転がる

@opty61

転がる

ぽたっ、ぽたっ…。

床に座り込んだお父さんの口から、赤い血が落ちる。

お父さんの前には、お母さんが仰向けに寝転んでいた。お母さんは、天井のどこかを見つめたまま動かない。

お父さんがお母さんのそんな顔を覗き込む。

お母さんの目尻に落ちた血が、一つの筋となって流れていく。


「ごめん…ごめん」


お父さんは、お母さんの手を取り、さっきからずっと謝ってばかりいる。


床に広がった血はお母さんのもので、粗く肉をむしられて、ちぎれそうになった首からは、鮮やかな血がとくとくと溢れていた。


何故、お父さんは我慢が出来なかったのだろう。

全てが狂ってしまった。

私を囲む、家も、世界も、何もかも。


どうすれば良いかわからなくなって、お父さんの

側に近寄った。

べちゃべちゃと、スリッパが床から剥がれる音が

耳に障る。

途中、少しだけお母さんの顔を見た。もう二度と、私に話しかけてくれたり、笑ってくれることは無いと、子供ながらに理解した。


お父さんはまだ、聞き届けられる事のない謝罪を繰り返していた。

なんだか可哀想になって、私は泣きながらお父さんを、後ろからそっと抱きしめた。


ーーーーーーーーーーーーーーー


夏が来た。特別好きな季節でも無かったが、特別嫌いというわけでもない。

ただ、あの日のことを思い出す季節を、どんな気持ちで迎えれば良いのか、二年経った今もわからないでいた。


母の葬儀が済んでからは、親戚をたらい回しにされた。幸せな三人家族に起こった夫の妻殺しのニュースは、世間以上に身内に作用した。腫れ物に触るように、誰もが私を遠ざけた。


今年の春から父方の祖父に引き取られた私は、中学生になって初めての夏休みを迎えようとしていた。

祖父は岐阜の山奥の小さな村で、一人静かに暮らしていた。周りを自然に囲まれて、ほとんど自給自足の生活。

もともと都会っ子の私は、そんな田舎暮らしを、それなりに楽しんではいたが、閉鎖的でよそ者を嫌う、田舎独特の湿った空気に、いまだ馴染めないでいた。


転校先の学校でも、私に話しかけるクラスメイトなど、一人も居はしなかった。

元々、口数の多い方ではなかったし、人懐っこい性格とも言えなかったが、それらが理由という訳でも無さそうだった。


そう感じたのは、転校初日の事だった。

始業式でもあったその日、私は式には参加せず、校長室で一人、担任の先生を待っていた。

春休みの間に、一度学校を訪れていた私は、担任だと名乗るその先生が、なんとなく好きにはなれなかった。二言三言、言葉を交わしたが、いずれも目も合わせてはくれなかった。

だから、自分がこれから入るクラスに期待する事にした。

あだ名で呼びあったり、一緒に下校して、たまに買い食いなんかするような…。そんな友達を作ろう。そう思った。自己紹介をするまでは。


教室までの廊下を歩く。始業式特有の、少し浮かれた空気があたりに漂う。

通り過ぎた教室から聞こえる笑い声。ふざけたり、注意したりする様子も伺えた。

中庭の桜がとても美しい。よくはわからないが、枝ぶりも立派だと思う。

薄いピンク色が青空によく映えいて、思わずため息をつく。

足を進めるたび、心も浮ついていく。


「〇〇さん」先生の声

「ここが、あなたのクラスです」事務的な口調でそう言われ、上向きかけた気持ちに水を差されたようで、少しだけ腹が立った。


そんな私には御構い無しに、先生が先に教室に入っていった。そしてすぐに、生徒達をなだめる。

なかなか落ち着く事は無い。賑やかな男子の声。姿は見えないが、きっとお調子者のムードメーカーなんだろう。

一度落ち着きかけた教室が、また騒がしくなった。転校生がいる事を告げたようだ。

さっきの子だろうか、今度は指笛まで吹き、また叱られている。


(かっこいい子だったらいいな)


