第1話 蝋 塔 酔い 【同音異義語】

 イヴァンがリーゼロッテの屋敷に住むようになってから一週間が経過したある日。この国では水の日と呼ばれている日である。

 彼はこの一週間で敬語を人並み程度には話せるようになっていた。それは魔女の特別な力だとかそういう超常的な力によって可能になったわけではない。むしろ、彼の資質によるところが多い。


 ことあるごとに学がないといって貶められた彼だけど、それはひとえに今まで勉強をする機会がなかっただけに過ぎない。むしろ、比較的頭もよく、要領もいい方であった。だから一週間も経たずに言葉遣いは最低限丁寧なものとなったし、家事一般においても人に出せるレベルにまで発展していた。


 そんな彼は現在、リーゼロッテに呼び出され彼女の部屋に来ていた。

 薬品の臭いがする部屋は、植物を釜で混ぜたりすることが多いせいかかなり湿度が高そうである。今が冬だからいいものの、もし、夏を迎えてしまうとここは地獄と化しそうである。そんな彼女は不満そうに言う。


「貴方様はどうしてそのような服装をされているのでしょうか?」

「どうして、と言われましても、ここに住む以上は、しっかりとした服を着なければならないと思いましたし、それに、最終的にはリーゼの許可は取りましたよね?」


 彼はリーゼロッテに自分のことはリーゼと呼ぶようにと言われている。それがいったいどのような意図を含んでいるのか、彼は理解できないけれど、自分よりも上の立場であると思い込んでいる彼は彼女に従った。

 それが、自分と対等な立場に立たせようという彼女の思惑であることに気がつかずに。

 彼は現在、執事服を着用していた。


「……私としましては、そのような格好をなさらなくてもと思うのですけど。それこそ、立派な服を着たければ、私がいくらでも買って差し上げますのに」

「いえ、でもそこまでは流石に……」


 この服装は、学のない彼に勉強を教えてくれ、その上衣食住を提供してくれたこともあって、何かを返せるように仕事をしようという彼の意思の表れである。

 もっとも、それが全てではないこともここで明らかにしておかなければなるまい。

 これは一種の打算である。

 正直、彼には彼女の殺し方など皆目見当もつかないのだ(ただの魔女であってもこの身に余るというのに、この一週間で不老不死であることまで判明した。どう殺せというのか)。だというのに、彼がこの屋敷で暮らせるのは、彼女を殺せる人材だと買われているただその一点に尽きるのである。このまま普通に過ごせば、ある時、彼女の勘違いが解けてしまい、高騰していた彼の価値が一気に暴落してしまいかねない。となると待っているのは、ここから出て行かなければならないという厳しい現実である。

 だからそうならないためにも、この屋敷の家事を完璧に熟せるようになる必要があるのだ。そうすれば、彼は執事としてここに居続けることができる。そういう腹づもりであった。


 とはいえ、この目論みはかなり怪しいものであることも確かだ。というのも、ここにはもともと魔女一人が住んでいたのだから。つまり、彼女自身は人を雇うまでもなく生活ができると言うことであり、執事としての才覚を現したところで、就職できる可能性は低いのだ。

 まあ、その時はここで培ったノウハウをもって貴族の屋敷にでも就職すればいいので、あまり悲観することではない。

 もっとも一間前に、彼女からこの屋敷の所有権を譲渡されたのは彼であるのだから、追い出されるも何もないのだが、記憶力に自信のある彼であってもそういう所にまで頭は回らない。いや、それ以前に譲渡されたことを夢か幻の類いだと思っているのかもしれない。


 たった一週間であれやこれやを考えることができるようになった自分に驚きつつ、こういう機会を恵んでくれたリーゼロッテに彼はいたく感謝した。


「……むしろボクに何か仕事をくれませんか?」

「貴方様はこれ以上働いて何になろうというのですか? この調子では働き過ぎて死んでしまいますよ?」


 よもや死ぬことはないと思うのだが、実際過労死というケースは少なくない例でもあるので、真っ向から否定することもできない。

 しかし、前述した誤解を抱いたままである彼は、何かしらの役に立たねばなるまいという強迫観念にも似た思いを持っているため、さらにしつこく食い下がった。魔女も最初のうちは完全に拒絶する姿勢を貫いていたが、あまりにも彼がしつこいので発想を転換したらしかった。

