幾望照
『今日の予定は?』
いつものように敬一郎さんからメールが社内のパソコンに入ってくる。それに少し微笑みながらワタシは返信する。
『特に予定はありません』
そっけない返事のように見えるが、それは私と敬一郎さんとの間で決められたものだ。社内のパソコンを使っている以上誰にいつそれを見られるかもわからない。だから敬一郎さんはワタシに気を使ってそうしようと言ってきている。
本当に敬一郎さんの愛情を感じる事ばかり。ああ、なんて敬一郎さんは優しいんだろう。本当にそう思ってしまう。本当はメールででももっと愛をささやきたいのに。それでもワタシはそれを我慢してそっけなくメールを返すだけだ。今晩の事を考えるとワタシの心は浮足立つ。日中はほとんど部長と部下という関係でしか言葉を交わすことは無い。そのおかげで部長との関係を今までは社内の誰にもばれてはいないだろう。それも敬一郎さんのワタシを気遣った優しさだ。ワタシとしては社内でも二人が愛し合っているという事を見せても問題は全くなく、本当は会社のみんなにもワタシ達二人の事を祝福してほしい。そういう気持ちはいっぱいある。でもそんなことはしない。だって二人だけの秘密があるほうが二人の絆は深くなっていく。そう敬一郎さんは言っていた。ワタシもそうなんだと思っている。だからワタシ達二人はこんなに長く続いているんだと思っている。そうやってワタシ達は密会を繰り返し、ワタシは敬一郎さんに愛をささやく。それを敬一郎さんも喜んでくれる。だからワタシは敬一郎さんが喜んでくれるように尽くす。それがワタシは本当に幸せ。そのたびにワタシの敬一郎さんへの愛は深まっていく。ああ、本当に早く敬一郎さんと一緒にいたい。それだけを毎日ワタシは楽しみに生きている。
敬一郎さんとの密会を繰り返すたびに、その腕に抱かれるたびに私はいつも思ってしまう。あなたの笑顔を、その全てを私だけの物にしたい。でも敬一郎さんは、あなたはいつも決まってこういう「二人で一緒にいれたらそれだけで十分だね」と。それにいつもワタシは微笑んで返している。でも、ほんとうはそれじゃダメなの。私はいつもその言葉に思う。愛ってそんなもんなのかな……。
こんなに私はあなたの事を愛しているのに……。
そして今日ももうそろそろお別れの時間が近づいて来る。本当はずっとずっと一緒にいたい。帰りたくなんかは無い。私はいつも心の中だけでそれを叫んでいる。仮初の溶け合いなどではなく、ずっといつまでも溶け合うように二人の時間を過ごしていたい。それだけが私の幸せで、唯一それだけを私は望んでいる。それでもワタシはいつも笑顔で敬一郎さんに微笑むだけで、私の言いたい事なんてなに一つ言えやしない。敬一郎さんにもっと求められたい、ずっとそばにいたい。私の望むことはそれだけなのに……。
そして今日も敬一郎さんとのお別れの時間。もっとそばにいたい……。私どうしたらいいのかなお兄ちゃん……。こんな時にお兄ちゃんの事を思い出すなんて私はどうしたんだろう。お兄ちゃんとはあれから会ってもいないというのに……
「悠里、明日少し大事な会議がある。もちろん君にも参加してもらうつもりだよ」
帰り際敬一郎さんは車の中でワタシにそういう。仕事場以外で仕事の話をするのは敬一郎さんにしては珍しい。ワタシは敬一郎さんの言葉に頷く。
「何か大事なことでもあるんですか?」
「ああ、皆には明日の会議で発表する事になるが、かなり大きな案件がある。社を挙げての案件になるだろうし、それに成功すれば私の出世も間違いないだろう。悠里、君の力が必要だ」
ワタシは敬一郎さんの言葉に笑顔で微笑む。なにより敬一郎さんにワタシが必要だと言われたことが嬉しく、もうその言葉だけでワタシは天にも昇る気持ちだった。それに、どんな案件かは分からないが、それでも敬一郎さんの目標の一つであることが一つ達成される。それに少しでもワタシが役に立てるというのならこんなに嬉しいことは無い。
「ワタシでお役に立てる事なら何でも言ってくださいね」
ワタシは敬一郎さんに微笑んで返す。
「ああ、頼りにしてるよ。僕が頼りにしているのはいつでも悠里、君一人だからね」