そんな事を考えていると、また名前を呼ばれた。

教室へ足を踏み入れる。

一瞬だけ静まり返る教室。その一瞬後にはひそひそと、隣のクラスメイトと何か話し合っている。


気をとられていると、教壇につまづいて、派手に転んでしまった。床に突っ伏したまま、どうかこのまま消えてしまえたらと、心の底から願ったが、クラスを包む笑いの渦が、現実へと私を掴んで離さない。


「おい、立てるか?」


耳に心地いい声、はらりと落ちた髪の隙間から、目だけでそちらを伺うと、一人の男の子が手を差し伸べてくれていた。

私はおずおずとその手を借りて、ゆっくり立ち上がった。顔は真っ赤だったに違いない。

男の子は私より少し背が高く、がっちりした体格。野球部だろうか、丸く刈り込んだ髪型に、黒く焼けた肌。

そしてなにより、かっこよかった。


慌てて手を離し、スカートの裾で手を拭う。そしてすぐ、失礼だったかもと後悔した。


「おい、静かにしろよ!」


男の子が一言そういうと、徐々にクラスは静かになった。それ以上何も言わず、男の子は一番前の自分の席に戻っていった。

ようやく、自己紹介の準備が整ったようだ。

先生に促され、私は一度深呼吸してから、自分の名前を言った。しかし…


気のせいだろうか、空気が変わったように感じた。みんな黙って私を見ている。

私は自分の苗字が、珍しいことを思い出し、黒板に書いてあげる事にした。


「〇〇 すず」


今度は気のせいでは無かった、静かなさざめきが、クラスに広がる。

隣同士でまた何か、ひそひそと話す子達もいた。

さっきと違うのは、まるで得体の知れないものでも見るかのような目つきで、私から目を離さない事だった。


さっきの男の子が気になって目を向ける。

たった今私を見ていたその目が、さっと机に向けられた。

今度は先生に顔を向ける。先生はこちらをまっすぐ見つめていた。

初めて目が合った気がした。先生だけがただ一人、私を哀れんでいた。


そんな事があったので、学校ではいつも一人ぼっちだった。いや、学校だけでは無かった。

家でも私は一人ぼっちだった。


学校から帰ると、あてがわれた部屋へまっすぐ向かう。祖父は朝早くから、毎日、畑へ出かけている。

カバンをベッドへ放り投げ、次は自分の体を放り込む。ベッドも案外いいかもしれない。そう思った。

都会暮らしならベッドで寝ていたんだろうと、私の否定の声も聞かず、祖父が買ってくれたベッド。

日本家屋の畳の部屋には、いささかミスマッチだったが、それでも、祖父の気持ちが嬉しかった。


気の済むまでそうした後、ゆっくりもったいぶりながら着替えを済ませる。

髪を結い、夕飯を作る。自分で作る料理は、何を食べても口に合わない。もともと料理も、その手伝いも嫌いな方だった。母も自分の仕事だからと、料理を手伝わせるような事はしなかった。

だから、料理は毎回レシピ本との格闘だった。

味見だってもちろんしているのに、美味しいと思うものは作れなかった。

写真と目の前の物体が同じとは思えず、捨ててしまったことも一度や二度では無い。

きっと向いていないのだ。


祖父が私の料理を食べない理由も、そんなところだろう。一度もその腕を、振るわせてはくれなかった。

畑仕事から戻って来ても、学校はどうだとか、当たり障りの無い話しかしなかった。特に、クラスメイトの様子を聞きたがったが、なにせ私には友達が居なかったので、返す答えはいつも同じだった。

