地球照


 あれから数か月。プレゼンは見事に成功し、契約を取ることに成功する。そのこともあり、敬一郎さんはようやく念願だった経営陣に加わる事ができた。ワタシは敬一郎さんの役に立てたことが本当に嬉しく、これ以上ない喜びに包まれた。これからも敬一郎さんの為に生きて行こう。なにが有ってもワタシは敬一郎さんの為だけに生きて行こう。ワタシは改めてそう思った。それが私の幸せであり、ワタシがやりたい事なのだと。

 プレゼンが終わり、契約のとれた仕事の忙しい合間に敬一郎さんもワタシと敬一郎さんの合瀬は続いていた。そして、そんなある日。いつものように敬一郎さんが私の事を送り届けてくれるその途中、敬一郎さんはワタシに提案をしてきた。

「悠里、今回の件は君の力が本当に大きかったと思う。もし君がいなければこの契約は取れていなかっただろう。感謝してるよ」

 敬一郎さんの言葉にワタシは少し涙が流れそうになるくらい嬉しかった。敬一郎さんに認められた。これほど嬉しいことは無い。

「できれば君に何かお礼をしたいと思ってね。どうだろう?」

 ワタシは思わず涙ぐむ。

「ありがとうございます。でも、もうその言葉だけでワタシは十分です」

「そうもいかないよ。仕事の事はもちろん会社の方で考慮されるだろう。もちろんそれなりのポストもあてられることになると思う。しかし、それとは別にぼく個人から君へのお礼がしたい。そうだな……どうだろう、君の願い事をなんでも一つ僕がかなえるというのはどうだろうか?」

 思いもかけないその言葉でワタシの心臓が一つドクンと鼓動を打つのが解った。敬一郎さんからこの言葉が聞けるとは思ってもいなかった。その願い事ならもう私の中でワタシの中でも決まっている。でも、それを顔に出さないようにしなければならない。それに私の願いは叶えられることは無いのも分かっている。おそらく敬一郎さんもそれが解っているのだろう。そう、ワタシは都合のいい女でなければならない。それが敬一郎さんと一緒にいるための最低の条件であり、必須の条件でもある。だからワタシは穏やかな笑みを浮かべ、少し考えるふりをし、やがて口を開く。

「ありがとうございます。でも、今の所は何も思い浮かぶものはありません。また何か思いついてからでもいいですか?」

 ワタシの言葉に敬一郎さんは少しほっとしたような複雑な表情を浮かべるが、すぐに笑顔で私に返す。

「ああ、構わないよ。悠里の為だからどんな無茶でも聞くつもりだよ。何か思いついたら教えてくれ」

「ありがとうございます。その時にはお願いしますね」

 ワタシはそう言うと最後に敬一郎さんにキスをする振りをするが、いつものごとく敬一郎さんはそれを嫌がり、ワタシはそれに微笑んで車を降りる。

 車が遠ざかるのを見送り、ワタシはジブンの部屋に上がっていく。部屋の中に入り、今言われたことを反芻しながら思わず笑みを浮かべると同時に、すごく悲しい気持ちにもなる。どうせ叶えられることの無い願い。その思いが私を悲しくする。でも、敬一郎さんにもらった言葉、それ自体はワタシの中で今までの敬一郎さんとの間柄で一番望むべくもない言葉だったことには素直に嬉しく思う。

 ワタシはぐるぐるといろいろ考えて疲れてしまい、その日は早めに寝ることにした。


 それからのワタシは何か浮ついたような感じで毎日を生活していた。願い事の件は敬一郎さんには何も話していないし、おそらくワタシは敬一郎さんには何も言う事は無いだろう。叶えられない願い事を心の中に留め、それを糧に生きていくだけでワタシには十分だ。それに敬一郎さんもワタシに対してそう思っているに違いない。だからワタシは叶えられない願い事をずっと秘めてこれからも生きていく事になる。それが敬一郎さんがワタシに求めているものなのだから。

 そうやって今までと同じ生活を続けていたある日、お兄ちゃんからメッセージが入る。ワタシはもう会うつもりもなかったが、メッセージを読むとなんとなくお兄ちゃんに会いたくなてしまった。そして、ワタシはお兄ちゃんにメッセージを送り返す。

