第十六章 回想回廊

1.誰もいない寮部屋

 ゴールデンウィーク明けの憂鬱な平日いつかかんを乗り越えると、聖黎女学園せいれいじょがくえんの生徒たちは狂喜乱舞しかねない心地で輝かしい週末を受け入れていた。


 聖黎女学園——生徒から黎女れいじょの愛称で親しまれているこの場所は、中等科から高等科までの六年間を赤煉瓦の寮棟で過ごさなくてはならないが、紅金市あかがねし近辺に住まう地元組は休日には自宅へ帰ることも多い。


 そのため、普段は賑やかな寮内も今は随分と閑散としている。


 三号棟の108号室で過ごす春山雪葉はるやまゆきはは、週末を迎えた喜びを微塵も感じていないような面持ちで二階の階段を上っていった。


 雪葉は高等科一年に所属する少女だが、同年代の少女と比べて背が低く、大きく丸々とした鳶色とびいろの瞳のせいで幼い印象を与えた。華奢な身体つきと亜麻色あまいろのストレートな長髪は美少女と言える部類であり、タートルネックの黒のインナーに丈の短いジャンパースカート、そして黒のニーハイソックスは無垢なあざとさを存分に発揮させていた。


 もっとも、その愛らしい印象がかすむくらい、今の雪葉の表情は沈み切っていた。まるで知人の通夜に参加しているかのような足取りで静かな廊下をとぼとぼと歩いている。


 三号棟の217号室。そこが雪葉の目的地だ。


 雪葉の友人の一人がその寮部屋で過ごしており、その友人は連休を経て性格を一変させている。彼女を支配する闇に比べれば、雪葉の憂鬱などごく些細なものに過ぎなかった。


 友人の名は上野岬うえのみさきという。雪葉と同学年で、身長は平均程度。先月より遠方から訪れた編入生であり、黒い長髪を左右の三つ編みにして前方に垂らし、プルーン色の艶やかな瞳は優しさと愛嬌と同時に深い知性をたゆたわせていた。


 一見すると楚々とした印象の少女であるが、ひとたび清楚な乙女の表皮を剥ぐと、中から変態淑女としての才能の塊があらわになる。本人曰く、性癖を晒す意図はなかったとのことだが、入寮してからわずか二日目で欲情を暴発させてしまい、未遂で終わったとは言え、隠された本性は全寮生にあっけなく暴かれてしまった。


 もっとも、変態淑女の少女はそのような災難をもろともせず、変態性は最小限に自粛しつつも、彼女なりにお嬢様学校ライフを謳歌していた。持ち前の愛想の良さもあって、その魅力に惹かれて慕う寮生も少しずつ増え始めている。かくいう雪葉もそのうちの一人であった。


 懐くきっかけとなった岬の優しさが今、変態性とともに死に引きずり込まれようとしている。


 見過ごすことなどできるわけがなかった。解決策は一切思いつかないが、どうにかしなければという想いが雪葉にチャイムを押させていた。


 緊張で小さな胸が騒いだが、しばらくしてもたらされた反応は空虚である。


 雪葉はがっくりと肩を落とした。こうなることは薄々わかっていたが、それでも親切だった彼女から反応がないというのは切なかった。


 さらに必死でチャイムを鳴らし続けたが結果は同じ。無駄という二文字が心を占めるようになり、雪葉の鳶色の瞳が潤みがかった。


 ちょうどそのとき、横合いから声がかかる。


「春山さん、そんなにチャイムを連打するものではないわ。周りの迷惑になるじゃない」

「あッ、蒼山あおやませんせー……」


 三号棟の寮母であるシスター蒼山あおやまを、春山雪葉はこう呼んでいる。

 白の修道服とヴェールを身につけた初老の女性は困った表情を浮かべながら雪葉のもとへ歩み寄った。


 彼女の穏やかな顔を見た瞬間、不安定な雪葉の心はホットミルクの膜よりも脆くひしゃげた。抑圧された感情が噴き出て、鳶色の瞳に涙をあふれさせる。


 ついに少女は泣き叫び、勢いよく白い修道服にしがみついた。


「うわぁぁッ……せんせぇ……っ、みさきが、みさきがあっ……!」

「春山さん、つらいでしょうね……」


 寮生の苦しみを思いやって、寮母は彼女の亜麻色の髪を愛おしげに撫でてやる。

 やがて嗚咽が収まると、雪葉は体勢をそのままに鳶色の視線をシスターに向けた。


「話し忘れてごめんなさいね。上野さんは今は出かけているのよ」

「出かけてるって、こんな朝早くにか?」


 雪葉が驚くのも道理で、まだ朝の八時を過ぎたばかりである。


 他の寮生であれば親の迎えなり市営バスに飛び込むなりして家に帰ったということも考えられるが、遠方からの編入生である岬がこの時間に引き返す可能性はあり得るのだろうか。

