4.一条邸訪問記

 暖色のグラデーションがかかった空に、菫色のうろこ雲がなだらかに広がっている。鬱蒼とした樹々に影が染み込み、流れる空気も温暖から清涼なものへと変化していった。暮れなずむ箱谷山の自然は実際よりも強いきらめきを感じさせ、岬の心に沁み込むようだった。


 彼女は寮棟区の正門を出て、ボストンバッグを肩に担いだまま、胸を上下させている。比較的プレッシャーに強い彼女だが、ルームメイトの邸宅にこんなに早く上がれるのと、そこで繰り広げられる話の内容を思ってさすがに緊張していたのだ。和佐は岬ほど大袈裟な反応ではないが、やはり隠された真実を前にして表情を硬くしていた。


 やがて軽快なエンジン音とともに、ピンクのアルトラパンが正門前の石畳に停まった。誰が選んだのか容易に想像できそうなデザインだ、と岬は思った。運転席の窓が開き、メイド服を着た美女が顔を覗かせた。


「お嬢様、岬様。お待たせいたしました」

「黎明は?」

「屋敷でお待ちです。どうかお乗りくださいませ」


 後部座席にバッグを置き、岬はその隣のシートに腰を下ろした。助手席には白髪のルームメイトが収まり、再発進したアルトラパンは箱谷山内の道路を下り始める。


 移動中、岬は子夜先輩に、五年前のメイドの退職についての推理を打ち明けた。恋敵であるお嬢様をおとしめようとしたのが主人にばれてクビにされたのだと。夕霧火影の名を聞いた瞬間、フロントミラーに映った風月のかんばせに笑顔がともった。


「すでにお嬢様から火影のことを聞き出しましたか。さすがは岬様、お見事でございます」

「いえ、大したことではないです」


 社交辞令に取られるかもしれないが、実際、大したことがなかったので岬は素直にそう答えた。それにしても、常日頃丁寧な呼称をつけるメイドさんが、ふいに他人を呼び捨てするとは、なかなか新鮮であった。


「なかなか興味深い推理ではありますが、残念ながら岬様の推理は外れです。少なくとも火影はご主人様に対して何一つ粗相はいたしておりませんよ」

「じゃあ火影はどうして消えたの。黎明はどうして私に触らなくなったのよ」


 矢継ぎ早に問いかけられた風月は、かつての忠誠の対象であったお嬢様の態度に嘆息してみせた。


「そうがっつくものではありません。屋敷に着けば、嫌でもご主人様から真実を聞かされることになるでしょうから」

「あいつが真実を語る気になったというの?」

「いかなご主人様も聖花の名声を墜とす風評は避けたいご様子でした。再三の説得のすえ、ようやく観念なさってくださいましたよ」

「あんなくだらない称号……!」


 前方を蹴りつけかねない和佐の憤激である。


「卒業すれば何の価値もない栄誉にこだわる人間の気が知れないわ。そうまでしてファンからちやほやされたかったのかしらね」


 和佐の発言は苛烈だが、岬としても多少は共感のいく内容であった。どれだけ素晴らしい称号だとしても、それは一歩学校の外に出てしまえば何の効力ももたらさない。聖花選考を辞退する少女が現れるのもそのためだろう。聡明な彼女たちは、煌びやかな称号の空虚さをすでに知っているのだ。

 ハンドルを切りながら、風月はぼやく。


「まあ、お嬢様がその虚名を嫌うのは理解できます。しかしながら、ご主人様にとってそんな虚名でも意味のあるものだったのですよ」

「愚かしい。仮に意味があったとしても大した価値があるとは思えないわ」


 お嬢様がそう決めつけたため、会話は途絶え、車内に奇妙な沈黙が降り立った。

 それを打ち破ったのは岬である。


「子夜先輩、質問をよろしいでしょうか?」

「もちろんです。私に答えられる範囲でしたら」

「むしろ先輩しか答えられないことです。一条さんを学舎区まで呼び出した目的はなんです?」

「…………」

「お姉さんが秘密をばらすかもしれないという名目で呼び出したそうですけど、明らかに嘘ですよね? 本当は一条さんに五年前の話を聞かせようとして、適当な理由をでっち上げて誘いかけたんじゃないんですか?」


 風月は思わず車を停めた。それだけ書くと、編入生の問いに衝撃を受けたように取れるが、そうではなかった。たまたまこの時に信号が赤になっただけである。


 それを機に一条家のメイドは後部座席を振り返った。はっきりと浮かべた笑みには、大人の余裕がうかがえた。


「なるほど、ずばり切り込んできましたね。岬様」

「恐れ入ります」

「いかにも、私はお嬢様に五年前のことを知ってもらいたくて学舎区までお呼び出しいたました。お嬢様も、ご主人様が何を隠しているかは知りたいはずですので」

「あなたが善意のために動くとは思わなかったわ」


 口ぶりからして明らかに皮肉だが、一条家のメイドは鄭重な態度を貫いたままだ。フロントガラスに視線を向き直し、青信号を見て再び車を発進させる。


「私はもともと、お嬢様とご主人様の仲が深くなるのを好ましく思っておりません。別に仲違いをせよと申すつもりはございません。ただ、仲が良いならまだしも、お嬢様はあまりにもご主人様に依存しているように感じられましたので」