もうその言葉を聞けただけでワタシは死んでしまってもいいとさえ思う。今まで敬一郎さんからそんな言葉を聞いたことなどなかった。ワタシが今まで望んでいたことが、敬一郎さんと一緒にいるって言う事がなんだか現実に起こりつつあるんではないか、ワタシはそんな気持ちにでさえなってしまいそうだ。こんなに幸せなことは無い。
「じゃあ悠里、今日はあま遅くならないようにな」
敬一郎さんはいつも通りワタシを言えの近くで降ろし、そのまま自宅の方へ走り去っていく。
次の日敬一郎さんの言った通り、部員が会議室に呼び出され、敬一郎さんから直々に話をすることになる。敬一郎さんの話では、とある国の国家プロジェクトに会社が参入し、その建設を一手に担う巨大プロジェクト。予算額も一兆円規模の、会社始まって以来のビッグプロジェクトという事だ。もちろんまだ受注をしたわけではないが、その受注に向けたプロジェクトチームを編成するというものだった。世界中から同業者が集まりプレゼンを行い、それの最優秀なものが受注するというものだった。プレゼンの日程は半年後、かなり時間はきついが、それでも受注した時の利益はかなり大きく、今後十年以上に渡り、それにかかわる仕事もおそらく受注する事になるだろう。最終的には一兆円を遥かに上回る金額が会社に落ちてくることになり、その国とのかなり太いパイプを作る事にもつながるだろう。そうなる事で会社の利益は計り知れない。その総責任者に敬一郎さんが選ばれたのだ。
それを聞いただけでワタシは驚きはしたが、それでもどこか敬一郎さんなら当然だろうし、敬一郎さんが総指揮を務めるのであれば、この仕事はもう受注したのも当然だろうという気持ちにもなっていた。
そして、プレゼンの準備を行うにあたって、メンバーが発表され、ワタシはその中でも敬一郎さんの補佐という役割でプロジェクトに参加する形になった。それ以外にも様々な分野でのバックアップがあり、最終的には一〇〇人規模のプロジェクトチームが編成されることになった。ワタシはその話を聞いて敬一郎さんの事をすごく誇らしく思い、敬一郎さんの為にならなんだってしよう、改めてワタシはそう決意した。
これで敬一郎さんの目的に一歩近づく。その時ワタシはいったいどうなるのだろう? 敬一郎さんと幸せな時間を過ごすことが出来るのだろうか? まあいい。今はそんなことは考えないでおこう。とにかく、敬一郎さんをあらゆる面で支えるそれがワタシの仕事。それが出来なければワタシが敬一郎さんのそばにいる意味がない。とにかく目の前の仕事をこなそう。
それからの仕事は毎日毎日敬一郎さんと一緒に行う事が当たり前のようになった。今までも敬一郎さんと一緒に仕事をすることは多かったが、それにもまして敬一郎さんにべったりと張り付いて仕事をするようになった。
ワタシは公に敬一郎さんと一緒にいれることが嬉しく、そのポジションを誰にも渡したくないがために、敬一郎さんに必要とされる女になるために、ワタシは尚更努力を重ねた。そして疲れ切った敬一郎さんの体を毎晩癒し、仕事では敬一郎さんの仕事がやりやすいように立ち回り。幸せな時間が過ぎていく。ああ、ワタシはこのために生きていたんだ。そう錯覚するほどだった。
プロジェクトも佳境に迫ったある日、敬一郎さんに呼び出され、敬一郎さんの部屋にいく。そこにはいつにもまして神妙な面持ちの敬一郎さん。
「お呼びでしょうか部長」
「ああ、悠里君。忙しいところすまないね」
ワタシと敬一郎さんは会社ではそうやって礼儀正しく接するようにしている。たとえそれが敬一郎さんの部屋で、他に誰もいなくてもだ。
「実はね、今夜このプロジェクトのキーマンともいえる人物と会うことになっている。そこに君も同席してほしいんだ」
「わかりました。お時間は何時ごろからでしょうか?」
「相手先は一七時の便でこちらに到着する。それを迎えに行く事になっている」
敬一郎さんの言葉にワタシは腕時計を確認する。少し余裕をみて出発する事を考えると後三〇分ほどで会社を出なければいけない。
「わかりました。急いで支度します。ワタシ以外に誰か声をかけておられますか?」
「いや、今回は僕と君の二人だけだ」
「承知いたしました。では急いで準備をいたします」
「ああ、よろしく頼む」
敬一郎さんの部屋を出ようとしたとき、敬一郎さんに声をかけられる。