 すぐに返事が返ってきて、それから近状の報告をいろいろしていると、今度の週末にお兄ちゃんと会うことになった。でも、今更どうしてお兄ちゃんは連絡を取ってきたんだろう……前回会った時に私にさよならと言われたはずなのに。それほどお兄ちゃんは鈍感というか、意味が解らなかったのだろうか。でも、まあいいか。ワタシは別にお兄ちゃんに会うことに対してはわだかまりもないしね。だから、軽い気持ちでお兄ちゃんに会いに行ける。ワタシが愛に行くつもりだしね。それに、なにがあってもワタシは敬一郎さんの物だから。

 それから数日はいつもの通り短い合瀬を敬一郎さんと繰り返し、身も心も敬一郎さんの為に捧げ続けるいつもの毎日を繰り返した。本当に毎日が幸せな日々だった。そして、週末がやってくる。

 ワタシはいつもの通り化粧をし、服装はちょっとラフなかっこ。敬一郎さんに会いに行くわけじゃないからね。お兄ちゃんに会いに行くくらいならこれくらいで十分だ。まあ、もちろん外を出歩くには恥ずかしくない身なりでいかないと、もしかしたら敬一郎さんにどこかで会うかもしれないしね。ゆっくりと時間をかけ準備をし、待ち合わせの時間に遅れないように家を出る。待ち合わせの場所はどこだっけか? そう言えばお兄ちゃんに会いに行くのは初めてだからよくわからないな。まあ聞けばいいか。そう思い私はメッセージをお兄ちゃんに送る。すぐに返事が返ってくるが、『いつもの所だよ』という返事が来て、ワタシは困ってしまう。そのいつもの所が解らないから聞いてるのに。もう一回その場所が何処かを聞いてみると、既読は着くのに少し時間が開いて返事が返ってくる。どうも少し困惑したのだろうか。でも、ちゃんと場所を送ってきてくれたからこれで会いに行ける。

 ワタシは駅に着くと電車に乗り目的の駅まで向かう。これからお兄ちゃんに会うというのにワタシが考えていることはいつも敬一郎さんの事ばかり。敬一郎さんに会いたいそのことがいつも私の頭の中でぐるぐる、ぐるぐると回っている。お兄ちゃんには悪いけどそれが今の私の現状。敬一郎さんことを考えて日が傾き、黄昏だした景色を背景に、窓に映るジブンの姿を見ながら、ワタシは今日の姿を確認する。少し地味めの服だが、いつも通り完璧。少し窓に映る自分に微笑んでみて笑顔を確認する。相変わらず笑顔も可愛く見えるように笑えている。そんな確認をしているうちに目的の駅に到着する。

 どこかで見たことのある駅だ……まあ、何度も来ているのだろうからそれも不思議ではないか。腕時計を確認する。電車は時間通りに到着していたから待ち合わせに遅れることは無いだろう。駅を出て待ち合わせ場所まで向かうとまだ時間には少し早いというのにお兄ちゃんはもう着いており、ワタシを見つけるとお兄ちゃんは軽く手をあげ、こちらに近づいて来る。

「お兄ちゃん、早いね」

「まあな。遅刻して奢らされたんじゃたまらないからな」

 お兄ちゃんの言葉にワタシは少し怪訝な顔をする。ワタシはそんなことを言ったのだろうか? 

「どうかしたか?」

 ワタシは少し微笑む。

「ううん。なんでもないよ」

「そうか?」

「で、今日はどうするの?」

「そうだな……、どうだろう。少しその辺を散歩でもしないか?」

 お兄ちゃんのいう事に少し考える。一体お兄ちゃんは何をしたいんだろう? よくは分からない。前に私が何かをしたんだろうか。よくわからないが、まあお兄ちゃんがそうしたいというのならそれでも別に構わない。

「いいよ」

 ワタシは返事をし、そのままぶらぶらとあてもなく歩く。なんとなく見覚えの有るような景色。私は結構この辺りをお兄ちゃんと一緒に歩いていたんだろうか。知っているような、知らないような景色……。暮れかかった空。少し涼しい風が髪を揺らす。お兄ちゃんは黙って前を向いて歩く。なんとなく気まずいような雰囲気。一体前に私と何があったんだろう。ワタシは少し疑問に思いつつも、なんとなくお兄ちゃんに付き従うように、お兄ちゃんの少し後ろを歩く。