 やがて彼女は折れた。


「分かりました。では、貴方様に少しばかり骨を折って頂きましょう」

「何をすればいいんですか……!」


 ようやくおりた了承に思わず語気が強くなった。


「貴方様には少しばかり私のお使いをしていただきたいのです。丁度、調合に必要な蜜蝋が不足しておりますので」


 街へ赴き、材料を買ってくるというのが彼の仕事であった。

 蜜蝋を彼女が求める場合、その殆どは魔女の飛び軟膏なんこうを製作しようとしたときである。飛び軟膏は魔女が空を飛ぶ際に塗る軟膏でアリ、魔女によってその製法に違いはあるがコウモリの血液、マンドラゴラ、毒ゼリ、白スイレンといった共通の材料を用いる。彼女は軟膏のベースとして蜜蝋を好んで使用していた。

 もちろん、そんな薬の製法どころか存在すらしらない彼は、蜜蝋が何に使われるのかはなはだ疑問だったけれど、彼女の気が変わらないうちに話をまとめたかったので、ふたつ返事で了解した。

 彼は自室に戻り急いで支度を済ませると、あることに気がついて再び魔女の部屋まで戻ってきた。


「あのー。お恥ずかしい話なんですが、ボクお金持ってないです……」

「大丈夫でございます。何ら心配することなどございませんから」


 そう言うと彼女はどこからか片手サイズの布袋を取り出して、彼に握らせた。蜜蝋など銀貨一枚でおつりが来る品物であるので、袋には何が入っているのかと彼は不審に思ったけれど、(まさか、これを換金しろということだろうか)彼女の手が離れていくとそれは予想以上に重かったらしく、危うく落としそうになった。


「何ですかこれ――てっ!?!?」


 中身を確認した彼は今度こそ絶句した。そこには、彼の想像を絶する見たこともない希少なものが存在した!

 ということはない。むしろ、先程まで想定していたものがそこには入っていた。そう、金である。

 ゆえに彼の想像を絶していたのは、ものそのものではなく、その量であった。

 銀貨一枚でいくらかのおつりが来る蜜蝋に対して、彼が手にしたものは百数枚にも及ぶ金貨。上手くやれば一年間は余裕で暮らしていけるような金額である。


「それは私からの報酬でございます。では、どうぞ羽でも伸ばしてくださいませ」

 あれよあれよとうちに彼は屋敷の外に出された。あまりのことに混乱していた彼は抵抗することができず、坂の上を丸い石が転がるかのごときスムーズさで外出させられた。

 しばらくして講義することを諦めた彼は今日の所は大人しく彼女の言うとおりにしておこうと結論づけた。


「あ、でも、この大金どうしよう」


 よもや街にまでこれを持って行くことなどできまい。いくら路地裏生活が長いとは言え、スリなどに会わない可能性が零だとは言い切れないのだ。そんなことをするぐらいなら、この屋敷の物陰に隠した方がいくらか安全性が保てよう。そう判断した彼は敷地内の常緑樹の足下に穴を掘って埋めた。雪が微妙に茶色く変色していたのが不自然極まりないが、陰に隠されて言うほど目立たない。

 金貨を一枚だけ手にした彼はそれで少し安心して街へと歩みを進めた。


 そこは彼の生まれた街。つまり、『塔の街』であった。


 『塔の街』というのは、魔女の森と呼ばれる現在彼が住んでいるところから約一時間歩いたところに位置しており、あまりの高さゆえに神に罰っせられたバベルの塔さながらの建築物が中央にその存在感を主張している。おもに通商により益を得ている街である反面、経済的な格差が著しく何人もの浮浪者を生み出していた。

 そんな光と影といわれれば影の方に属していた彼はあまりこの街にいい思い出がない。

 活気盛んなかまびすしさの中、彼は目的の品を購入したが、こことは一つ通りを挟んだ向こうの世界の静けさが不気味であった。

 表通りで商人達が騒がしく商いにいそしんでいるため、内情を知らない者は気づかないが、裏路地は酷く廃れている。食糧を求める争いは絶えなかったし、そのせいで死んでしまう人も何人もいた。それでも彼が生き残れたのは、戦わずただただ逃げ続けたことと運がよかったことに他ならない。