 雪葉の伝法でんぽうな言葉遣いはいつものことなので、寮母はそれには気にせずに編入生の行き先を告げた。


「上野さんはね、一条いちじょうさんのお宅に向かっているのよ」

「カズ嬢の?」


 奇っ怪な愛称で呼ばれた少女の本名は一条和佐いちじょうかずさ。上野岬のルームメイトで、学校屈指の美少女であることは誰もが疑わなかったが、それ以上に、性格の堅苦しさと気難しさにおいて彼女は他の追従を許さなかったのである。


 新雪を思わせる白髪と硬質な灰色の瞳は、美貌より先に見るものに異質な印象を与えた。幼稚舎時代から奇異な視線を受け続けた和佐は周囲に対する不信感と敵意を醸成させ、中等科の三年間は本来いなければならないルームメイトの存在も受け付けなかった。


 押しかけ編入生の岬も部屋から追い出す手はずであったが、それが実現されなかったのは岬の機転が和佐の抵抗を上回った結果であり、自身の知性に一定の自負があった白髪少女にとっては目のくらむ屈辱であったに違いない。


 その二人がルームメイトになって一ヶ月が経過している。和佐は相変わらず変態淑女の編入生に辟易しているが、頑なな性格に変化が生じていたのは誰の目にも明らかだった。プライドの高い和佐は認めたがらないだろうが、岬の純真さと知己に富んだ性質を少しずつ受け入れるようになったのである。


 その矢先の岬の異変だ。それが耐えがたいものであることは、和佐が普段見せない号泣を示したことでも明らかだった。岬は気に入っていたはずの和佐とルームメイトの解消まで切望しており、それを阻止するためにシスターはかなり無理強いをする必要があった。

 心を開きかけた白髪少女を救うためにも、心を閉ざした編入生を救う必要は確実にあった。


 寮母が決意を改める一方で、雪葉は友人の行動を不可解に感じていた。


「なんでカズ嬢のとこへ……? 本人は家にはいないはずだろ?」

「そうね。昨日新幹線に乗り込んだから、今ごろは上野さんの実家で朝を迎えているはずじゃないかしら」


 岬があまりにも失意の理由を語ろうとしないため、業を煮やした和佐が忠実な後輩を連れて編入生の実家に向かったのである。乗車時刻が土曜日の早朝ではなく金曜日の夕方である点に、彼女たちの必死ぶりがうかがえた。


「上野さんが一条さんの家、一条さんたちが上野さんの家……ね。考えてみるとおかしな話だけれど、今はそんなことを思っている場合ではないわ」

「結局、みさきがカズ嬢ん家に行った理由は何なんだ?」


 雪葉が問うと、シスターはヴェールに包まれた頭をゆっくりと振った。


「教えてくれなかったわ。仮に言ったところで、まず真実ではないでしょうし。何をするか確かめるために外出許可は出してみたのだけれど……」


 思い切ったことをするものだ。むろん、ただ彼女を泳がすだけでなく、寮母は事前に一条家に連絡して起きたことを逐一報告するよう頼んでいたのだった。いざというとき、その内容を上野宅にいる和佐にも伝えられるように。


 穏やかなたたずまいをしていながら、なかなかの抜かりのなさを発揮させた寮母は、雪葉の身体を引きはがすと、心配そうに彼女の幼い顔を眺めやった。


「上野さんもだけれど、私はあなたのことも心配だわ。顔の腫れはもう平気なの?」


 尋ねられた雪葉は腕を後ろに回してふんぞり返った。真ん中分けされた前髪から覗かせる愛らしいおでこがきらりと光る。


「皆にも散々聞かれまくったけど、そんな大したケガじゃないんだってば。ほれ、少し経ったらきれいに元どおり!」

「そう……でも、春山さんは可愛いから。無茶をして傷でも残ってしまったら私もとても悲しいわ」

「うぐむッ……だから、だいじょうぶだってば……」


 雪葉はたじろいだ。シスターが心配しているのは間違いないだろうが、それ以上に「危ない真似をするな」とやんわりと釘を刺しにきているような気がしてならなかったのである。無邪気で跳ねっ返りの気質の強い雪葉であるが、これ以上シスターに強気に出る勇気は湧いてこない。


「ここで立っていても仕方ないわ。私たちは私たちのできることをしましょう」


 雪葉をうながすと、白衣の寮母は踵を返し、再び廊下を歩き始めた。亜麻色髪の小さな少女は扉をちらりと一瞥し、早足で無人の寮部屋を後にしたのだった。

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