 しばらく歩き続け、ふと、どこか見覚えの有るような店に着く。

「久しぶりだけど、この店にでもいいか?」

 どこかで見覚えのあるバー……、そう言えば前に敬一郎さんと一緒に来たことがある。いつもは車で敬一郎さんと来ていたから、なんとなくここまでの道が解らなかったが、ここにきてようやくここが何処か理解できた。

 この店もどこで知ったのかよく覚えていなかったが、今になってようやくお兄ちゃんと最初に会った時に来た店だと思い出した。

お兄ちゃんは店の扉を開けるとワタシを置いて入っていき、それに続いてワタシも店の中に入る。仕儀とが忙しかったのもあり、もうずいぶんこの店にも来ていなかったが、時間が早いのもあるのだろう。店にはマスターが一人でカウンターの中でグラスを拭いており、お兄ちゃんとワタシが入るとマスターは少し微笑んで私達をカウンターに招く。

「いらっしゃいませ」

 そう言うとおしぼりを手渡し、目の前にコースターを並べる。そして、ワタシ達は注文をすると、マスターはすぐにその注文に取り掛かり、少し時間が経った後、ワタシ達の眼の前には注文したマティーニが並ぶ。それをお兄ちゃんは乾杯もせずに一気に飲み干す。弱いわけではないが、かなり強いカクテル、そんなものを一気にに見干すなんて今日のお兄ちゃんはどうしたんだろう? ワタシはなんとなくお兄ちゃんの事が心配になったが、目の前に出されたマティーニを手に取り、グラスの三分の一ほどを飲む。相変わらずバランスが良い。飲んだグラスを一旦コースターに戻し、ワタシはお兄ちゃんの方を見る。お兄ちゃんは黙ったままバックバーを見ているのか、もしかしたら、もっと遠くを見ているのか、なんとなく判断が付きにくいような目線で前を向いている。

「お兄ちゃん、どうかしたの?」

 ワタシはなんとなくいたたまれず、お兄ちゃんに声をかける。

「そうだな……。どうかしているのかもな……」

 独り言のようにぽつりとつぶやくお兄ちゃん。一体私は何をしたんだろう。疑問符しか浮かばないが、お兄ちゃんはマスターを呼び、また同じものを頼むと、また何かを考えるかのように黙る。また目の前にマティーニが来ると、今度はそれをそっと手に取り、ワタシと同じように三分の一ほど飲み、コースターにそっと置く。そして徐に口を開く。

「俺は前に悠里とここに来るまではマティーニなんて飲んだこともなかった。ジンがあんまり好きじゃなくてね。独特な香りも強いし、それほど好きではなかったんだ」

 そこでお兄ちゃんはまたグラスを手に取り、残ったマティーニを半分ほど口に運ぶ。ワタシもそれに釣られるように目の前のグラスを手に取る。

「でも、悠里は違ったよな。ここに来る前からマティーニを飲んだことがあるみたいだった」

 飲んだグラスをコースターに戻し、再び口を開くお兄ちゃん。ワタシはそれを黙って聞いている。

「その時はなんだか悠里は大人になったんだなって思った。けど、そうじゃなかったんだな本当は……」

 お兄ちゃんの言っていることの意味がよくわからなくって少し首をかしげてしまう。

「悠里にこのカクテルを教えた人がいて、そしてそれは悠里が大事に思って居る人だった……。そうなんだろ?」

 お兄ちゃんの言葉にワタシは黙って頷く。

 お兄ちゃんは寂しそうに頷く。

「俺はいつまでたっても悠里は妹のようなものだ。そう思っていたんだ。でもな、こっちに来て初めて電車の中で会った時。昔の笑顔見たときに、ああ、悠里はこんなにも綺麗だったんだ。そう思った。それからなんとなく悠里の事が妹のように思えなくなってきてしまったんだ……」

