暫く口を噤んだまま思案し、やっと口を開いた。

「分かった、その代わり中途半端な仕事はしないでくれよ」

 私は笑顔になって大きく頷く。

「もちろんです、すぐカタログ作成してきますね」

「おいおいカタログから作るのか?既存のカタログで充分さ」

「何を仰います、那瑠の好みに合わせて作らせて頂きますよ。なんせ万人受けするような調度品で貴女が満足するとは思えませんから」

「なるほど、それならお願いしようか。オーダーは木目のきいた家具だ、金属部分は仕方ないけど、深い色合いの物で頼むよ」

「承りました」

 私はウキウキしてきた。いつも足を引っ張っていたばかりの私がとうとう彼女の役に立てる。そう思うと心が弾んで仕方なかった。

「高校時代に戻った気がします」

「そうか?いつも助けてもらってた気がするけど」

「何を仰います、生徒会の影の立役者は貴女ですよ」

「そうだったかなあ」

 那瑠の出生の謎を巡って私は誘拐されたりしたのだ。それを助けてくれたのは他でもない那瑠自身。あの頃はハードエスエフの映画の中に閉じ込められていたが、無事事件も解決して私はこうして財閥の跡継ぎとして働く事が出来ている。それもひとえに那瑠のお陰だ。

「高校時代は激動でしたね」

「そうだなあ、色々迷惑かけたし怖い思いもさせたからな……悪かったと思ってるよ」

「いえいえ、今ではいい思い出です」

 少し笑って見せると、那瑠も笑い返してくれた。暫く私たちの思い出話に花が咲いて、気が付けば昼を回った所だった。とび職の男性陣が昼休憩の為に続々と事務所に入ってくる。

「星川さんが美人連れ込んでらぁ」

「マジすか、俺も見たい」

 私は営業スマイルで彼等とやり取りし、先ほど渡したゼリーを振る舞った。それらは好評だったようで、商品開発の面々が喜ぶであろう感想を沢山貰った。那瑠は席を彼等に譲って隅の方で珈琲を啜っている。

「では長々とお邪魔しました」

 結局昼休憩が終わるまで帰してもらえず、彼等の食事と話に付き合いながら、私は一時間そこで過ごした。

「皆の話に付き合ってくれてありがとう」

「いえいえ、こちらこそ楽しい時間をありがとうございます」

 昼休憩が終わった後も那瑠と少し話をして、私は大いに満足した。久し振りに親友と会えたのだから、この位の時間は許してもらおう。次の仕事の時間まで食い込んでしまったから、きっと秘書から鬼の様に留守電が入っている事だろう。

 私は那瑠に抱き着いた。

「おいおい、どうした」

 那瑠は驚いていた様だが私の背中をポンポンしてくれた。お日様の匂いがする。

「いえ、充電です」

 彼女はふふと笑った。身長差があるため、傍から見れば覆いかぶさっている様に見えるだろう。

「充電か、好きなだけしていけよ。次の仕事もあるだろうし」

「はい」

 那瑠は笑っていたが、私は何だか泣きたい気分になってきた。数ヶ月ぶりに抱き締めた躰はなんだか痩せて、思ったよりも薄くなっていたからだ。

「那瑠……三キロは落ちましたね」

「……何でわかった?」

「会う度に抱き締めさせてもらっていますから……今何キロです?心配ですよ、これだけ痩せてしまったら」

「桜に隠し事は出来ないなあ」

 頼りなさげに彼女は笑う。そして今四十三キロだと言った。

「痩せすぎです、ちゃんと食べていますか?」

 私は本気で心配になって彼女の顔を見た。百五十五センチメートルしかない躰が益々小さく見える。

「いや、最近体調悪くてさ、ロクに食えてない」

「嘔吐は?」

「いや、吐きはしないけど極端に食う量が減ったし、腹が空かないんだ。コーヒー一杯で一日過ごす事も珍しくなくなったよ」

 彼女は自嘲気味に笑って私の顔を見た。澄んだ薄茶色の瞳とぶつかる。

「いけませんよ……明日また来ます、その時に差し入れしますから食べてくださいね」

「ああ……」

 彼女が頷いたのを確認して私は別れを告げた。名残惜しかったがこれ以上此処にいても仕事の邪魔になるだろう。事務所から出るとまた蒸し暑い風が私を出迎えた。歩きながら事務所を振り返ると、那瑠が真剣な眼差しで設計書を眺める姿がちらりと見えた。