「悠里。よろしく頼むよ」
敬一郎さんの言葉にワタシは少し微笑み部屋を退室する。そして急いで準備をするともう出発しないといけない時間になっていた。そこで敬一郎さんの準備も整ったようで、私に声をかけてくる。
「悠里君、大丈夫かな?」
「はい。お待たせいたしました。タクシーを玄関前に呼んでいます」
敬一郎さんは黙って頷くとそのまま二人でエレベーターに乗り、玄関を出ると前に待機していたタクシーにすぐに乗り込んで空港を目指す。さほど渋滞もしておらず、車内ではほとんど会話もないまま空港に到着し、そこで相手先の人物の到着を待つと、ほどなくして予定通り飛行機は到着し、それから十数分後目的の人物が現れ、その人物に向かって敬一郎さんが英語で話しかける。かなり親しげに話してはいるが、その目は真剣で、もうすでに駆け引きが始まっているかのようにも思えた。そしてワタシは二人をタクシー乗り場に連れて行き、二人が乗ったところでジブンも助手席に乗り込み目的地を告げる。
空港から十数分離れた場所に今日の会食の場所で、宿泊場所でもあるホテルに到着し、そのままその人物は一度チェックインを済ませると、荷物をボーイに預けて、私達三人は早速ホテル内にある和食の店の個室に案内され、しばらくすると机の上に料理と酒が並び、敬一郎さんが相手の盃に酒を注ぎ、三人で軽く盃を交わし、それを飲み干ししばらく歓談した後、ようやく本題に入るが、さすがにワタシが話に入れるほど英会話の能力はなく、所々相槌を打ったり、必要な資料を敬一郎さんに手渡すくらいで、積極的にワタシが話に加わることは無かった。
しかし、その間にもなぜか目の前の人物は時折少し変な感じでワタシの事を見てくる。それを軽く受け流しながらワタシは敬一郎さんの方を少し見つめるが、敬一郎さんはそれを知ってか知らずか、ワタシの方を見ることもなく、相手先との会話を続ける。
それから少し話したところで、今日の会談は終わり、残りは後日車内で行うことになり、その晩はその後仕事の話もなく、穏やかな感じで食事をしながらの会話を続けるが、ワタシはなぜか、会談中にかなりの睡魔が襲ってくる。それを見た敬一郎さんは先方に何か話をすると、今日の会談はそこまでとなり、ワタシは敬一郎さんの話しかける言葉に曖昧に答える。そしてそこからワタシの記憶は途絶えた……。
朝私が気が付くとそこにはいつもの見慣れた部屋ではなく、どこかのホテルのような部屋で、私の服はかなり乱れたような状態だった。ベットから体を起こし、閉められたカーテンを開けると、眼下には街が見え、私はここが何処かよくわかず、少し考え、昨日の記憶の断片を思い出す。そうだ、確かかなり酔った私を心配して敬一郎さんが会食場所のホテルの部屋を取ってくれたことを思い出した。しかし、その後部屋まで連れてきてくれたのは……。私はそれを思い出し、吐き気を催し、手洗いに駆け込む。
「敬一郎さん……どうして……」
手洗いに顔を入れたような状態で私は呟く。その時携帯の着信音がなる。その着信音で私は誰からの物かはすぐにわかる。ああ、敬一郎さんだ。私は朦朧とした頭でふらふらと携帯を取りにベットに向かう。そして、携帯を覗き込み送られてきたメッセージを目で追う。少しの間私はそのメッセージに返信することが出来ず、いったん携帯を置き、何とか気分を鎮めようとまた手洗いに戻り、シャワーの蛇口を捻り熱いお湯を出す。そして服を脱ぎ棄て、熱いシャワーで身を清めるかのように、体中の隅々まで洗い流すと、ようやく少し落ち着くが、冷静になって考えて、どうしてこうなってしまったのか、しばらくシャワーのお湯を頭から浴び、茫然としていた。何故か私の眼からは熱い物がこみあげ、それがシャワーのお湯と一緒に流れていく。
シャワーの蛇口を捻り、お湯を止める。身体にまとわりついた嫌な感覚を水滴と一緒にタオルでふき取り、何とか落ちつき、とにかく会社に向かおうと服を着て会社に向かう。その途中、私の頭の中では何度も敬一郎さんへの思いが、敬一郎さんの私への思いが、頭の中でぐるぐるぐるぐる巡る。
「お兄ちゃん……」
