カプチーノと風見鶏

「なぁ、久し振りにあの場所に行こうぜ」

 親友からの連絡だった。

 スーツの袖から覗き見える腕時計の時間は十八時四十七分。メールは一時間前に受信していた。

 あいつは仕事が終わってから直ぐにメールを寄越したのか。小さく舌打ちをする。もっと早くに気付いてやれば良かった。

 残業分の資料を鞄に詰め込み、先程社内のカフェで買ったアメリカンアイスコーヒーのプラスチックのカップを揺らす。まだ半分も飲んでいない。一口飲むと、氷がガシャガシャと高い音を立てた。

「あれ、先輩、今日はもうお帰りですか」

 隣のデスクの後輩が少し残念そうな顔でそう言った。

「あー、ちょっと用事が出来たから」

 パソコンで作業していたプログラムを一つずつ確認しながら閉じていく。こんな日に限って情報量が多い仕事ばかりしている。溜息が出た。

「先輩と飲みに行きたかったんですけど」

 後輩が口を尖らせてそう言う。女みたいにそんなことして、大の男が恥ずかしくないのだろうか。少なくとも俺は恥ずかしい。

「今度の企画が終わったら飲みに行こうな」

「マジですか、やったー」

 後輩の笑顔を横目で見ながらデスクトップを整理する。つい先日メモリーを新調したばかりだったのに、もう容量がオーバーしそうだ。また溜息を吐く。

 ああ、そうだ。先輩を飲みに誘うなら、良い仕事して、先輩に奢ってもらおう、くらいの気持ちで誘ってほしいものだ。心の中で呟く。

「その代わり今日中にその企画書上げとけよ」

「え。が、頑張ります」

 少しくらいプレッシャーを掛けないとこいつは頑張れないだろう、俺と同じだ。

 出勤時より重くなった鞄を持ち上げて、コーヒーの容器を指先だけで軽く握った。

「じゃあ、頑張れよ。お先」

「お疲れ様でした」

 後輩の声を背中で聞いてオフィスを抜ける。いつも我先にと挨拶をしてくる受付嬢もいない。

 もう定時はとっくに過ぎているのだから当たり前か。

 ロビーを足早に通り過ぎてから幼馴染みに電話を掛ける。親友が電話に出なかったのだ。

 今、親友のあいつは何処に居るのだろうか。

 外の空気は社内に比べて冷たい。

『もしもし?』

「あ、俺だけど、あいつ何処行った?」

 ワンコールしてすぐに、懐かしい声が聞こえた。幼馴染みに連絡するのも久し振りだな、とふと思う。

 スタバのコーヒーも好いけど、こいつが淹れたドッピオが飲みたい。

 真っ白なワイシャツに黒いベストを着て、コーヒー豆をローストする幼馴染みの姿が脳裏に浮かぶ。

『さぁ、何、喧嘩でもしたの』

 幼馴染みのからかう様な口調に俺は笑みを零した。女らしくない、幼い頃から変わらない態度が嬉しい。

「そんなこと有る訳無いだろ。何処に行ったのかと思って訊いてみただけ」

『あー、それなら南公園行ってみたら、あの子落ち込むと直ぐあそこ行くから』

 幼馴染みはクスクスと笑いながらそう言ってくれた。落ち込んでいるなんて一言も言ってないのに。

 俺はお礼もそこそこに電話を切ると、自分の車に乗り込んだ。

 直ぐに窓を開けた。

 最後に聞こえた、『帰りに寄ってね』という幼馴染みの命令を頭の隅に置いておく。

 今日の夜中にでも顔を出してやろう。そしてショットを追加した苦いコーヒーでも淹れてもらおう。

 エンジンが掛かって、重い振動が体に伝わる。それと同時にセットしていたギター曲のCDが流れる。ドライブにはもってこいだ。

 車で十分程走らせた所に南公園はある。そこは俺たちが小さい頃から遊んでいた場所だ。

 幼馴染みの言う通り、親友はそこに居た。

「おい、迎えに来たぞ」

 車の窓から、公園のベンチに寝そべっている人影に声を掛ける。そいつは腹筋の力だけでむくりと起き上がると、無言のままこちらに近付いてきて車に乗り込んだ。

 一言くらい何か言えば良いのに、と思うが何も言わないでおく。どうせ今言っても無駄だろう。

 車で一時間ほどすると山に入る。俺はそのまま山奥の県道を滑るように走らせた。

 コーヒーを一口飲んだ。だんだんぬるく、薄くなっていくそれに、嫌気が差してくる。ぬるくなったコーヒーは不味いから嫌いだ。

 助手席では親友が向こう側を向いて、窓から入る風と車の振動に身を任せている。少し物憂げな表情をしているように見えた。

 途中でロードバイクに乗る青年を見かけて、あれはスペシャライズドか、と言ったきり一つも話をしない。

 山の頂上付近の休憩所に車を停める。

 日も落ちて、周りは薄暗い。残暑に差し掛かる季節だが、盆地特有の蒸し暑さは無い。車から降りた俺は、少し肌寒さを感じた。

 親友は俺の車のトランクを無断で開けると、薄いタオルケットを引っ張り出して、軽い力でそこを閉めた。そして休憩所を見渡すと、一番見晴らしの良いベンチにつかつかと歩み寄って腰を下ろす。タオルケットは綺麗に畳んで隣に置いた。

 俺はそれを車に寄り掛かって煙草に火を点けながら見ていた。あいつはまるでふてぶてしい猫の様だ、と毎回思う。

 煙草が美味く感じた。職場で吸う煙草は不味いのに。

 親友が振り返って、しかめ面をしながら俺を見た。少し恨めしそうな雰囲気。

 こっちに来いよ、と表情だけで訴えている。

 俺はくすりと笑って親友に近づく。あいつがまた厭そうな顔をしたので、煙草を携帯灰皿に入れた。

「また、なんかあったんか」

「まぁ」

 隣に座って、置いてあるタオルケットを親友に手渡す。こいつはちょっと嬉しそうにそれを自分の肩に掛けた。

 俺はこいつが寒がりなのを知っているから、いつ、こんな事が有ってもいいようにタオルケットを車に入れているのだが、まったく、俺が親友でこいつは幸せだな、とつくづく思う。他の奴はこんなことまでしてくれない。