 私は足早に本社へと向かいながら秘書の千晶に電話を掛けた。案の定留守電が鬼の様に入っている。怒られるだろうか。

「もしもし、私です」

「お嬢様、一体何処に行かれているのですか」

 予想とは反して呆れ声が返ってきた。それにしても……

「千晶……そろそろお嬢様はお辞めください……」

 千晶と私とは幼馴染で彼女のお父様は私の父の秘書をしていた。その小父様が私の事をお嬢様と呼んでいたので昔から私は彼女からもそう呼ばれていたのだった。

「お嬢様が社長としての自覚をお持ちになりましたら、社長と呼ばせて頂きますよ。さあ何処に行かれているのです、東条家との会食は会長が行かれていますよ」

「お父様が。それは大変申し訳ない事を。私は直接東条家に向かいます、貴方も車でいらしてください」

「ピックアップしますが、今いらっしゃる場所からは近いのですか?」

「ええ。目と鼻の先です」

 東条家とは璃音の家の事で、私は今年籍を入れたばかりなのであった。私は千晶との電話を切り、璃音に電話を掛けた。

「もしもし桜?」

 璃音はすぐに電話に出た。

「ああ、璃音、今那瑠の所に行っていたのです、詳しくは後で話しますね。取り急ぎご連絡まで」

「わかった、会長にもそう伝える」

「ありがとうございます」

 早々に電話を切り私は走った。東条家は母校、聖北高校のすぐ近くなのでここからそう時間はかからないだろう。

「遅くなりました、すみません」

「問題ない」

 璃音がすかさずそう言ってくれたお陰で特別お咎めも無く席に着く事が出来た。会食は滞りなく終了し、私たち二人は璃音の自室に向かった。

「それで那瑠はそこに店を建てているのか」

 私は先程の事を彼に報告しながらソファに腰かける。

「ええ、その様です」

「楽しみだな」

 体重の事は乙女の秘密と言う事にして、話は進んでいく。璃音は自分の勉強机の端に寄り掛かって私の顔を眺めている。

「なんです?ジロジロと」

「いや、何でもない」

 含みを持たせた様な余裕のある笑みだ。少々癪に障る。

「明日もう一度那瑠の所に行って、ランチでもと思っていますが、ご一緒にどうです?」

「それもいいな」

「では明日十一時半に迎えに来ますね」

「分かった」

 私たちはそれから他愛のない話をして、私は千晶の車に乗った。これから会社に戻って早速カタログを作るのだと千晶に言うとクスクスと笑われた。

「本当にお嬢様はお友達の事を優先なさる」

「悪いかしら?」

「いいえ、他のお仕事にも精を出して頂ければ幸いです」

「やるべき事はこなしていますよ」

「分かっていますよ」

 依然笑みを浮かべたままの千晶に腹を立てながらも、車は順調に進んでいく。私は鼻歌を歌いながら流れる景色を眺め、車の振動に身を任せた。

「着きましたよお嬢様」

 いつの間にか考え事をしていた様で、気が付けばもう社用入り口に車は止まっている。私はドアを開けてくれた彼女にお礼を言って社内に入る。数人の黒服が深々とお辞儀をした。

 私は社長室に入ると、早速カタログ作りに取り掛かろうとしてパソコンのスリープを解除する。その時丁度私用の携帯に電話が掛かってきた。

「あら」

 葵だ。私はウキウキして電話に出た。

「もしもし」

「さくらさんだ」

 この声はもしかして。

「秋良君?」

「うん」

 私は破顔した。度々彼、葵の息子である秋良君からは電話が掛かってきたり、謎のメールが届いたりしてきているので、今日もきっと葵の目を盗んでスマホをいじっているのだろう。