なぜか私はお兄ちゃんと口に出して呟いてしまう。私は携帯を手に取るとアプリを起動させ、お兄ちゃんの名前を探す。前に飲みに行った時からまったく連絡を取っていなかったから前に会った前日までのメッセージが最後だ。
私はずるい女だ……。頭の中ではそう思っていたが、それでもお兄ちゃんへ送る言葉を止めることが出来なかった。メッセージを打ち終わると、一つため息を吐き、それを送信する。
そのまま携帯を鞄の中にしまい、ほどなく到着した電車に乗り込み、出入り口の脇に立ち、窓の外を流れる景色をぼーっと流れる。ふと窓に映る自分の顔を見るとそこには化粧っ気もなく、こっちに出てきたばかりの時のような顔をしていた。ああ、私はこんな顔だったな……。化粧もせずに街へ出るのは何年ぶりだろう。いつもは敬一郎さんの為にメイクも服装もしっかりとしていたけど……。そうだ、そう言えば服もそのまま。どうしよう。と、一瞬悩んで時計を確認するとまだ時間には余裕があった。少し考えて私は一度家に帰ることにした。
ワタシは会社にいつもの通り出社する。一度家に帰っているから少しぎりぎりの時間になってしまったが、そそれでも会社には何とか間に合い、いつも通りワタシは敬一郎さんのもとに向かう。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
「部長、昨日の事ですが……」
「ああ、珍しく昨日はひどく酔っていたね。体調はどうかな?」
「ええ、部長のおかげでゆっくり休めましたから」
「そうか、それはよかった」
「ありがとうございます」
「で、今日の予定はどうなってたかな?」
ワタシはその後今日の予定の確認を一通り済ませ、部長の部屋を出る。その前に、少し部長に振り返る。
「部長、ワタシはお役に立てましたか?」
ワタシの言葉に敬一郎さんは笑顔で返す。
「ああ、君のおかげですべてうまくいきそうだよ」
ワタシは笑顔で答える。
「そうですか、それはよかったです。では、後ほど」
「ああ、よろしく頼む」
ワタシは敬一郎さんの部屋を出ると少し笑顔がこぼれてしまう。ああ、敬一郎さんの役に立てて良かった。これで今日も頑張れる。改めてワタシは敬一郎さんの為に生きているんだ、ワタシはその幸せを実感してまた今日も仕事に励むことが出来た。
その夜お兄ちゃんから朝に送ったメッセージの返信があった。お兄ちゃんは私の事をすごく心配してくれている。それが文面を通してすごくわかった。本当はもう会わないほうがいい。私はそう思っていた。でも、昨日の事を忘れたい。その気持ちが私の指を動かしていた。
『明日の夜合わないか?』
何通かのメッセージのやり取りの後、お兄ちゃんはそう送ってきた。私はその文字を少しの間眺める。本当は会いに行きたい。そして、お兄ちゃんに私を救ってほしい。でも、それはお兄ちゃんに私の我儘を押し付けているだけにしかならないのではないだろうか? それが私のメッセージを打ち込む指を止める。
『明日?』
立った四文字。それだけを打ち込むのに私の手は少し震え、五分以上かけてしまったかもしれない。メッセージにすぐに既読が付く。その後すぐに返信が来る。
『そう、明日』
『忙しいかな?』
『無理はしなくてもいいけど…』
立て続けに来るお兄ちゃんからのメッセージ。いつでもお兄ちゃんは私の事を気遣ってくれている。なんとなくそれが解る。いつでもお兄ちゃんは優しい……。
『いいよ。どこか楽しい所に連れてって』
しばらく間が空いてお兄ちゃんから返信が来る。
『解った。じゃあ明日一〇時にいつもの駅で!』
『りょうかい』
そのメッセージを見て私はいろいろあった今日という日を終わらせた。
「おはようお兄ちゃん」
「おお、おはよう。今日は遅刻しなかっただろう?」
「そうだね。残念だよ」
私は少し残念そうな顔をして見せる。
「毎回奢らせられたんじゃたまらないからな」
「残念……」
「で、今日はどうするんだ? どこか行きたいところとかあるのか?」
「んー……とくには無いかな。とにかく、何か楽しい所に行きたい」
「漠然としてるな~」
お兄ちゃんは少し腕を組んで考える。少しして何かを閃いたようだ。
「じゃあ、前回は遊園地に行ったし、水族館にでも行ってみるか?」
水族館、こっちに引っ越してきて一度も行ったことがない。それもいいかもしれない。私はそう思いお兄ちゃんに頷いて見せる。