 お兄ちゃんの言葉に私は驚いてしまう。私自身お兄ちゃんの事はお兄ちゃんとしてしか思っていなかったところはある。でも、いつの頃からか私の中でお兄ちゃんの存在は大きくなっていたことは確かだった。だからワタシはお兄ちゃんに会いに行くときだけは私になっていた。それを私が望んでいたから。でも今のワタシは違う。だって、今のワタシにはお兄ちゃんは必要ない物。ワタシには敬一郎さんがいる。それだけで十分。決してそれがこの先何も残さないものだとしても、それでも敬一郎さんがくれた言葉だけあれば、ワタシはこの後何が有っても生きていける。それくらいの言葉をワタシはもらった。だからもうそれだけで私の役割は無くなった。

「お兄ちゃん……。何て言ったらいいかわからないけど……、ワタシには大事な人がいることは話したよね?」

「ああ、分かってる。それは分かってる。でもな、悠里。お前は本当にそれでいいのか?」

 お兄ちゃんの言っている言葉の意味が全く分からなかった。良いに決まっている。それだけ私は敬一郎さんの事を愛している。この気持ちが一方通行だとしても、それでもワタシは構わない。それくらいワタシはもう啓一郎さん抜きでは生きていけないようになってしまっている。

 それは私も分かっているはず。そう思っていた。でも、もしかしたら私はそれを望んでいなかったのか? なんとなくワタシはそう思いだしてしまった。でも、それでも私もワタシも間違いなく最初は敬一郎さんさえいればそれでいい。そう思っていたはず。いや、今でもワタシはそう思っている。でも、もしかして……。

「悠里、俺では悠里を幸せにすることは出来ないのかな……。俺だったら今の作り物の笑顔しかできないような悠里じゃなくて、純粋に見ている人を幸せにできるような笑顔を……昔みたいな笑顔を毎日引き出させてやれる。そう思うのは俺の勝手な思い込みかな?」

 作り物の笑顔? ワタシはいつも完璧な笑顔をしていたと思ってる。でも、お兄ちゃんはそうは思っていなかったという事? じゃあ、私の本当の笑顔って何? 

「お兄ちゃん、ワタシの笑顔変だと思ってたの?」

「いや、悠里の笑顔は本当に綺麗だと思う。でもな……。今の悠里は本当の笑顔を見せてないと思う。何て言うか……目の奥。そう、悠里の今の笑顔は目の奥が笑ってはいないんだ。久しぶりに電車の中で会った時の笑顔。それが昔の悠里の笑顔だった。でも、それ以降悠里の笑顔はいつも違ってた……」

 ワタシはお兄ちゃんの声を遠くに聞きながら、目の前のグラスを手に取ると一気に飲み干し。少し強めにグラスをコースターに戻す。

「お兄ちゃんに何が解るの?」

 それは静かな店の雰囲気にはそぐわないくらい、ワタシの声はジブンでも少し驚くほどの大きな声が出ていた。

「すまん……確かに今の悠里の事はほとんど何もわからないかもしれない。でも、それでも昔の悠里の事は俺は誰よりも知っている。今の悠里の事は俺は分からない。でも、悠里は絶対に無理をしている。そして、その無理が悠里の心を蝕んでいる。俺なら絶対に悠里をそんなふうにしない! 俺はお前の事が好きだ誰よりも!」

 何? どういうこと? ワタシは今凄く幸せ。敬一郎さんの為にならなんだってできるし、ワタシは敬一郎さんの事を愛している。そう、ワタシは誰よりも敬一郎さんの事を愛しているんだ! だから……だからお兄ちゃんは……。

“でも、敬一郎さんは私の事を愛してくれてないよ”

“うるさい‼ あんたに何が解るの?”

 心の中でワタシは私に応える。

“わかるよ。だって私だもん”

“あんたなんてただの田舎娘、でもワタシは違う。敬一郎さんがワタシに全ての物を与えてくれた! 仕事のやり方も、あか抜けなかったワタシの服装も、化粧の仕方も、今の生活すべてを敬一郎さんはワタシにくれた!”

“そうね……私もそう思うよ。でもね、それは敬一郎さんが自分の為にしたこと。私を思ってしてくれたんじゃないの。ワタシも本当はそのことに気が付いているんでしょ?”