「さくらさんげんき?」

「元気ですよ、秋良君はお元気ですか?」

「うん、ぼくげんき」

「それは良かった」

 遠くからパタパタと走り寄ってくる音が聞こえた。

「わー!見つかった!」

「こら秋良!桜さんごめんね、最近スマホの使い方覚えちゃって」

「いえいえ、良いのですよ」

「ありがとう、いつも秋良は桜さんにばっかり電話やらメールやらするんだよね」

「あら、私にだけですか?」

「うん、そうなの。秋良は機械見るとテンション上がっちゃって、何でも興味示すよ。学校のパソコンも先生に使い方教えてもらってるみたいだし」

 それは良い事を聞いた。気に入ってもらえるのは素直に嬉しい。

「今度私の会社の工場見学にご招待しましょう」

「ええ?それは悪いよ」

「いえ、決めました。小学校の入学祝いもしていませんでしたし、もうすぐお誕生日でしたよね」

「出た、桜さんの、決めました。これは覆せないな?確かにもうあと三ヶ月ちょっとで誕生日だね」

 秋良君の他に晴樹君、夏生君という三つ子の兄弟がいるので、星川家は大所帯である。私は一人っ子だったし、まだ子供も居ないので我が子の様に親友の子供たちが可愛くて仕方ない。

「この夏休み中にご招待状を送るので受け取ってくださいね」

「分かった、ありがとう」

 葵は笑いながらそう言ってくれた。私が子供たちを可愛がっているのは筒抜けの様だ。

「ぼくもさくらさんとはなす!」

 後ろから秋良君がトントンと飛び跳ねている音がする。何とも可愛らしい。

「はいはい、どうぞ」

 葵からスマホを受け取ったであろう秋良君はふふと笑って話しかけて来る。

「もしもしさくらさん」

「なんでしょう」

「こうじょうけんがくさせてくれるってほんとう?」

「ええ、本当ですよ」

「やったあ」

「楽しみですか?」

「うん!」

「それは良かった」

 秋良君の元気な返事を貰って私も満足である。私達はその後も少し話をして最後に葵と代わってもらった。

「明日那瑠と会う予定があるのですが、葵もいかがですか」

「本当?最近連絡取れてないから会いたいなあ」

「では昼間十一時半過ぎにお迎えに上がりますね」

「分かった、ありがとう」

 葵とは気心の知れた親友であるから、皆で会うのも楽しいだろう。那瑠に元気になってもらいたいのもあるし、久しぶりに皆で会うのも悪くない。私は別れの挨拶をして電話を切った。