そして、その後は決まって自室にこもり、何かしら外で買ったものでも食べながら、晩酌でもしているようだった。

私に言われたく無いだろうが、変わった人だと思う。


そうでなければ「〇〇の家の子」なんて、言われる事は無いだろう。

祖父の事は大好きだったが、あの日のあの男の子の表情を思い出す時だけは、よその家に生まれたかったと、そう思ってしまうのだった。


たまにおかしな行動も目撃した。

夜、自分の部屋で寝ていると、ノックもせずに祖父が入って来ることがあった。

気がつきはしたが、なんとなく私は寝たフリをして、耳と薄く開けた目で様子を伺う。ベッドのそばに立つ祖父の足が見える。

「・・・・・・・か」

小さな声で、何か一言呟くと、また静かに部屋を出ていく。こんな事が何度かあった。


そんなある日、クラスメイトの家出騒動が起きた。家出をしたのはクラスでも派手な女子で、正直苦手なタイプだった。

何かと私に突っかかっては、あの日転んだ真似をしたり、時には足を引っ掛けて転ばそうとまでした。私に味方するクラスメイトはいない。それがわかっているから、睨みつけるくらいしか出来なかった。


そういえば、四日くらい前にトイレに入っていると、外から水を浴びせられた。そのすぐ後にはバケツまで降ってきた。数人の笑い声。

呆然とした後、ふつふつと怒りが湧き上がる。下着を履き直し、すぐに個室を飛び出したが、すでに犯人達の姿は無く、遠く走り去る足音と「あははははは」という高笑いが廊下に響いていた。

きっとあの子に違いない。

びしょ濡れで教室に戻り、荷物を取る。ざわざわ、くすくす。色んな声があたりから聞こえるが、一人として、私に駆け寄るクラスメイトはいなかった。


あの女の子が目に入る。こちらを見てニヤニヤするのを見て、先ほどの自分の推測が正しかった事を知った。

出来るだけ落ち着いて、教室を後にした。泣いたり、走り出したりする事で、動揺するところを見せれば負けた事になると、何故かそう思った。

靴を履き替え、校舎を出る。


「おい!」後ろから声が聞こえる。

誰の声かは気付いていたが、聞こえないふりをして、歩き続けた。


「〇〇!」もう一度。


立ち止まり振り向くと、やはりあの男の子がいた。

走って追いかけて来たのだろうか、ハアハアと肩で息をしている。

少しの間見つめ合ったが、男の子は何か言いたいのか、言いたく無いのか、口を真一文字に結んだまま動かない。腿の辺りで握りしめた拳が、少し震えているように見えた。

私は踵を返して、今度は走った。

少しでも早くその場を離れたかったのと、さっきかけられた水が乾きつつあったので、目から溢れる涙が目立ってしまうと思ったからだ。


帰り道、命を主張する蝉の声が、あの女の子達の笑い声と重った。

私は耳を塞いで、叫びながら走った。


思い出しても腹が立った。家出など、知った事では無い。どうせ、街で知り合った年上の都会かぶれに、耳当たりの良い事を言われて付いて行ったりしたのだろう。

いつだったか、そんな自慢話を、恥ずかしげも無く大声で話していたことを覚えている。


しかし、一日経ち、二日経ってもあの女の子は戻って来なかった。

不穏な空気はクラス中に広がっていた。

もともと、それほど好かれてはいなかったのだろう。起こった事を推理する者はいても、心配を口にするものは一人もいなかった。

あの男の子と目が合った。今度は私から逸らした。


家に帰ると、いつも通り夕飯の支度をした。

普段通りの事をしていないと、なんだか落ち着かなかった。食材を冷蔵庫から取り出す。

まだまだ余裕はありそうだ。

楽しい気分になれないかと、鼻歌を歌いながら料理を作った。


この日は珍しく、夕飯の支度中に祖父が帰って来た。

「食べる?」出来るだけ明るく、そう言った。

例の早退の日も、祖父は何も聞かないでいてくれた。でも、心配させているに違いない。

祖父は「いや」と一言だけ言うと、さっさと自分の部屋に行ってしまった。無理をしているのが伝わったのか、それとも、やはり私の個性的な料理に、げんなりしたのだろうか。


その夜は、この地域にしては珍しく、むしむしとした熱帯夜だった。

寝つけなかった私は、昼間の事を思い出していた。あの時私は、どうするべきだったのだろうか。笑いかけるべきだったのだろうか、それとも、ほかのクラスメイト同様、うわさ話の一つでもすれば良かったのだろうか。