 それに、手渡されるまで使わないなら自分で出さなきゃいいのに、とも思う。まぁ、それも可愛いのだけれど。

「話したくなったら言えよ」

「うん」

 それだけの会話をして、俺達は正面に顔を向けた。

 地元の、しかも田舎の夜景は少し寂れて、物悲しい雰囲気があるけれど、俺達は昔から此処が好きだった。

 子供の頃に二人で自転車に乗って何処まで行けるか試した時に偶然この場所を見つけて、それから来る日も来る日も、暇を見つけては此処に来ていた。

 二人で急な坂道を登って、此処に来て、何をするわけでもなくただ自分の街を見下ろしていた。そう、今と同じように。

 数時間そうして座っていた。

 空に雲は無くて、星は頼りなく光っている。

 水田に街灯の光が映る。遠くから見ても、それははっきりとしていた。

 それとは逆に、民家の灯は消えていく。街が寝静まる証だった。

 冷えた空気が俺たちの頬を刺す。

 今、風は無かった。あの頃はいつも全身で風を受けていたのに。

 急に、親友の表情が晴れやかになった。

「解決した?」

 俺の問い掛けに笑顔を向けて親友は頷き返す。大きな瞳を三日月のようにして。

「いつもくだらない事で悩んでる気がする」

「ん?」

 ふふっと自嘲気味に溜息をついた親友を眺める。

 そう言えば、いつもしている紅いピアスを今日はしていない。無くしてしまったのだろうか。

「だから、お前と此処に来ると、悩んでるのが馬鹿らしくなってくるって事」

 親友は俺の腹を軽く小突いた。恥ずかしいときによくやるこいつの癖。

「何悩んでたんだよ?」

 風が吹いて、親友の髪が小さく揺れる。

「もう解決したから大丈夫」

 親友は明るい声でそう言い、立ち上がって大きく伸びをして、タオルケットを畳みだす。

「もういいのか?」

「うん」

 俺は親友が畳んだタオルケットを受け取ってトランクへしまった。

 微かに鼻腔をくすぐったのは、親友が使っている香水の香り。確か誕生日に、幼馴染みから貰っていたやつ。

 もう親友は助手席に乗り込んでいた。やっぱり何か一言くらい言えばいいのにと思う。今度こんなことがあったら、今度こそ注意してやろう。

 ゆっくりとアクセルを踏む。

 車の中にずっと置いていたコーヒーを一口飲んだ。すっかり氷が融けて、ダブルショットだった筈のコーヒーは、シングルショットのようになっていた。

「俺さ、また乗り始めたんだ」

 俺がコーヒーのカップを置いたとき、親友がそんな事を言った。

 まさかとは思ったが、一応聞いてみる。

「リドレィ?」

「そう」

 俺はそうかと頷く。ロードバイクに乗る親友を久し振りに見たいと思った。

「また、二人で走りたいな」

 意図せずそんな言葉が口から出た。

 バックミラーに驚いた表情の自分が映る。

 馬鹿にされるかなと思ったけれど、親友は破顔して身を乗り出してきた。

「危ない」

「絶対走りに行こうな!」

「分かったから。つーかシートベルトくらい、ちゃんとしろよ」

「約束だからな、ふふ」

 何が嬉しいのか、親友はにこにこ顔でこちらを見ている。

 ロードバイクは俺たちが大学生の時に出会ったスポーツだ。高校までで終わったと思っていた青春を、ロードはもう一度謳歌させてくれた。

「俺のリドレィ、あいつが調整したんだ」

 いきなり親友は前を向いて、ちょっと拗ねた表情でそう言った。

「あいつ?あ、奥さんか」

「そう」

 俺は親友の奥さんを思い浮かべた。ショートカットで、よくコーヒーを飲んでいた丸顔の女性。