“違う! 違う違う違う違う違う! ワタシは、ワタシは……”

“もう大丈夫だよ。目の前の人にすべてを委ねよ? お兄ちゃんは私達を幸せにしてくれるよ”

“ほんとに? ワタシの心は満たされる?”

“うん。大丈夫だよ! ワタシも私でしょ? じゃあお兄ちゃんの事は十分に知ってるよね? お兄ちゃんは絶対に私達を裏切らないよ。昔からそうだったでしょ?”

“そう……そうだね……”

“そうだよ。だから、少しお休みワタシ”

“うん……少し疲れちゃったよ。後は任せてもいいかな?”

“大丈夫だよ。だからゆっくりおやすみ”

“そうだね。ありがとう。幸せになってね”

“大丈夫だよ、お兄ちゃんがいるから”

 私はワタシを意識の彼方に見送る。私の中のワタシは最後にすべてを私に委ねてくれた。じゃあ、後は私が頑張る番だ。私はそう思い、私の方を見つめるお兄ちゃんに顔を向ける。

「お兄ちゃん」

 私の言葉に少し頷く。

「ありがとうお兄ちゃん。でも、本当に私なんかでいいの?」

 私の言葉にお兄ちゃんは少し困ったような顔をする。

「違うよ悠里」

「何が違うの?」

 お兄ちゃんは目の前に置かれたグラスを手に取り、それを一気に飲み干す。その飲み方はさっきの飲み方とは違い、何か勢いをつけるためにするかのような飲み方で、マティーニを飲み干すと、それをコースターの上に戻し、少し息を吐きだし、私の方に向き直る。

「いろいろ考えたんだ。それで出た結論は……俺は悠里じゃないとダメなんだ。悠里がいないとダメなんだ!」

 言い終わった後少し顔を背けるお兄ちゃん。お兄ちゃんは本気で私の事を思ってくれている。私もそれにちゃんと答えないといけない。それに、ワタシもそれを望んでいる。だから……。

「ありがとうお兄ちゃん。私も……私も同じ気持ちだよ。でもね……」

「でも?」

「今の私じゃまだ駄目なの……」

「何がだめなんだ?」

「けじめをつけないといけない」

「けじめ?」

「そう。私には今のお兄ちゃんの気持ちをすぐに受け止めることは出来ない。だから少し時間が欲しいの」

 お兄ちゃんは私の言葉に少し項垂れる。断り文句とでも思われているかもしれない。これ以上は言葉で言っても伝わらないかもしれない。私はそう思い、マスターを呼ぶと、会計を済ませ、お兄ちゃんを引きずるように店の外に連れ出す。そして、あまり人気のない道を選び歩く。そして、後ろにとぼとぼと着いて来るお兄ちゃんに向き直り、お兄ちゃんの目の前に立ち止まる。

 下を向いて歩いていたお兄ちゃんにぶつかりそうになる直前でお兄ちゃんが気が付き、慌てて顔を上げようとしたその瞬間。私はお兄ちゃんの唇に私の唇を重ねる。一瞬何が起こったのか理解が出来ていないようなお兄ちゃん。私はお兄ちゃんの首に腕を回し、お兄ちゃんの唇が離れないように抱き着く。どれくらいの時間なのか、すごく短いかもしれないし、もしかしたらすごい長い時間だったのかもしれない。まるで時が止まったかのような時間。そして、唇を離すと同時に、止まっていた時間がまた動き出す。お兄ちゃんの顔を見るとまだそこだけは止まっているかのように、まだ驚いた顔をしている。

「お兄ちゃん。これが私の気持ち。私もお兄ちゃんとずっと一緒にいたい。だから……。お兄ちゃんと一緒にいるために私はけじめをつけないといけないの。お願い、もう少しだけ時間が欲しい」

 私の気持ちをちゃんと理解してくれたのか、お兄ちゃんは黙って頷く。

「ありがとう」

 私はお兄ちゃんに微笑みかける。お兄ちゃんも私の笑顔を見て微笑む。それはまるで小さかった頃、私達が無邪気に微笑みあっていた頃のような微笑み。たぶん私も昔みたいにまた微笑んでいるんだと思う。