『ゴーン、ゴーン』


居間の時計が0時を告げていた。

半分聞きながらうとうとした。繰り返し繰り返し、答えの出ない問いかけが、浮かんでは消えていく。


その時『ぎぎっ…』廊下を歩く音が聞こえた。


この家には私と祖父しかいない。祖父だろうかとも思ったが、自分の家をこんなに遠慮がちに歩くだろうか。泥棒かもしれない。

すぐに玄関の鍵の事を考えた。田舎では、鍵を締める家の方が珍しい。

「やましいもんがあるでも無し、鍵なんて締める必要が無い」と祖父も日頃からそう言っていた。


もし泥棒だったなら。身体が強張る。ずっと帰宅部だった私が、泥棒に抗う術はない。できたとしても、せいぜい噛み付くくらいだろう。

それならと、ベッドの中で待ち構える事にした。


『ぎぎっ、ぎっ、ぎっ』音が近づいてくる。

指一本でも触れられたら、噛み付いてやる。

『きぃぃっ…』部屋のドアが開く。


(あれ?)

泥棒にしては、少し様子が違う気がした。足音はまっすぐこちらに向かっている。

そこに現れたのは、祖父だった。

(またなの?)

何度か目の当たりにした祖父の奇妙な行動。

やはり、どうすればいいかわからず、寝たふりをして様子を伺う。

祖父がベッドへ向かって歩いてくる。


『べちゃ、べちゃ』


え?そう思った瞬間、背中が凍りついた。あの日聞いた音に似ていた。乾きかけの血が、床から剥がれる不快な音。

気のせいだろう。そんな思いも、薄く開けた目に入った景色にかき消された。

祖父の履くステテコが、何か黒っぽい色に染まっている。鼻腔の奥に生臭い、錆びた鉄のような匂いがした。


(うそ…)