 大学の卒業式の当日にプロポーズしていた現場を、幼馴染み達と一緒に覗き見していたのを思い出す。今思えば、二人を焚き付けたのは俺と幼馴染みだった。

「うまくやってるなら、良かったじゃん。お前の姉貴も喜ぶだろ」

「もー、五月蠅いな。姉貴って言うなよ、変な感じするからさぁ」

 俺はクスクスと笑う。親友の奥さんとは高校の時からつるんでいたから、お互いにいろんな事を知っている。しかしまさか、ここまで思い切りのいい性格もあったなんて。

 親友のたまに出る優柔不断な所をカバーしてくれているのだろう。

「あれ、家まで送ってくれるんじゃないの」

 車を数十分走らせた頃、親友はそんなことを言った。

 そろそろ話のネタも尽きてきたところだった。

「今日は一杯付き合えよ」

 俺は閑静な住宅街を抜けて、数年前に卒業した高校の近くにある店に車を停めた。

 直ぐ目の前には河原がある。

「一杯って、コーヒーの事」

「お前の疲れ切った頭には、此処のバニララテが丁度いいんじゃないのか?」

「まぁ」

 親友ははっきりしない返事をする。此処のオーナーと喧嘩でもしたのだろうか。

 俺はクローズの看板を無視して、アンティーク調のドアを開けた。

 ふわっと香るバニラとエスプレッソの香り。

 幼馴染みがカウンターの向こうで、笑顔で迎えてくれた。

「遅かったね、二人とも。もうとっくに閉店時間は過ぎてるのに」

 俺はごめんごめんと言いながら、後ろに佇む親友を引っ張る。気不味そうな顔をしているから、やっぱり二人の間に何かあったのだろう。

「バニララテと、ドッピオ。ドッピオはショット追加で、バニララテはホイップとキャラメルね」

「言うと思った」

 幼馴染みはダブルエスプレッソのカップに手際よくコーヒーを淹れる。

「いつまで立ってんの、座りなよ」

 カウンターの前に立っている親友を見て、幼馴染みはそう声を掛ける。

「うん」

 親友は小さくそう言って、俺の隣に腰を掛けた。

「今日は、私の奢り」

 幼馴染みはそう言って二つのカップを俺たちの前に置いた。そして後ろにあるオーブンからフレンチトーストを取り出す。

「今日のは自信作。レモンとシナモンで良かった?」

 シナモンの香りが広がった。レモンのフレンチトーストは親友の前に置かれる。

 親友はゆっくりコーヒーに手を伸ばした。

 一口、もう一口と飲んでいく。

「此処のコーヒーが一番美味い」

「当たり前よ」

 俺の目の前で二人は目を見合わせて笑った。

 幼馴染みはカップを一つ出すと、新しくカフェオレを淹れ始めた。手際よくミルクを温める様子はもう素人とは程遠い。

「なぁ、ランチはやらねぇの?」

 俺は出されたフレンチトーストを完食すると、ドッピオを飲んでそう言った。シナモンの香りとドッピオの香りが合わさってほどよい苦みだ。

「人手が足りないの」

「雇えば」

「お馬鹿」

 幼馴染みは笑いながらカップを親友の隣に置いた。誰の分だろうか。

「今日は、奥さんが迎えに来てくれるから」

「え」

 親友が顔を強張らせたと同時に、カランカランとクローズと出ている筈のドアが開いた。

「こんばんは、いい匂い、フレンチトーストかな」

「いらっしゃい」

 親友の奥さんは当然のように此方に来て、親友の隣に腰を掛けた。

「久し振り、子供は寝かせて来たのか?」

 俺は軽く手を挙げて彼女を見た。

 彼女は痩せたのか、着ている物のせいなのか、以前あった時よりも綺麗になっている気がする。

 小さな手を振り返してくれた。

「うん、久し振りー。今日はここでいっぱい遊ばせて貰ったから、疲れて爆睡してるよ」

 彼女は出されていたカフェオレに手を伸ばして、嬉しそうに幼馴染みを見た。