 カタログ作成は順調に進み、十八時を少し回った所で確認作業に入った。もう土曜勤務の社員も帰ったことであろう。

 私はそこで人数が増えた事を那瑠に報告する為に電話を手に取った。文字を打つのが億劫だったので電話を掛ける。那瑠は数コール後に電話に出た。

「もしもし桜、どうした」

「那瑠、明日璃音と葵も同席します」

「葵までどうしてまた」

 私はさっき電話が来た事を話す。

「なるほどな、分かったよ。そうだこの後時間あるか?」

「ええ、ありますがどうしました」

「さっき店が出来上がったんだ、折角だから何かご馳走しようと思って」

「あら、開店前に良いのですか?」

「ああ」

 那瑠は疲れた笑いと共に何が食べたいか訊いて来た。

「ではオムライスが食べたいです」

「オムライス?オムライスでいいのか?」

「ええ、高校時代に一度食べさせてくださった時美味しかったので」

「はは、そんなこともあったな」

「楽しみにしていますね」

「ああ、買い出しに行くから、居なかったらちょっと待ってて」

「分かりました」

 電話が切れた事を確認して私は外に出る。いまだに熱い風が私を出迎えた。千晶はと言えば車の傍で待機していて、私は気の毒になった。

「千晶、中で待っていても良かったのですよ」

「お嬢様、ありがとうございます。今度からそうさせていただきますね」

「ええ、熱中症対策もしてくださいね」

「気を付けます、さあ暑いので車に入ってください。ご自宅でいいですか?」

「いえ、寄る所があるので」

 私は目的地を千晶に伝えると、千晶は笑顔になった。

「ほう、那瑠さんのお店ですか、私もお邪魔したい」

「いいんじゃないですかね、久しぶりにお仕事モードから抜け出した千晶も見たいです」

「ふふ、それは難しい注文ですね」

 千晶は車を走らせて笑う。流石にもう昔の様に桜とは呼んでくれないかと思うと少し悲しい気もする。

「久しぶりに桜って呼んでください」

「お嬢様」

「呼んでくださらないのですか」

「お嬢様」

「頑なですね」

「ふふ」

 ちょっと不貞腐れて、私は背もたれにどっと体を沈めた。夕陽が眩しくて目を細める。

「着きましたよ、お嬢様」

「はい」

 私はカタログに目を通していて店に着いた事に全く気が付かなかった。足場が解体されて夕陽に照らされる那瑠の店が目前にある。植え込みも綺麗になって、深い茶色の外壁とよく合っていた。屋根の上で風見鶏がクルクル回っている。私は車から降り、風除室のドアを押し開けてアンティーク調の扉も開けた。そこでは既に那瑠が調理を始めていた。先程は作業着だったが、白のワイシャツにカフェエプロンという格好になっている。とても似合う。

「早かったな」

「ええ、車ですから」

「こんばんは那瑠さん」

「お、千晶も来たのか。適当に座って待っててくれ」

 私達は促されるままカウンターに座る。木とコーヒー豆の焙煎されている香りがとても良い。

「千晶もアメリカンでいいか?」

「はい、お任せで」

「オーケー」

 すると誰も来ないはずの扉が開いて、カランカランと可愛らしい鈴の音が響いた。

「やっと来たな」

「蓮、どうしてここに」

 現れたのは橋本蓮、彼もまた私の親友である。この店の事を教えてくれたその人だ。

「よう、那瑠に呼ばれたから来たんだ。お、千晶久しぶりだな」

「お久しぶりです」

 彼は私の左に腰掛けて、通勤鞄をカウンターの下に下げた。こんな所にフックが。

「おまちどおさま」

 那瑠は三人分のオムライスとアメリカンコーヒー、それに蓮の前には熱そうなドッピオを出した。

「わあ」

 千晶が感嘆の声を漏らす。ふわっとしていてトロトロのドレス・ド・オムライス。私は高校時代に料理部に所属していたが、こんなに美味しそうなオムライスは見た事が無い。

「また腕を上げましたね」

「そうだな、メニューに出すくらいだから練習したさ」

「なるほど」

 私達はいただきますをすると暫く無言でそれを食した。冷めたら勿体無いから早く食えと那瑠が言ったのだ。

「美味かったかい」

 那瑠は可愛らしく小首を傾げて訊いて来る。私はコーヒーを一口飲んで大きく首を縦に振った。

「美味しかったです。幸せです」

「美味かった」

 蓮もコーヒーに口を付ける。千晶は最後の一口を食べ終える所だ。

「これ、カタログです」

 私は忘れないうちにとカタログを手渡した。

「仕事が早いな」

 那瑠は苦笑してそれを受け取る。

「それが売りですから」

 彼女は早速、と言ってカタログに目を通し始めた。少しドキドキする。まるで教師に提出物をあげたときの気分だ。

「どれどれ」

 蓮までカタログに目をやる。何だかその様子が夫婦のようで私は微笑む。

「いつ結婚なさるのです」

「え」

 蓮が素っ頓狂な声を出したので私と千晶は笑った。那瑠は困った顔をして私に顔を向ける。

「結婚はしないぞ」

「え」

 今度は蓮が那瑠の顔を見た。私達はまた笑った。

「家に帰ってこない奴なんかと結婚するか」

 ケラケラと笑う那瑠。確かに蓮は海外に企業留学をしたり、あちこち飛び回ったりしていると聞く。

「勿体無いですね」

「お似合いなのに」

 私と千晶は口々に言った。蓮は気まずそうに座り直してコーヒーを飲む。

「ま、当分先の話だな」

 それから私達は思い出話に花を咲かせた。やはり高校時代の話が大半で、あの頃が楽しかったと彷彿とさせる。那瑠はカタログにスラスラと丸を付けて、私に手渡した。

「これで頼むよ」

「承知しました。すぐに手配しますね」

「ありがとう」

 気が付けば八時を少し過ぎていたが、私は近くの鷹之宮家具店に電話して注文し、明日中に届くように住所を伝えた。

「明日の午後には届きます」

「分かった」

 そして千晶はそろそろ帰りますと言って席を立つ。千晶はもう結婚して子供も居るから、私は二つ返事で彼女を帰した。

「さて、俺も帰るか」

 欠伸をしながら蓮がそういうが、那瑠は怖い笑みを浮かべて、お前にはまだ話がある、と言うものだから私は笑う。きっと私に今回の事をバラしてしまった事で大目玉を食らうのだろう。目に見えた。