心臓が早鐘をつく。音に気づかれていないか、心配になった。


「・・・・は・・・き・・・か」


耳に全神経を集中する。その時


『にちっ…』


口に何か当てられている。さっきの匂いが強くなる。祖父の異常な行動に、泣き出しそうになる。

逃げ出そうにも、身体が動かない。


「・・・肉は・・好き・・か」


今度ははっきり聞こえた。聞こえはしたが、意味がわからない。いや、わかりたくなかった。

意識はここで限界を迎えた。


その日の朝は、鳥のさえずりで目が覚めた。朝である事に気付いた瞬間、飛び起きる。

あたりを見回す。そこには、いつもと変わらない、見慣れた部屋があった。床に血の足跡などは無く、あの時感じた血の匂いも、どこにもありはしなかった。

昨夜見たのは夢だったのか。ただでさえ、おかしな行動を目撃していた最中、クラスメイトの失踪事件。なんでもない風を装っていただけで、内心こたえていたのかもしれない。

案外繊細なのだと思った。そんな自分が少しおかしくなって、ふと笑みがこぼれる。


部屋を出て、台所へ向かう。祖父は既に畑へ出かけたようだ。何気なく時計を見て驚いた。

家を出る時間はとうに過ぎている。何故、起こしてくれなかったのか。八つ当たりとわかっていながらも、そう思わずにはいられなかった。

慌てて部屋に戻り、着替えを済ませる。今ならミュージカルで早着替えも余裕だろうと思い、すぐにそれどころではないと気づく。

カバンをふんだくるようにして掴み、玄関へ向かって廊下を走る。靴を履きかけて気付いた。顔も洗っていなければ、歯も磨いていない。

これでも女の子だ。気付いていながら、そのままでいいとは思わない。カバンを放り出し、洗面所へ向かう。


勢いよく私の顔が、鏡の中に転がるように飛び込む。

そこにいるのは、笑顔の私。のはずだった。

目の前の鏡を見て足がすくみ、よろよろと後ろの壁にもたれかかった。

鏡に映った自分の顔。その口周りに、べったりと乾いた血がこびり付いていた。

「・・・肉は・・好き・・か」

祖父の声が聞こえた気がした。


家にいるのが怖かったので、学校へ行くことにした。学校では、なるべく普段通り振る舞っているつもりだった。

でも、時折口周りが気にかかり、トイレにいっては顔を洗う。普段の私からすればおかしな行動に、誰も興味を示さなかった。今度ばかりは、心細く思った。

終業式でもある今日は、昼過ぎには学校から帰らなければならない。あの家に戻ると考えただけで、恐ろしくなった。


しかしついに、ホームルームの時間も終わってしまった。待ちに待った夏休みに、クラスメイトは浮かれている。どこへ出かける、何をして遊ぶ。クラス中で交わされるそんな会話も、どこか遠くに聞こえた。


(どうして?どうすれば?)朝からそればかり考えていた。

不意に顔を上げる。いつかのように、男の子と目があった。今度は逸らすことはしなかった。打ち明けようか、それとも…。そんな事を考えた。

向こうは向こうで、自分を呼び止めた時と同じ、何か言いたげな顔をしていた。

でも…。

たまらなくなり、逃げるようにして教室を出た。


帰り道、田んぼの畦道をとぼとぼと歩く。

家に帰りたくなかった。

(次はきっと…)

ゆっくり歩いているのは、それだけでは無かった。どこかで、あの男の子が追いかけて来てくれるのではと、期待していた。


家の近くの林道に差し掛かった。鬱蒼と生い茂る木々が、夏の日差しを遮る。すうっと熱がひき、ひんやりとした空気が体を包む。

いつもは通らない、人気の少ない回り道。あまり好きな場所では無かった。


「〇〇!」


心が跳ねた気がした。振り返ると、男の子が走ってやってきた。しばらく、息が整うのを待つ。

学校からここまで走って来たのだろうか、シャツは濡れ、顎から汗が滴り落ちる。

膝に手をつき、はあはあと荒く息をする姿を、ただ見つめていた。


「なあ、〇〇。俺、知ってるんだ。いや、知ってたんだ」

ようやく体を起こした男の子は、手の甲で汗を拭いながら言った。

少し前の、心強い味方を得たような気持ちが、みるみるしぼんでいった。


(何故?どうして?)

頭に言葉は浮かんでも、それは口に出せなかった。言えば認めた事になってしまう。


どうすればいいかも分からず、走り出そうとした。しかし、足元の根に気づかず、数歩のところで転んでしまった。


「大丈夫か…」

男の子はあの日のように、手を差し出した。

礼を言いながら立ち上がるが、すぐに痛みに顔をしかめる。足をくじいたらしい。

それを見て男の子は屈んで跪いた。

「乗って、送るよ」

何故ここまで出来るのだろう。優しさに、暖かい気持ちが胸に溢れた。


言われた通り、背中におぶさった。男の子の体はまだ熱をもっていた。肩に置いた手に自然と力が入る。

男の子は立ち上がって、歩き出した。

二人とも黙っていた。どちらから、何をどう切り出すか、様子を伺っているようだった。


おぶさった事で、男の子の顔がこれまでにないほど近くにあった。凛々しい目元に長い睫毛。

あまり長く見るものではないと、横顔から視線を首すじに落とした。いくら木陰が涼しいといっても、人一人おぶって歩いている。うなじから汗が噴き出していた。時折、つうっと流れる。

