5.あなたを信じていたのに

 連休明けの平日はほとんどの生徒を憂鬱にさせるが、三号棟の217号室の中にただよう空気は、そのような世俗的な次元では済まされなかった。


 一条和佐が意識を覚醒させた瞬間、ハッとなって上半身を起こした。

 寮部屋をぐるりと眺め回したが、ルームメイトの姿がどこにもない。


 五月とは思えぬ冷気が和佐の全身を襲った。

 自分から首を絞めようとして失神した岬が『本番』に及んだのかと思うと居ても立っても居られなかった。


 だが次の瞬間、その岬が玄関の扉から姿を現したので、白髪少女の安堵と脱力ぶりは相当なものであった。

 ベッドに沈み込むような真似はしなかったが、大きな息が出ることは避けられなかった。


「……おはよう、岬」


 何気に和佐の方から挨拶をするのは、これが初めてである。


 社交辞令でぼやいてから、和佐は灰色の瞳で編入生の状態を鋭く見据えた。


 彼女はライラック色の制服のままであったが、昨日丸一日着ていたものではなく、ちゃんと着替え直したらしい。今の時刻を考えると随分と朝早くに着替えたものである。


 最低限の身だしなみも整っているようである。三つ編みも結い直し、シャワーを浴びるのは無理だとしても、張りついた汗もおそらくタオルで拭いたのだろう。夜に触れられた痕跡を拭き取りたかった……と考えてしまうのはうがった見方なのか。


 もっとも、せっかく整えられた身だしなみも表情で台無しになっていた。人懐っこかった編入生の顔は虚ろげでプルーン色の瞳も光に乏しい。和佐はなおも油断は許されなかった。


 灰色の瞳に険しい光をたたえて言い放つ。


「挨拶ぐらい返したらどうなの」


 ルームメイトになった当初と立場が逆になってしまった。

 自分が偉そうに注意する資格はないのかもしれないが、態度を改めるのは、ひとまず目の前の少女を立ち直らせてからだ。


 岬はせっかくのルームメイトからの挨拶に応じるつもりはないようだ。

 音もなく和佐に一歩近づくと、暗い意志をたたえて切り出した。


「一条さん」

「何よ」

「あたしたち、ルームメイトをやめましょう」


 和佐の時間が凍結した。白髪少女もまた心が虚無にとらわれ、息の仕方さえ忘れてしまったかのようであった。

 始業式前の入寮期間の時期は自分からルームメイト解消を訴えかけたこともあったが、まさか彼女の方から言ってくるなんて。


 毛布を掴む指が震えていることに、和佐はまったく自覚がなかった。咎め立てる声も衝撃で無意識に揺れていた。


「何を言っているの……入寮期間はとっくに終わったのよ。今さらシスターが変更を認めるはずがないわ」

「たとえ無理だとしても」


 岬の声は静かだが、力と熱がこもっていた。


「あたしは必ず、一条さんとルームメイトを解消してみせます」


 編入生の決心にまたしても時間が凍結しそうになったが、それが氷解すると、和佐の中でためらいが吹き飛び、鬱憤が臨界まで跳ね上がった。


 彼女は勢いよく毛布を払いのけ、三つ編みの少女のもとまで詰め寄る。強く深い怒りが白髪少女の唇から絞り出された。


「……なによ」


 和佐は岬の腕にしがみついた。その力たるや、ボレロと制服の生地を通り越して岬の腕に跡がつくかと思われたほどだ。

 だが、岬は心身とも痛みを感じていないようだった。


 無情な視線が和佐の堪忍袋を破裂させ、暗い苛立ちの声を凄絶な怒号に変えた。


「なによなによなによッ‼︎ それなら私は一体何のためにあなたを助けたというの⁉︎ 少なくとも、あなたからそんな言葉を聞くためではないわ‼︎」


 三つ編みが跳ねる勢いで和佐は岬の全身を揺らした。


 岬は逃げなかった。だが、ルームメイト解消に対する意識に変化もないようだ。

 白い歯をきしらせるルームメイトを見下ろしながら、深く静かな声で言う。


「たとえ一条さんが何を言おうと、あたしの気持ちは変わりませんから」


 雷に打たれたように和佐は動きを止める。

 そのかんばせに浮かび上がっていたのは、本人は自覚していないが、子供のように岬にすがりつくものであった。


「ねえあなた、本当に何があったというの? こう見えても私、以前のあなたのことは、社交辞令抜きで評価していたのよ? ようやく信じられそうな相手を見つけられたのに……ここにきてあなたは私を突き放すというつもりなの?」


