見えている

彼は、見えている。


きっかけは、事故にあったとか、悲しい出来事があったとか、そんな衝撃に値するようなものではない。

ただ、彼は見えるようになった。

いや、見るようになった。


それは、彼にとって幸福を得るために必要なことだったのかもしれない。

つまらない日々のスパイスを求めるように、目を向けるようになっただけで、彼は見るようになった。


男は損だと思っていた。女のように嫁ぐという逃げができない。

どんなに無能だと言われても、空気のように扱われても、仕事をして稼がなければいけない。年を重ねるごとに、結婚して子供がいない人間は成長ができないと言われ、もともと空気のようだった存在が、ゴミのような存在として扱われるようになる。


次々と結婚して子供をもつ同期を見ながら、出世コースをはずれた窓際部署で、ただひたすら時間が過ぎるのを待つ。

家に帰っても、待っている人はない。

何が幸せなのか、もうわからなくなっていた。


毎日を面白いと思えることは、どんなことだろうかと、考えていた。

面白いことは落ちていないか、通勤途中でも、仕事場でも家でも、辺りを目を凝らしながら見ていた。


最初は、電車の電線だった。

電線の上で、カラスとじゃれるそれを見た。

はしゃぎすぎたそれは、飛んで行くカラスを追いかけようと電線をばねに思いっきり体重をかけていた。


会社に着くと、「電線がカラスに負けて、停電で電車動かなくてさ」と話している同僚がいたので、詳しく聞いてみると、彼が見た電線が通る線だった。


そのとき、はじめて、自分は見ているのだと彼は確信した。


見えるようになってから、男で良かったと思った。

会社のトイレや、家の風呂でも見ることがあったからだ。

見られるのは、男でもやっぱりいやだが、女に比べたらましだろうと思うことができた。


そのうち、彼は見えるそれと話せるようになった。

一人で家に帰ると、たくさんのそれが集まってる時もあって、みんなで語り合った。

毎日が面白いと思えるようになった彼は、ふと鏡の前で笑う自分を見た。


彼の肩の上で、初めて見たそれが、彼に向って笑った。

それと彼は、お互いの顔を見ながら笑った。


そして、彼は笑いながら、涙が止まらなかった。

自分は、こんな顔だっただろうか。人間はこんな姿だっただろうか。

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