「よし、じゃあ行こうか」
「うん」
私とお兄ちゃんは海に向かう電車に乗る。しばらく街の中を走ると、車窓からの景色が唐突に海に変わる。日の光は海に反射し、波に揺れた光がきらきらと輝く。
「綺麗……」
思わず口に出してしまう。
「そうだな。やっぱり海は良いよな」
黙って私はお兄ちゃんの言葉に頷き、その窓の外を流れる景色を見つめ続ける。電車は海沿いをしばらく走り続け、そして目的の駅に到着する。その駅で電車に乗っていた人は半分くらいが降りていく。おそらくそのほとんどの人は私達と同じ目的だろう。その人の流れに乗り、私とお兄ちゃんも水族館に行く。水族館はかなり大きく、大小様々な水槽がその建物の中にあり、それをお兄ちゃんと見て歩く。
一番大きな水槽の中を突き切るように通路が通っており、それはまるで海の中を散歩しているような感覚に陥る。大きな魚や小さな魚、綺麗な色をした魚や、地味な色の魚。本当に私は今海の底に沈んでしまったのではないかと勘違いしてしまいそうな光景に私は息をのむ。上を向くとそこには日の光が差し込み、水の揺らぎに太陽の光が揺らめく。ああ、私はもうここから這い上がることは出来ないのかもしれない。でも、それでも、あの太陽の光が輝いていればそれでもいいのかもしれない。その光があまりにも青く、暗く輝いていたとしても……。
「どうかしたか?」
「え? ああ……。ううん、なんでもないよ」
私はお兄ちゃんの手を取り、そこの通路を急いで出る。
それからお兄ちゃんと二人で一日水族館で遊び、もうそろそろ日が暮れそうな頃に私とお兄ちゃんはようやく水族館を出る。そしてなんとなく水族館の周りを歩く。近くには砂浜があり、そこをなんとなくお兄ちゃんの手を繋ぎ海を見ながら歩き続ける。
海は夕日に照らされ、茜色に染まった海と空。私は立ち止まりお兄ちゃんの手を離すと、海の方に少し歩き、その空の色に目を奪われてしまう。
そしてなぜか私の両目からは滴が零れ落ちる。そして茜色はやがて水平線の向こうに沈み薄暮が訪れ、そして深い蒼に変わり闇が来る。少し離れたところにある街灯が少し寂し気に光を投げかける。
「行こうか」
私は流れた滴を手の甲で拭い取り、笑顔を作りお兄ちゃんに振り向き答える。
「うん」
そしてまたお兄ちゃんと手を繋ぎ駅へと戻る。また電車に乗り朝に乗り込んだ駅に着き、そこでお兄ちゃんと晩御飯を食べ、少しお酒を飲むともうかなり遅い時間になっていた。
その間私はずっと笑顔でいたと思う。いつも敬一郎さんの前でしているような笑顔だったかもしれない。でも、今の私にはそれが精いっぱいだ。昔のような笑顔は出来ていなかったと思う。
そして私はいつの間にかかなりのお酒を飲んでいたのだろう。お兄ちゃんに少し抱えられるように私達は店を出る。そして、駅までお兄ちゃんに送ってもらう。人通りはまばらだ。駅に着く前には私の酔いは夜風にあたって少し冷めてきていた。そして、あなぜか昨日の事がフラッシュバックすると、お兄ちゃんの手を振りほどくように一人で駅に向かうが、お兄ちゃんはそれを追いかけてくる。
「悠里、どうかしたのか?」
「なんでもない!」
「いや、でもなんでも――」
「いいからほっておいて!」
「どうしたんだ? なんか変だぞ……」
私は混乱した頭でお兄ちゃんに話しかける。
「ねぇ……」
お兄ちゃんは少し困惑したような顔で私の事を見つめる。
「私の事を抱いてくれる?」
「はっ、はぁ?」
「私と一緒にいたいのなら、私の事を抱いて!」
お兄ちゃんは完全に困惑している。
「そんなこと……そんなこと、できるわけないだろ?」
「そう……解った。さよなら」
私はお兄ちゃんを置き去りにしてホームの中に入っていく。いつの間にか視界は滲み、とめどなく涙があふれる。
ああ……私はこれで完全に一人になった……そういう思いが私の頭の中でぐるぐると回り続ける。
私はあふれる涙を拭うこともせず、空を見上げる。いつもの通り滲んだ光が私の視界に入る。もうお兄ちゃんとは会うことは無いだろう。その思いが私の瞳から次々と涙をあふれさせる……。
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