炎天下の中、ずっと運動しているのだろう。男の子の肌はやはり、よく日に焼けていた。

少し、顔を近づけてみた。


「そうやったのか?」


男の子が急にそう言ったので、驚いて一瞬動きを止めた。


「あいつの事も、こうやって誘いこんだのか?」


尚も続ける。足を挟む腕に力が入る。少し痛いくらいだ。

でも、今はそんな事より、目の前の首すじから目が離せない。


ポタッ…


汗ではない何かが、男の子のうなじに落ちる。

大好きな人の、大好きな首すじ。

犬畜生のようにかぶりつくのはいけない。行儀が悪いし、ましてや私は女の子だ。

肩に置いた手に力が入る。親指の爪が、シャツの上から皮膚を破り、その周りをジワリと赤い血が染めた。ああ、血を啜るのも捨てがたい、でも、やっぱり最初は…。


そう思って、首すじに口を近づけた。

「すず!」

おじいさんが、目の前に立っていた。畑仕事の姿で、手には鎌を持っている。

「もう、やめておくれ…。これ以上は…」


何を言っているのだろう。これ以上も何も、食事はこれからだと言うのに。


「あれは…。息子に血が強く出たのだと、そう思っていた。でも、違う。お前がそうだった。お父さんはお前をかばったんだな?そうなんだろう?」

昔から曖昧な言い方を嫌い、あやふやな言い方をすれば怒っていた祖父とは思えない口ぶりに、少し驚いた。


「もしかしたらと思っていた。お前は普通の食事を好まなかった。味覚がそうなってはおらんからだ」

話の見えない。祖父が心配になってきた。そうか、いつも被ってる麦わら帽子が無い。日射病か何かで気が変になっているのかも知れない。


「そして、昨日の夜だ。お前は覚えておらんのだろう。気がついてすらいない。だから、あんな風に振る舞える」

正午を告げるサイレンが、どこかの田んぼから聞こえた。いい加減、お腹も空いてきた。

「お前は何を作っていたつもりなんだ?何を使って…」


「あの女の子の肉で……」


祖父はゆっくり、こちらへ歩いて来た。嫌な予感がした私は、その場から離れようとしたが、男の子は足を離してくれない。

「だからわしは、この子に全てを打ち明けた。わし一人では、どうにもならんと思ったからだ」


男の子が口を開いた。

「あいつは俺の幼馴染だ。あいつが居なくなったあの日、お前はあいつに水をかけられて、早退したよな。俺達は揃ってお前の家に謝りに行くつもりだったんだ。俺がそう言い聞かした」

「なのにあいつは、先に行くって学校を出た。お前を追いかけてな。そして、そのまま帰って来なかった」

男の子は今や泣いて居た。せっかくかっこいいと思っていたのに。人前で泣く男の人は、好きになれない。父親を思い出す。


「この子は家を訪ねて来た。あの子が来なかったかと。もしやと思いはしても、お前を疑いたく無かった。しかし、それが間違いだった」

右、左と足を動かす。抜けない。抜けない。抜けない。

肩を押してみるが、効果はない。親指だけが、ずぶずぶ沈んでいく。男の子は顔をしかめる。

だらしがない。


「今朝、この子の家に行き、全てを明かした。そしてここで、始末を付けることにした」

祖父が私の左腕を掴む。昔から畑仕事などで鍛えた腕は、容易に振りほどけない。

男の子を跪かせ、右手を男の子の肩に踏みつける。右手も痛いが、尻餅をついたお尻も痛んだ。


「そんなに人の肉が好きなのか?そんなに…そんなに人の肉が食べたいか?」

あの夜聞いた言葉を繰り返しながら、祖父は私の首に鎌をあてがった。

「そんなに…そんなに…」

嗚咽を漏らし、泣きじゃくりながら、祖父は鎌を勢いよく引いた。

「ごめんなさ・・・」



言い終わらないうちに、私の首は落ちました。

そしてぐるぐると世界は回り、空を向いて止まりました。


木の間から見える入道雲が、ギラギラと輝いていました。

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