 運がよかった。――もっと言えば、ある人に出会えたから。

 彼のダルマのような表情を思い出すと笑みがこぼれた。


「――ん? おお、坊主か久しぶりじゃあねえか」


 そして、噂をすればなんとやらである。そこにはとうがいた。

 彼はもう四十路も中盤くらいの年齢であり、お世辞でも格好いいとは言えないぐらい腹回りがだらしなかった。しかし、兼の腕は確かであり、たいへん希有な東洋の曲刀を好んで使用する。また、人望も厚く路地裏で明日も分からず生きる子供達に救いの手をさしのべていた。彼のあだ名である刀というのも、日本刀とおとうという言葉からきている。

「あ、お久しぶりです。刀さん」

「ん? 坊主ってそんな喋り方だっけか?」

 今はまだ陽が昇っているのだが、彼はもうすでに何件かひっかけているらしく、黒っぽい顔がほんのりと赤らんでいた。例えあと数時間で日没だとしても、酔うには早すぎる時間である。彼はその質問に答えを求めていたわけではなかったらしく、言ったそばから溜息を吐き、物思いにふけっていた。


「……ど、どうかしたんですか?」


 見逃そうと思えば見逃せるような違和感であったが、万が一悩み事があった場合、少しでもお役に立てるのではないかと思って彼は訊いてみた。


「いや。それがなあ。……でも、かなり暗い話になるぞ?」

「刀さんにはたくさんお世話になりました。なので、その分は恩返しさせてください」


 彼の強引な誘いに刀は、過去の彼の姿を重ね合わせながら乗っかった。他人から指示されれば不服そうな顔をし、けれども自分がしようと決意したことは何が何でもやり通そうとする。それが幼年期の彼の人格であった。

 二人が刀の行きつけの食堂に入ったのは、日が沈み空のオレンジを夜の紫が呑み込まんとしていた時であった。

 イヴァンはまだお酒を飲める年齢ではないので適当なドリンクを、刀はいつものと言って注文した。

 酒が来るまでの数分間で彼が語ったことを要約すればこういうことであった。

 数年来の戦友が山をいくつか越えた先の戦場で死んでしまった。

 情勢に疎い彼ですら、その戦争がどういうものか知っていた。

 この世界で最も権威のある宗教が改宗を他宗教に求めて戦争をしている。繁雑な事情を全てひもといて行くとそう言った話になる。

 宗教以前に神について否定的な見方をしている彼からは、その戦争が酷く滑稽なものに思えたが、周りの人はただ一人、リーゼロッテという存在を抜かしては、伝えられる情報に一喜一憂していた。


「オレもいつかくるんじゃねえかと思ってたんだがな。一から仕込んできただけに、思いの外ショックが大きかったぜ」


 やってきた麦酒を一気に飲みきり、そのまま待機していた定員に手渡した。行きつけというだけあって特殊な接待法が確立しているらしかった。


「そうですか。それは、残念でしたね……」


 人が死ぬ光景はいくつか見てきた彼であったが、その全て身内とは到底呼ぶことのできない者達であり、親友を失った刀の心中を察するのは彼の想像力に余った。ゆえに、当たり障りのない言葉をかけることしかできない。

 他の人ならばもっと上手く慰めることができるのだろう。そう思うと、半ば無理矢理誘ったと言うことも相まって非常に心苦しかった。

 刀の話はますます重みを増していく。それに伴って彼の心苦しさは風船のように大きく膨らんでいく。手に負えないのは、大きくなったそれが風船のように軽くなく、今や彼を押し潰さんとしていたことである。

 当たり前だが、世の中には自分でも背負いきれないものがあることを再認識した。人から言われたことは何度かあったし、そういう場面に直面して必死に謝っている姿を彼は何度も見たことがあったが、自分自身でそのことを体感したのはこの時が初めてであった。

 その疑念は彼の心の底に少しずつ沈殿していき、やがて大きな猜疑心を生むことになる。


 ――自分はリーゼにとってもいらない存在なのだろうか? 今は過大評価されているけれど、メッキがはがれたが最後、再び捨てられてしまうのだろうか?

