上弦照

 最近いつも敬一郎さんの事を思っている。もう啓一郎さんなしでは正直生きている意味さえないのではないだろうか? 私はそう思うようになっていた。完全にワタシの心は敬一郎さんに依存しだしてきている。でも、それを少し心地よくなってきている部分も自分の中にはあることも分かっている。だけど、それに苦しんでいるジブンがいることも私は分かっている。完全に私の中でワタシが乖離してきているような状態で、ジブンがだんだんと大きくなって来ている。いっそのこともう大きくなって来ているジブンに身も心もゆだねてしまったら楽になってしまうのではないか? もしかしたらそれはジブンが自分を救おうとしているのかもしれないのかな……そんなことは無いと思いたいけど……いったい私はどうしたらいいんだろう? 最近考えるのはこんなことばっかり……そのせいかどうか解らないが、体調がだんだんと悪くなってきている。

 最初は敬一郎さんと一緒にいることで私は自由になれた。少なくとも最初の頃はそう思っていた。田舎娘だった私に今の全てを与えてくれたのは敬一郎さんだったし、それで今まで何も知らなかった私に自由を与えてくれた。最初はそう思っていた。

 でも、本当に……本当にそうなんだろうか? 敬一郎さんといることで私は自由を手に入れたと思っていた。でも、本当はそうじゃないんじゃないだろうか? 私は最近少しそう思うようになってきた。それでも私はいつも朝起きて、敬一郎さんの為にメイクをして、敬一郎さんの為に着飾って家を出る。もう、それは特に何も考えなくても無意識にでもできるようになってきていた。そして、私を着飾るとジブンはすごく落ち着き、そしていつものように会社に行くことでジブンはいつものように敬一郎さんの望むワタシを演じる。毎日のようにジブンを演じ、それによって敬一郎さんに褒められ、そうする事でジブンはどんどんと大きくなっていく。もうジブンが大きくなっていく事を止められないんじゃないだろうか……私はそんな事を考えていた。

そんな不安を抱えながらも毎日を過ごす。そんなある日、この日はたまたま敬一郎さんが取引先との接待で渡氏との時間が取れず、仕方なく電車で帰宅していた時の事だ。電車の出入り口側に立ち、私はなんとなく流れる街の夜景をぼんやりと見ている。とある駅で停車し、私の立っている反対側の扉が開き、何人かの人が電車の中に入ってくる。その時窓に映る人にどこかで見覚えの有るような人を見つけた。一瞬それが誰なのかは分からず、会社関係の取引先のどこかで出会った人か誰かだろうかとも考えたが、私の記憶の深い所で感じるものが有った。そしてその人物は私の目の前に立ち、ポケットから本を取り出すとその本に視線を落とす。私はその人の顔を少し見ながら考え、それが昔に出会った人、それも幼馴染で、小さい頃はお兄ちゃんと慕っていた、遠縁にあたる遠藤康弘(えんどうやすひろ)だという事に気が付いた。しばらく彼の顔を見ながら、なんとなく昔と変わらないなー、などと考えていたが、思い切って声をかけた。