 思いがけない心情が吐露されたものだが、このときの和佐は必死だった。

 言葉にも態度にも一切の虚飾はなかったが、返ってきた岬の言葉は、本心だろうが偽りだろうがどうでもいいと言いたげのものだった。


「そうです。あたしは一条さんを見捨てます」


 和佐の手から力が抜けた。

 その言葉だけは、編入生の口から聞きたくなかった。


 黎明との仲が険悪になり、姉から離れるために岬に近づこうという狙いも確かにある。

 だが、先ほど述べた想いもまた嘘偽りのないものであった。

 些細な下心だけで手痛い裏切りに遭う筋合いはどこにもないはずだった。


 和佐の心はさらに熱くなった。すでに怒りは限界まで達していたと思っていたが、それすら生ぬるい激情が彼女の精神すべてを掌握する。


 そして、心の何かが弾け飛んだ瞬間、気高き少女は勢いよく編入生目がけて繊手をひるがえらせていた。


「…………ッう」


 岬は顔を背けた。それは本人が意図したものでもあり、白髪少女の容赦のない平手を受けた結果でもあった。

 岬の左の頬に痛々しい桃色の手の跡が残り、それは決してやすやすと引いてくれるような腫れではなかった。


 だが、和佐の怒りは平手一本で収まらなかった。机に飛びつくと、その上にあったものを手当たり次第に岬にぶつけた。その中には円珠が渡してくれた白いフクロウのブローチもあった。


「この裏切り者‼︎ 消えろ‼︎ 出ていけ‼︎ 二度と私の前に顔を見せるな‼︎」


 無我夢中にわめき散らしながら、和佐は机の上が空になるまで置いてあったものを投げ続けた。


 本の角が当たり、ペン立ての中身がぶちまけられても、ルームメイト解消を謳った少女は動じなかった。沈んだ態度を貫きつつ、罵声と異音と痛みに耐えている。


 やがて机に物がなくなり、和佐が呼吸を荒げて立ち尽くした。ぎらついた灰色の視線で岬を睨んだが、三つ編みの彼女の心を動かすことはついにかなわなかった。


 そして、暴虐をしのいだ岬は白髪のルームメイトにとどめとなるような一言を放った。


「さようなら、一条さん」


 扉の閉まる音がした。

 その瞬間、和佐の全身から一気に力が抜け、膝をついて座り込んだ。


 ルームメイトの意図がどこにあるのか、和佐には皆目見当もつかない。だが少なくとも確実に理解できたことはあった。

 自分は心を寄せようとした相手から、ことごとく裏切りを突きつけられてしまったのである。


 和佐は膝をついたまま身動きがとれなかった。衝撃で幾度となく打ちのめされた心に静寂が訪れたが、それは和佐の心を癒してはくれなかった。

 それどころか時間が流れるごとに傷は深くなっていき、哀れな少女はついに自身の惨めさと理不尽な現実に打ちのめされた。


「う、うああぁぁああっ……‼」


 壊れたように和佐は泣き崩れた。

 何もない空間を抱きながらうずくまり、少女は身寄りを失った子供のようにわめき続けた。


 ようやく人嫌いを克服できると信じていたのに、そのかけがえのないきざはしが、何の前触れもなく失われてしまったのだ。


「どうして、どうしてなのよッ‼ 私があなたに何をしたっていうのよ! どうして何も告げずに私を見捨てたの⁉︎ あなたまで離れてしまったら、私、わたしッ……‼︎ うっ、うわあぁぁあん……っ‼︎」


 和佐の号泣は果てしなかった。喉も頭も痛くなっても止まらなかった。

 憎しみと疑惑と孤独感でここまで苦しむくらいなら、このまま心が破裂しまった方が遥かにましのように思われた。


 圧倒的な寂寞に襲われながら、ネグリジェの美少女はそのまま何十分も、何時間も泣き続けていた。


     ◇   ◆   ◇


 その日の八時半過ぎ、シスター蒼山は高等科の一年二組の担任から一条和佐が登校していないという連絡を受けた。


 実情を確かめるために三号棟の寮母はすぐさま217号室に駆けつけたが、正直なところ意外の念を禁じ得なかった。

 昨日の様子を鑑みる限り、登校拒否をとるのは彼女のルームメイトの方だと思っていたからである。


 チャイムを鳴らす手間も惜しく、マスターキーを使って寮母は部屋に突入した。

 玄関を急いで通過して扉を開けると、即座に異様な光景がシスターの眼前に飛び込んだ。


 白髪少女が寝間着のまま、床の上で身体を丸くしている。


 眠ってはいなかった。その証拠に、少女は寮母の来訪に身じろぎをし、やがてゆっくりと身体を起こしたのだった。膝をついて座り込み、赤く泣き腫らした瞳がシスターの心を騒がせた。


 穏やかな表情を引き締めて問いかける。


「一条さん、どうしたの? 上野さんと何があったというの……?」


 この日は朝から所用に追われ、白髪少女と編入生の問題に携わる時間的余裕もなかったのだ。そのことに後悔はあるが、今は後悔で決断を鈍らせている場合ではない。


 いかにして事情を引き出すべきかを考えていたとき、茫然としていた和佐が突然、顔をくしゃくしゃにさせて新たな泣き声を上げた。


「捨てられたッ……岬に捨てられたあッ……! あなたを信じていたのにッ、しんじてたのにいっ‼」


 シスターが立ち尽くす中、少女の嘆きは寮部屋の静寂にこだまのように繰り返された。

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