「飲んでいい?」

「もちろん」

 彼女はニコリと笑ってカップに口を付ける。

「ねえ、何緊張してんのよ、夫婦でしょ」

 幼馴染みは親友の頭を小突いて笑い出した。幼馴染につられて親友を見ると、確かに緊張して瞬きの回数が異常に多くなっている。

「き、緊張なんてすて、してぬぇ、してないし」

 親友の挙動不審さに俺たちは爆笑した。

 彼女はコーヒーのカップを置いて俺の方を向く。

「ん、そうだ。聞いてよ、この前さ……」

 俺たちの話はこの後数時間ほど続いた。

 夫婦間の愚痴とか、最近この店に来る高校生カップルの話とか。もちろん俺たちの思い出話も尽きることはなかった。

 結局親友が何について悩んでいたのか、はっきりとは分からない。

 ただ、幼馴染みが何も言わずにポケットから、あの真っ赤なピアスを出して親友の前に置いたから、やっぱり親友の言う通り、悩み事は解決したのだろう。それに、奥さんとの間にも、何か一悶着あったに違いない。

 俺が店を出るとき、穏やかな風が吹いていた。

 東の空が明るくなってきていて、朝のランニングをする男子学生が俺に向かって挨拶してくれた。

「あの頃はさ、コーヒーの苦味が嫌いでしょうがなかったけどさ」

 学生の後姿を見送って直ぐに、後ろから幼馴染みがふと口を開いた。

「うん?」

「その苦い味が何だか分かったときは感動したよね」

「はぁ、そうだな?」

 俺はよく分からなくて、曖昧な返事を返す。俺はこの苦いのが好きだから。

 幼馴染みはクスッと笑う。

 親友と同じ、俺の好きな笑顔だ。

「ねえ、絶対分かってないでしょう」

「まぁね」

「まったく……」

 親友と親友の奥さんは夜中のうちに帰って行った。

 ああ見えて、お互いの事が大好きだから、直ぐに仲直りするだろう。

「あの子ら、もっと素直になればいいのに」

 幼馴染みは深く溜息をついた。誰の事か。親友の事だと直ぐに分かった。

 先ほど一人で走っていた学生の隣にはいつの間にか女の子がいた。二人の頬が赤く上気していて何とも初々しい。

 俺たちにもあの頃があった。

「なんだ、自分に言ってんの?」

 俺は頭一つ分以上離れたところにある幼馴染みの頭を撫でる。ポニーテールはいつの間に長くなったのか、もう背中まで届きそうだ。

「お馬鹿、姉としてのアドバイスよ」

「双子だもんね、自分に言ってるのと一緒だ」

 幼馴染みは俺の手を払い除けて、恨めしそうに此方を睨み付ける。親友とそっくりな顔がだんだん笑顔になる。

「ホントに憎たらしいね」

「いやぁ、君には劣るさ」

 風が大きく吹いて、幼馴染みの髪が舞い上がった。

 店の屋根にある風見鶏がクルクルと回りだす。

「もう一杯飲んだら、出勤しようかな」

「次は払ってよね」

「もちろん。そうだな、今度はカプチーノがいいな」

 俺はにやりと笑って見せた。こいつの修行に、何度同じカプチーノを飲ませられた事か。

「任せて、もうあの頃とは違う」

 店に入り、幼馴染みも笑いながら腕まくりをして、温度計の針で、エッティングをし始めた。

 今日はどんなラテ・アートを見せてくれるのだろう。

 俺は甘いカプチーノを飲んでから、親友が作ってくれたクラブハウスサンドとアメリカンアイスコーヒーを持って車に乗った。

「また、飲みに来てね」

「もちろん」

 手を振る幼馴染みがどんどん後ろに遠ざかっていく。

 窓を全開にした。

 今日は昨日までと違う、爽やかな風が吹いてきた。

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