「あの……」

 私の声掛けに少し顔を上げるお兄ちゃん。少し怪訝な顔をしながら私を見る。全く私の事が解らないというような顔だ。

「お兄ちゃん……いえ、遠藤康弘さんですよね?」

「ええ、そうですが……」名前を呼ばれてもまだ少し険しい顔をしているお兄ちゃん。

「ええと、私、悠里、冴木悠里だよ! 覚えてない?」

 私は急いで鞄の中から予備で持ち歩いている昔から使っている眼鏡を取り出しかけて見せる。眼鏡をかけた顔と、私の名前を呟きながらまだ少し考えるお兄ちゃん。

「さえきゆうり……ゆうり…………」

 ぶつぶつ呟きながら少し考え込むお兄ちゃん。突然思い出したかのように少し大きな声を出す。

「悠里!? え、あの悠里なのか?」

「そうだよお兄ちゃん、悠里だよ!」

「いや、驚いた! 昔と全然違うから全く気が付かなかった!」

「お兄ちゃんはちっとも変わらないね」

 私は少し微笑み、お兄ちゃんを見る。私の顔を見たお兄ちゃんは少しほっとしたような顔をする。

「その顔は昔と変わらないな。なんか見てるとほっとするその笑顔。綺麗になったけど昔と変わらないみたいでよかったよ」

 私はお兄ちゃんにそう言われて自分の顔を窓に移す。確かにそこに映った私は昔のままの顔をした私がいた。最近こんな顔をしたのはいつだろう……そう考えると私は少し顔を曇らせてしまい、それにお兄ちゃんが気が付いたみたい。

「どうかしたのか?」

「え? ううん、なんでもないよ」

「そうか? だったらいいけど……」

 お兄ちゃんは少し心配そうに私を見るが、またすぐに話しかけてくる。

「しかし本当に久しぶりだな~、どれくらいぶりになるか……」

「私が高校を卒業してからだからもう一〇年位かな。本当に久しぶり。でも、なんでお兄ちゃんはこんなところに?」

「うん? 俺か、俺は大学卒業して地元の会社に入ったんだけど、転勤でこっちに来ることになったんだ。それで今はこっちに住んでる」

「そうだったんだね。こっちに来るなら連絡位してくれたらよかったのに!」

 私は少し怒ったような顔をしてすぐに元に戻す。

「ははは、すまんすまん、でもまだこっちには来たばっかりで、そのうち連絡しようと思ってたところだよ。まさか電車の中で会うことになるとは思ってもなかったけどな」

 お兄ちゃんはあの頃と全く変わらない笑顔を私に向ける。ああ、お兄ちゃんはあの頃とちっとも変わってないな。昔は一緒にこうやって何も考えずにただ純粋に笑いあうことが出来たのに……。

「そうだ、今度近いうちにこの辺り案内してくれよ。俺もまだ引っ越してきたばっかりで何もわからないからさ。今度の休みとか暇か?」

 少し考え込んでいたみたいの私は、お兄ちゃんに声をかけられて少し慌てる。

「え? ごめん、なに?」

「いや、だから今度の休みは暇か?」

 お兄ちゃんの言葉で少し考える、週末はどうせ敬一郎さんとは会えないのは分かっている。どうせ何もすることがないのだからお兄ちゃんに付き合うのもいいかな。

「まったく、お兄ちゃん。こんなうら若き乙女の私が暇なわけないでしょ?」

「そうか……そうだよな。いや、すまんすまん」

「ウソウソ、大丈夫だよ。じゃあ、今度の週末、どこで待ち合わせしようか……そうだ、私の最寄り駅まで来てくれる?」

「わかった、じゃあまた時間とかは連絡するよ。あ、そうそう。俺の携帯の番号が変わったから教えとく」

 お兄ちゃんの番号を聞き、ついでにアプリの方も友達登録しておく。そうこうしている間に私の降りる駅が近づいて来る。

「あ、私次の駅で降りるから。じゃあ、お兄ちゃん、また連絡するね」

「おう、また週末な!」

 電車は減速し始め、車内アナウンスが流れる。そして電車が完全に止まると扉が開き、周りの人達と一緒に私はお兄ちゃんに小さく手を振り、お兄ちゃんも軽く片手をあげてそれに答えてくれる。

 電車を降りて、扉が閉まり、動き出した電車を少し見送り私は家路をたどる。いつもの道を、なんだか今日はお兄ちゃんに会えたことで少し昔を思い出し。ふと空を見上げる。

「今日は上弦の月か。なんかいつもよりはっきりと見える気がする」

 少し空を見上げているとアプリの着信音が聞こえる。誰だろうと携帯を取り出し画面を見る。そこには顔文字入りで『お疲れ様、頑張りすぎるなよ』というお兄ちゃんからのメッセージ。そのメッセージを見て私はまた空を見上げる。今日も月はまた少し滲んで見えた。


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