繊月照
https://youtu.be/sJ4WDnFqNks
私、冴木悠里(さえきゆうり)はこの会社に勤めだしてもう六年になる。この街に来たのは大学の頃からだから、もうかれこれ十年位にはなるだろうか。今年で私も二十八歳、幸い仕事にも人間関係にも恵まれている。六年目ではかなりの大きな仕事も上司と一緒にこなしている。まだまだ一人ではこなし切れないところもあるが、私の上司、田端敬一郎(たばたけいいちろう)部長と一緒にかなり難しい仕事も乗り越えてきていた。それによって私は同期の中ではかなり注目されている。でも、それは私の上司である敬一郎さんのおかげで、私自身は敬一郎さんについて行っているだけ。私自身は敬一郎さんのサポートに過ぎない。
それでも私は良いと思っている、私が敬一郎さんの役に立てるならこんなに嬉しいことは無い。だって、この世の中で一番愛してやまない敬一郎さんの為になれるなら私はなんだってやる。敬一郎さんもそれを望んでいるし、私を愛してくれている。だから私はこの身も心も敬一郎さんの為に捧げるつもり。だってこんな私を変えてくれたんだから。
敬一郎さんとの出会いは、私が会社に入った時だった。その時は今よりもずっと酷いただの田舎娘だったと今でも思う。地味な髪形、眼鏡、服装だって何もかもが今よりも本当に地味で、誰がどう見ても田舎娘で、私の事なんて見向きもしなかった。
でも、敬一郎さんだけは違った。いつもお茶酌みばかりしていた私に、当時はまだ課長だった敬一郎さんはチャンスを与えてくれた。
最初はなんでこんな私にこんなに仕事を与えてくるんだろうって困惑もした。でも、それでも敬一郎さんは優しく私に接し、いつの間にかいつも一緒に仕事をするようになっていた。そんな啓一郎さんに田舎娘の私が憧れを抱くまでにはそんなに時間は掛からなかった。そして、それが恋になり、愛するようになるまでそれほどの時間は掛からなかったと思う。そしてそれが決して許されることのない愛という事に気が付くのもそれほど時間がかかることは無かった。でもそれでもいい、私はそう思うようになっていた。いや、そう思うようにしたのだと思う。でないと私は敬一郎さんには必要とされないようになる。そう思うようになったからだ。
私は敬一郎さんに完全に心を奪われ、そして敬一郎さんも私の事を受け入れてくれた。だからそれ以上に臨むことは何もなかった。
だから私は敬一郎さんの心が私から離れて行かないよう、いつも努力を惜しまなかった。仕事も、私自身の姿を磨く事も怠らなかった。敬一郎さんが買ってきた服を着て、あなたに選んでもらった靴を履き、今まで野暮ったかった化粧は、敬一郎さんが望むように、少し派手な化粧に変えた。もちろん田舎娘の私がそんなにすぐにそれが出来るようになるわけではなかった。でも、敬一郎さんの為なら私はそれらすべての事が苦になるようなことは無かった。だって、愛する人が私の事を思ってしてくれていることだから、私もそれに答えたいと思ったし、少しずつ変わっていく自分自身に、私自身別の人間を見ているような錯覚も覚え、それが楽しくもあった。
自分で言うのもなんだけど、一〇年前田舎からこっちに出てきた時とは比べようもないくらい私は変わった。自分で見ても私は綺麗になった、そう思う。
でも、それはすべて啓一郎さんの為、他の誰のものでもない。私自身もそれを望み、敬一郎さんもそれを望んでいる。だから、私は敬一郎さんの為だけに綺麗になる。そう、私自身の為ですらなかった。だから敬一郎さんに会う時以外、一人でいる時は一〇年前の田舎娘のまま。それ以外の時は自分は自分でしかない。だから、どうでもいい。
そうやって私はジブンを演じているような気が最近してきている。本当の私はこの田舎娘なのに、敬一郎さんといる時は敬一郎さんの好むような女になる様にジブンを演じる。そうする事で私は敬一郎さんに必要とされ、そこに私は愛を感じ、それが幸せなんだって思うようになった。それがたとえ敬一郎さんにとってただの都合のいい女だったとしてもそれが私の幸せだし、それが私の敬一郎さんに対しての愛なんだ。
でも……でも、なんでだろう……私は本当に敬一郎さんのものなんだろうか? 最近は少し……ほんの少しだけそう思うようになってしまっている……。
ジブンはこんなにも敬一郎さんだけのものなのに……。
今日も敬一郎さんとの短い合瀬の時間の別れ際。いつものように敬一郎さんの車で家の近くまで送ってもらい、車の中で今日の最後のキスをせがむ。本当はあなたが最後のキスを嫌がるのは知ってる。でも、その最後のキスだけが自分の本当の願いだっていう事もジブンは気が付いている。だからこれだけはいつも自分の無理を言ってキスをせがむ。表面上は穏やかに笑いながらも、あなたはやっぱりいつも最後のキスだけはしてくれない……そして、私はいつもそれを当然のように悪戯っぽく笑いながら車を降り、あなたの車が見えなくなるまで見送る。
そんな毎日をもう年々も続けている。それでも私はいつもジブンを演じ、自分を素直に出さないことにだんだんと慣れて行っていった。でも、やっぱり何かその事がつらくなることもある。そんなときいつも空を見上げてしまう。何故なんだろう……それは分からない。子供のころ見上げた夜空はいつも星が輝いて本当に綺麗だった。でも、都会で見る空はいつもくすんで見える。あの頃見た空はもうこの街にはない。それでも私はいつも空を見上げる。そこには薄く、力なく柔らかい光を投げかける二日月。
「ああ、月が綺麗……」
思わずそう呟いてしまう。でも、いつも少し滲んだ月を見上げると自分がだんだんとその日の事を忘れていきそうになる。でも、ジブンはその日の事を記憶し、決してそれを忘れることは無いんだろう。いつも私はそう思いながら田舎とは違って明るい街を少し歩き自分の部屋に帰っていく……。
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