 お兄ちゃんが私の横に並び、私の手を取る。私達はお互いの手をしっかりと握りながら、暗い夜道を歩く。そして、ふとお兄ちゃんが空を見上げる。それに釣られるように私も空を見上げる。そこには細い三日月が浮かんでいる。でも、その三日月の周りにはちゃんとまん丸い月が薄く光りながらその姿を濃い藍色の空に浮かべている。

「お兄ちゃん、三日月」

「ああ、綺麗な月だな」

「うん。でも、ちゃんと三日月でも満月なんだよ! ほら」

 私は手を空に向け月をなぞるように少し動かす。

「ああ、本当だな。月はいつでも満月。光が反射していないだけで、ほんとはずっと満月が俺たちを見てるんだな」

 光り輝く三日月と、それに寄り添うように薄く光る月。この月は私と一緒なんだ。私とワタシはいつも一緒。今までは心はずっと離れ離れだと思ってた。でも、月は一つで、光っている部分だけが私じゃなくて、光に隠れていた部分も私。ずっと二人で支えあいながら、寄り添いながら生きてきたんだ。そう考えると私の瞳から滴が一筋こぼれる。

「どうかしたか?」

 お兄ちゃんが言葉をかけてくる。私は滴を手の甲で拭いお兄ちゃんに笑顔で答える。

「ううん。月がすごく綺麗だから、なんだか涙が出てきちゃった」

 私がそう言うとお兄ちゃんはまた月を見上げる。

「ああ……、本当に綺麗だな……」

「うん。本当に綺麗……」

「行こうか?」

「うん」

 私とお兄ちゃんは手を取り、駅までの道をあるく。薄い満月に照らされながら。


 週が明けて私はいつも通りに出社する。ただいつもと違うのは会社にいる時はほとんどワタシだったから、なんとなく雰囲気が違う私に少しみんなが戸惑っているようにも見える。でも、仕事はいつもと変わらないし、話しかけられてもそれほど違うことは無いと思う。まあ、自分では解らないだけかもしれないけど……。それでも、私はいつもお通り仕事をしていると、敬一郎さんが私に話しかけてくる。

「すまないが後で私の部屋に来てくれないか?」

「わかりました。今の作業が終わり次第伺います」

「そうしてくれ」

 敬一郎さんはそう言うと自分の部屋に戻っていく。私も今の作業を手早く終わらせ、敬一郎さんの部屋の前に行く。ドアノブに手をかける前に一つ深呼吸をする。深く息を吐きだしてから、ドアをノックし、ドアノブを回し部屋の中に入る。

「御用でしょうか?」

「ああ、忙しい所すまないな」

 敬一郎さんは少し仕事の話をすると、私はそれに答える。そして、敬一郎さんは私にまた話しかける。

「今日の予定は?」

 私は少し考える。これはいつも敬一郎さんが私を誘う時の言葉。

「その前に少しいいでしょうか?」

「……ああ、構わないが」

「前におっしゃっていた私の願い事の事なんですが……。あれはまだ有効ですか?」

「もちろんさ。でもそれは夜にでも……」

 私は敬一郎さんの言葉を遮る。

「いえ、ここで聞いていただけませんか?」

 有無を言わさないように敬一郎さんに話しかける。そんな私に敬一郎さんは少し驚いた顔で頷く。

「私の事を自由にしてくれませんか?」

 私の言葉を理解するのに少しの時間がかかったのか、敬一郎さんは驚いた顔で黙ったままだ。そして、ようやく意味が理解できたところで話し始める。

「なぜ……何故なんだ?」

 私は黙って敬一郎さんに微笑みかける。そう、お兄ちゃんが好きだと言ってくれた昔の私の笑顔、おそらく敬一郎さんが今まで見たことがないようなとびっきりの笑顔で私は敬一郎さんに微笑む。その笑顔で敬一郎さんはすべてを理解したのだろう。私は少し頭を下げて部屋を出ようとすると、敬一郎さんは椅子から立ち上がり、私の方に歩み寄り私の手を握る。私はその手を少し握った後、また微笑み、その手をそっと離す。そして敬一郎さんの部屋を出ると“ありがとう……”どこからか声が聞こえたような気がする。それに私も答える。

「こっちこそ、ありがとう……」

 そう誰にも聞こえないように呟き、私は自分のデスクに戻りまた仕事の続きを始める。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る