 思考がズブズブと泥の中に潜っていく。そこはさながら底なし沼のように彼の不安を呑み込み、より大きなものに変化させていく。


 沈んでいく。――どこまでも。


 負の思いが徐々に強くなって彼の心を満たしていく。黒く汚い粘液質なそれが猜疑心という名の心をさらにコーティングしていった。


「おい、大丈夫か? すまんな、坊主には荷が重すぎる話だったかもしれん」

「……いえ、そんなことは」

「あるだろう。顔も青いし。……少し話が暗すぎたな」


 刀はそこでかなり無理矢理話を打ち切った。そこにはイヴァンを気遣ってことであった。彼もそのことには考えるまでもなく気づいたが、そうまでさせてしまった自分自身がひどく情けなく思えた。


「いえ、大丈夫ですから。刀さんが言いたいことを言ってください」

「じゃあ、オレは坊主のことが訊くぜ。魔女とは仲良くやってるか?」


 笑いながらそう訊いてきた。あえてイヴァンの話しやすい話題を提供してくれたことをありがたいと思う反面、申し訳なさい気持ちでいっぱいだった。しかし、それをわざわざ指摘するのも違うだろう。彼はそう考え、今まであった出来事を話した。流石に、他殺志願者であることは伏せておいたが。


「おおそうか。上手くやってるみたいで安心したぜ。ハハハ! まあ、あの魔女は


 根は優しいみたいだし、あんまり心配はしていなかったんだがな」


「そうだったんですか。……でも、根が優しいですか」

「ん? 何か違うのかい?」

「あ、いえ。優しいんですけど、刀さんがそんなことを言うとは思ってなかったので。この街ってあまり魔女を快く思っていない人も結構いるから」


 それを言うと刀は納得したように唸った。


「んー。まあ、それはそうだが、オレはそうは思わんよ。というのもな、あの魔女が毛嫌いされている理由が、死を予言できるかららしいんだ。一説には死を宣告しているという話もあるが、オレは前者派だな。で、少し問題なんだがな、坊主。今でこそ森の奥に隠れてしまった魔女だが、その昔は普通にここで薬を売って暮らしてたらしいんだ。何故ここを出て行ったんだと思う?」


 イヴァンはその質問に答えられなかった。彼と魔女はまだ会ってから一週間しか経っていない。人生経験が壊滅的にない彼はそんな短時間で彼女のことを理解できない。例えこれが彼女の真の思いですと唱えたところで、そんなのは氷山の一角を指さして満足しているに過ぎないのだ。


「おいおい、こういう時は何か答えるもんだぜ、坊主。ふむ、まあいいだろう。それはお前の宿題だ。いつか答を聞かせてくれ」


 彼は立ち上がった。


「さあ、そろそろ宵も深まってきた。そろそろお開きにしようぜ。ありがとうな、久しぶりに話せて楽しかったぜ」

「いえ、そんな。ボクはなにも……できませんでしたから」

「ハハハ! そんなことあるもんか。坊主、お前は考えすぎるきらいがある。本人が楽しいと言っているんだ。素直にそう受け取っておけ」

「は、はあ」


 生返事をした。というのも、彼が刀の意見に否定的だったからである。言葉には表と裏が存在し、素直に受け取っているだけではある時、取り返しのつかないことになる。彼はそう思っていたのだ。

 そんな彼の内心に気づくよしもなく、刀は彼と二言三言交わしてから、夜の街に消えていった。

 イヴァンはもやもやしたものを心に抱えながら、ふとリーゼロッテのことを思いだした。急いで帰らねばならなかった。彼は自分が今お使いの途中であり、なおかつ屋敷の庭に大金を隠していたことを思い出したのだ。


 大金の入った袋を持って屋敷に入ると、先週のようにエントランスに彼女はいた。

「いくら羽を伸ばしてくださいませと申しましても、流石にこの時間は少々遅すぎではございませんか、イヴァン・ホルヴァト様?」

 今まで聞いたことのないくらい冷たい声であった。彼がこのあと、数時間にわたって衣で首を絞められるようにじわじわと迂遠うえんに注意という名の説教をされたのは言うまでもない。その様はさながら牢に入った罪人のごとく怯えていたという。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る