魔女②

 まったくとんだ無駄足だった。


 そう思いながらこの迷路のようにバカでかい校舎を駆け抜け、外に出ようとする。一度教室に戻って鞄を手に取り、階段を延々と降り続けてようやく見えてきた玄関で靴を履き替え、校舎の外へ。外はもう真っ暗で、曇っていないからこそ満天の星空が見えた。都会でも星は見えるんだなと嬉しくなったが、そんな感傷に浸っている場合ではない。靴箱から出ても視界に外界への出口はないのだから。

 ここからがまた長いのである。

 校庭を抜け、きちんと整備された道路(車がすれ違うことができるというのだから驚きだ)の先にある校門まで、大体徒歩十分弱かかる。おい、これ登校中にチャイムが鳴るだろ。遅刻常習犯が出かねないだろう。と、ここ数日で何度も思っているのだが、さすがに入学早々遅刻をするのはまずいだろうという常識的な判断が私の中で働いているのか、自然と目が覚めてしまう。驚くべきは周囲の生徒も大概で、私が早く起きたと思った日にも、もう登校を済ませている生徒がいたりする。神谷なんかはその典型でいったいいつ家に帰っているのだろうと思うほど、学校内の滞在時間が長い。ひょっとして住んでいるのではないだろうか。


 住んでいる。学校に。


 その言葉で思い出すのは、否が応でも今日出会えなかった図書室の魔女だった。それこそ、まさに住んでいてもおかしくはない。だからこそ噂になるのではないだろうか。そんな風に、私の頭の中は、魔女のことでいっぱいだった。

 顔も、名前も、姿かたちすら何も知らない魔女のことを、ひたすらに考え続けていた。


 シミュラクラ現象というのだっただろうか。人間の認知というものは非常にあいまいというか適当というか、「補完」する能力に優れている。どこかの大学がアルファベットの内部をごちゃまぜにしても単語として読み取れるとか、日本人には決して読めないアルファベットのフォントを作れるだとかそういった話と同様で、二つ並んだ点と、その二つを結んだ中心線上に別の点があれば、人の顔に見えてしまうという、心霊写真を真っ向から否定する心理学上の言葉だった、と思う。いや正確ではないし、この喩え話があっているのかも定かではないが、それはさておき。

 考えている、思い込んでいることは、現実に起こってしまう。引き寄せているという考え方もできるが、どちらかというと、現実に起こったことをそういうことだと「認識」してしまうのである。


 例えば、空に浮かんだ円盤をUFOだと思い込んでしまうような。

 たなびくシーツを幽霊と見間違えてしまうような。


 そして。

 魔女の典型ともいえる黒ゴシック調の衣服を身にまとった女性のことを。

 魔女だと思い込んでしまうような。


「…………」

「…………」


 私とその女は真正面からにらみ合った。睨んだというのは正確ではない。お互いがお互い、ポカンとした間抜け面でお互いのことを見合っていた。それはまさにお見合いの様相を呈していて、いやいや経験のないお見合いのことをなんで私が知っているのかといえばそれはテレビドラマの経験を自分のものかのようにトレースしているからで


「下がれッ」


 急に、空気を切り裂くような美しい声が聞こえた。かと思えば、私の体は何かに押されるようにお尻から倒れこんでいる。私のキュートなお尻が!


「ケガは?」


 見ると、先ほどの女性が私にタックルを食らわせたように覆いかぶさっている。魔法じゃないのかよ。単なる物理攻撃だった。

 そして、数瞬前まで私が立っていた場所には、小さく、それでいて明確な穴が開いていた。


 まるで、銃弾でも撃ち込まれたかのような。


「あ、ありませんけど……」

「まったく、人騒がせな奴。なんでいるのよ、今、ここに」


 その声に、私はどこか聞き覚えがあった。なんというか、つい最近、すぐ前に聞いたことのあるような……?


「司書の先生じゃないですか。何してるんです、コスプレ?」

「ぶっ殺すわよお前、今ここで」


 突然の殺意を全身に浴び、私の体は縮こまった。まったく、仮にも教師と生徒の関係なのだから、もう少し優しく親身に接してほしい。学校図書館の司書は教諭じゃないのだっけ。そんな細かい制度までは知ったことではないのだが。高校生にとって、周囲の大人など皆同じに見えるのは致し方ないことだと思う。


 そんな文句を言ってやろうかと思ったのだが、


 風切り音。見えない何かが空を切って飛来する。私たちのすぐ横を何かが飛んで行ったことを知る。──知ってしまう。


「ああ、もう!」


 苛立ったように私の手を引いて走り出す先生。名前がないと呼びづらいな。魔女先生とでも呼ぼうか。もう先生でいいじゃねえか。


「どこへ行くんですか先生!」

「うるさい死にたくなかったら黙って走りなさい!」


 先生も何やらテンパっている様子だった。これは下手に口を出すと舌を噛むか目の前の人に殺されるかする。私はそういう機微には敏感なほうだ。敏感すぎて「あー、こいつ私のこと嫌いだな」というのを鋭敏に察知してしまった挙句距離をとるまでする。もちろん表面上は全く変わらずにこにこと愛想よく接するので皆は私のことを八方美人だと思っているだろう。ダメでは?

