第5.2話 ハルカ

 まだ暗さの残る早朝に、凪月は玄関で靴ひもを結んでいた。

 エナメルバッグを肩にかけ、開き切らない目をぐいと擦ってから、あくびを一つした。

 練習の開始時刻はまだ先だが、凪月は早めに家を出て、流々香の家に向かわなくてはならない理由があった。

 不本意であるが、女装をしなくてはならない。女子バスケ部には、女装した状態のナツ、が認知されており、彼女達のコーチをするためには、女装が必要だった。

 さすがに化粧を自分ですることはできないので、流々香に頼む。

 問題は、流々香の家に水卜華が居候しているということだ。

 昨日はうまいこと流々香が配慮してくれたのだろうが、今日は、大丈夫だろうか。SNSで確認したところ、大丈夫だから来いとのことだが。


 まぁ、信じるしかあるまい。


 女装も不安だが、今日の練習メニューについても悩ましい。

 自主練をする際に、いろいろと練習のロジックに関しては勉強したことがある。

 でもコーチングをするなんて初めてだ。

 はぁ、と、凪月はどうしてもため息が尽きなかった。


「早いじゃん、ナツ」


 突然の声に、凪月はびくりと身体を震わせた。


「ハル姉こそ、こんな時間に起きるなんて珍しい」

「あんたがごそごそしているから、起きちゃったんだよ」


 ぼさぼさの髪をかきながら、遥はドアにもたれかかっていた。


「最近、こそこそ何やってんの?」

「別に、何も」


 凪月は少し驚いた。遥が凪月のやることに口を出すなんてのは珍しいことだった。彼女はよくもわるくも自分のことにしか興味がない。遥の後ろをついていく凪月が転んでも、一切気にしない、そんな姉だった。


「また、流々香とわるい遊びしてんじゃないだろうな」

「し、してねぇよ」


 そのくせ、妙に勘がいいからたちが悪い。


「ちょっとバスケのコーチしに行くだけだよ。ルル姉の頼みで、仕方なくな」

「ふーん」


 遥は眠そうに相槌をうった。


「まぁ、あたしは、どうでもいいんだけど」

「じゃ、放っておいてくれよ」


 凪月は、つっぱねて立ち上がった。


「ハル姉には関係ないんだから」

「そうなんだけどさ」


 遥は、毛先をくるりと巻く。


「最近、あたしの練習着が何着かなくなってんだけど、あんた知らない?」


「……は? 俺が知るわけないじゃん。何言ってんの? 姉の練習着を盗むとか頭おかしいだろ。意味わかんない」


「何、焦ってんの?」

「は? は? 焦ってねぇし! ちょっと集合時間に遅れそうだから、焦ってるだけだし!」

「どっちなんだよ」


 遥は呆れたように目を擦ってから、


「まぁ、何でもいいんだけどさ」


 とつまらなそうに言った。


「ちょっと、あまえてんじゃねぇの」


「……は?」


 その突き放したような声色がひっかかり、凪月は振り返った。


「何だよ、いきなり」

「別に、そのままの意味だけど」


 遥は髪の毛先をいじりながら、言葉を繋げた。


「流々香は優しいから、あんたをあまやかすかもしれないけれど、あたしは優しくないから」

「だから、何だよ」


 ときどき遥は意味のわからないことを言う。

 というよりも、相手の理解を求めないような、そんなものの言い回し。

 他の者ならば、変わり者の戯言と聞き流せるかもしれないが、なまじ血の繋がりのある凪月には、その意味するところを片鱗ながらも理解できてしまうのだった。

 凪月は、遥の見透かすような目を見れず、視線を逸らした。

 そんな凪月の気持ちを無視して、遥は、じっと凪月をみつめ、そして告げた。


「自分のことは自分で決めな」


「わ、わかっているよ」

「どうだか」


 流々香は、欠伸をしてから、


「まぁ、いいけど」


 にやりと笑って、おどけたように言うのだった。



「あたしに顔を忘れられないよう気を付けてくれよ」

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