「では私はお暇させていただきますね、楽しかったです」

「もう帰るのか」

 那瑠は少し残念そうな顔をする。私はその顔に何だか見覚えがあって、帰るのが嫌になった。

「ではもう一杯飲んだら帰りましょうかね」

「よし」

 笑顔になった彼女を見て私はホッとした。

「那瑠」

「なんだい」

 コーヒーを淹れ始めた彼女に目をやって、私は口を開いた。

「大好きです」

「ふふ、ありがとう」

「式には呼んでくださいね」

「挙げないって」

 クスクスと笑う那瑠に、困った顔の蓮。蓮はあーと言って頭を掻いた。

「挙げようぜ」

「なんだって?」

「式、挙げよう那瑠」

 突然のプロポーズに私と那瑠はポカンと口を開ける。

「那瑠、コーヒーが零れそうです」

 私の方が早く立ち直ってそういう。グラスからコーヒーが今にも零れ、あー零れた。那瑠は急いでグラスにコーヒーを注ぐのを辞めてグラスを拭いた。そして私の前にグラスをコトンと置いてくれた。

「結婚、しようぜ」

「本気で言ってるのか」

「ああ。ずっと考えてた事だしな」

「考えておくよ」

 私はストローでミルクを掻き混ぜながら、二人の顔を行ったり来たりさせる。

「今お返事しないのですか?」

 那瑠は耳まで真っ赤にさせて俯いた。蓮も同様に赤くなっている。私はにんまりとしながらコーヒーを一口。

「実はもう指輪も買ってある」

「はぁ?」

「おやおや」

 私はもう頬が緩み切って仕方がない。蓮は鞄からごそごそと箱を取り出すと、立ち上がって那瑠に向き合った。カウンターが少し低めに設計してあるので、身長のある蓮は少し屈んで指輪ケースを那瑠に突き出す。

「俺と結婚してください」

「お、おい」

 那瑠は焦って此方を見るが、こんなに笑みを浮かべた私では頼りにならなかっただろう。彼女はふうと溜息を吐いて頷いた。

「まあ、そのうちな」

 そう言って指輪を受け取った那瑠は、首にしていたネックレスに指輪を通す。

「そのうちでも構わんさ」

「おめでとうございます」

 私は嬉しくなった。やっと二人が結ばれる事に喜びを隠せず、つい涙を零してしまった。

「お、おい、なんで泣くんだよ」

 那瑠が焦ってハンカチを手渡してくれた。なんて紳士なのだろうか。

「嬉しくて仕方ありません」

 自分の結婚式では泣かなかったのになあと、頭の片隅で考えた。

「式は是非鷹之宮で、ううっ」

 蓮が商売熱心だなと言いながら背中をさすってくれる。那瑠も微笑んでいた。

「じゃあ少し髪も伸ばさないとな」

「ええ、綺麗にアップしてもらうにはそれが良いかと」

 高校時代にポニーテールだった彼女を思い出す。そしてドレス姿の彼女と、そこに並ぶタキシード姿の彼を思い浮かべた。やはりお似合いだ。私の目に狂いは無い。

「それじゃあ、お邪魔しました」

 やっと泣き止んだ私はコーヒーを飲み干して、立ち上がって外に出た。星が輝いて、涼しい風が私を包む。

「ああ、また明日な」

「ええ、十二時前にはお迎えに上がります」

「分かった」

「それではまた明日」

 私達は手を振って別れ、私は帰路に就いた。カーディガンを脱いで、ワンピース姿になる。風と共に夜の匂いが漂っていた。

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