 そんな間にも音は間隔なく迫っていた。銃声こそしないが飛来間隔は拳銃のペースだ。オートマティックで銃弾が自動装填されるリボルバータイプのような連射速度。弾切れを待つのは、相手が銃ならば現実的だが、今の私には望みが薄いように思えた。


 撃鉄を打つ音がしない。


「あの、先生」

「なに、よ。いいから、走って」

「いえ走ってます。先生が遅すぎて置いていきそうなんです」


 絶望的に体力がない。いやその魔女は本当にただのコスプレかよ。箒とか使って私を置いていくなりなんなりの気概を見せてほしい。もっとやる気を出していくべきではないのか。


「なんなんです、この音。危ないことだけはわかるんですが」

「危ないのが分かっていてなんでそんなに冷静なのよ、あんた」

「いえ、ここで死ぬならそれも運命かな、と」

「そんな簡単に諦めるな」

「死んだら天国に行けそうじゃないですか」

「その自信はどこから来るの」

「だからほら、来世に期待的な?」

「今世への執着がなさすぎる!」


 つっ込む元気はあるようで安心した。もしかしたらこれが無駄な体力を浪費させているという可能性は否めないが。それはそうと、いったい私が今何に巻き込まれているのかは全く判然としていない。本当に、何か危ないんだろうなあ、という程度だ。危機感のなさも当然である。


 そして、人と会話をして思い出した。

 いくら春先とはいえ、私が図書室の閉館時間まで粘っていたとしても、そもそも。そしてこの時間に、この場所で、星が見えるなんてことも。敷地がいくら広いとはいえ、渋谷へのアクセスが十分圏内のこの場所で、周囲の明かりを気にすることなく、満天の星空へ思いを馳せるなんて──


「私は一体、何に巻き込まれているんだ」


 誰にでもなく、そう呟く。その言葉を拾った先生が、唇の端を吊り上げる。


「ようやく現実に戻ってきた?」

「いや先生、まずはその震える足を止めましょう」

「もう少し時間を寄越しなさい」

「そんな悠長な時間があるならいいんですけど」


 私は、先生が膝に手を当ててゆっくりと息を整えているその姿の先を見ていた。目が離せなかった。


 そこには、この世のものとは思えない、美しい≪何か≫が存在していた。蝶のようにも、蛾のようにも見える昆虫型のそれは、まるでありえないような未知の色彩をしていた。博学広才の私の語彙をもってしても言い表せないほどの美しさ。一言でいえばヤバい。

 あれは本能でわかる。関わってはいけないものだ。

 おそらく宇宙の外側にいる神やこの世のものとは思えぬ異形に出会った者たちも、こうして精神をすり減らし、くるっていったのだろうと直観させられる程の美しさだった。人間は芸術でくるうことができる。それが現実で塗り広げられたものならば。


 どんなにあり得ないものでも、一つ一つ可能性を排除していって、最後に残ったものは紛れもない事実なのである。目の前にあるあれは、私が感覚でとらえたあり得ないもので、それが今この場に存在しているという事実そのものが、もはや真実を超えて真理であるのではないだろうか。


「現実に戻ってきなさい」


 痛い。すごくいい音が鳴った気がする。いや、聞こえてはいないが私の頭に響く痛みがそれを証明している。推論は一歩一歩進めていけば確実に真相にたどり着けるってホームズ先生が言っていた気がする。


「なんで殴るんですか」

「あんたが囚われたからに決まってるでしょ。いいから下がりなさい。


 気が付けば、私は数歩先生から離れ、あの怪物のほうへふらふらと歩み寄っていたらしい。まるで美しさが、獲物を引き寄せる疑似餌であるかのように。


「ほら、後ろに隠れて。まったく、世話の焼ける」


 ぶつくさ文句を言いつつ、先生はいつの間に取り出したのか、分厚いハードカバーを片手に持っていた。黒い装丁が装飾過多な印象を放つ、理解不能な洋書を間近で見た気分だった。


「なんです先生、ゴス趣味?」

「はっ倒されたいのあんた」


 この状況でいまだに余裕ね、とため息をつくと、先生は適当なページを開き、≪何か≫と相対する。


「来なさい、≪カタラーナ≫」


 そう呟いた直後。

 先生が持っていた本が光り輝き。

 先生と≪何か≫の間には。


 首輪につながれた小学生くらいの幼女がちょこんと座っていた。


「…………へ」


 変態だッ!

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グリモアガール・スラップスティック @sagimori

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