「なんですって?」


 和佐は血相を変えたが、聞いていた岬も意外に思えた。前席の白髪少女はメイドが危惧をおぼえてしまうほど姉に執着しているというのだろうか。

 風月はあくまで淡々と応じた。


「すぐにでもお二人の関係を引き離す……というより、あるべき姉妹の距離感に戻したかったのですが、そうなると今度はお嬢様の心のよりどころが問題となります。お嬢様を代わりに受け入れてくださる方なんて、そうそう見つかるものではない……。ですが五年を経て、ようやくふさわしい相手が現れました。岬様、あなたでございます」

「…………」

「私は岬様がお嬢様を変えてくださるだろうと確信しております。血のつながった姉に拘泥こうでいし、それ以外に関心を寄せようとしなかったお嬢様に光を当て、前に進ませる力になってくださることを」

「子夜先輩」


 絶賛された岬は、絶賛されたとは思えない深刻な顔で運転席のメイドに問いかけていた。


「先輩に期待されるのはありがたいのですが、本当にそれだけなんですか? そこに先輩個人の都合が含まれてないと、間違いなく断言できるものなんですか?」

「と、仰いますと?」

「先輩が一条さんとあたしの関係を強く推すのは、先輩が黎明さまと……」

「私がご主人様の寵愛を狙うために、お嬢様を蹴落とそうと目論んでいると、そう仰りたいわけですか」


 回答を先取りされ、岬は頷くのに一拍を要した。


「……まあ、そういうことになります」

 風月はフロントガラス越しから、遥か遠くを見つめながら答えた。

「私にとって、火影は無二の親友でした」

「…………」

「メイドとしての素養に難はありましたが、それでも私にとっては陽だまりのような少女だった。彼女を失った悲しみをご主人様で癒すというのは興味深い意見ですが、どのような相手であっても、彼女の代わりになるということは決してございますまい」


 このときの風月の声は、他者の干渉をはねつけるような硬質さが秘められていた。


  ◇   ◆   ◇


 窓の景色はいつの間にか、にぎやかな紅金市の大通りから閑静な住宅街に移っている。

 そこからさらに数分後、風月は澄み切った声で告げた。


「屋敷が見えてまいりました」


 一条邸はモデルハウスと見まがう邸宅の中でも特に敷地が広く、英国風の一軒家を思わせた。二階建てで青銅色の西洋瓦の屋根が目を引いたが、規模で言えば、正直なところ金持ち令嬢の屋敷としては少し物足りないような気がする。もっと凄まじい豪邸に住んでいるものと岬は思っていたのだ。

 それでも、正門前からその建物を見たときはその規模に圧倒されたものだ。だが、じっくり鑑賞する暇はなかった。この屋敷の住人である白髪美少女がさっさと早足で玄関に向かったからである。彼女に追いつくために、岬は駆け出さなければならなかった。


 庶民にはまるで無縁と思われる立派なロビーに足を踏み入れた岬は、そこで立ち止まってしまった。和佐はさっさと正面の廊下を駆け抜けていったが、常識的な判断から、岬はこれ以上の追跡は不可能だった。人の家に勝手に上がり込むのは変態淑女にとってもアンモラルな行為なのである。


 立ち往生していたところに、車を納めた風月がロビーに現れた。岬が困った様子で一条和佐の行動について語ると、メイドの彼女も溜息を吐き、まずはお荷物を置きましょうかと気を取り直した。

 一条邸の客室は二階にあるという。ボストンバッグは風月が運んでくれて、手ぶらになった岬は移動中に素朴な疑問を彼女に投げかけた。


「この屋敷をお一人で管理されているのですか?」

「今はそうですね。昔は火影と、私たちがお師匠様と仰いでいた年輩のメイドさんの三人で手入れしていましたが、そのお師匠様も私が高等科を卒業した際に本邸に戻られました」

「本邸?」

「ああ、説明が遅くなりましたが、こちらは一条家の別邸でございます」

「べってい……⁉︎」


 思わず仰天が顔に出た岬である。それを受けて、風月がくすぐったそうに微笑んだ。


「本邸は隣の市にございまして、旦那様と奥様もそちらにお住まいなのです。学校との移動が手間という理由でお嬢様とご主人様は幼稚舎からこちらに移り住んでおりましたが」


 岬は溜息が出た。すでにルーメイトとの彼我ひがの格差を思い知らされていたが、どうやら経済規模において大いに見くびっていたようである。

編入生とメイドは客室までやってきた。内装と調度品は落ち着いた雰囲気で統一されており、どうせビックリするだろうと身構えていたから、岬は今度はお上りさんのような驚きを見せずに済んだのである。


 風月が立ち去ると、岬は受け取ったボストンバッグを床に置いて椅子に座り込んだ。何だかあまりにも考えることが多過ぎて、高級な空間に慣れていないこともあって、頭が思った以上に疲労困憊している。


 一条黎明、子夜風月がそれぞれ何かを企んでいるのはわかる。自分とルームメイトはその目論見に巻き込まれているだけに過ぎない。白髪の美少女と仲良くしたい気持ちはなおも失われていないが、あそこまで自分たちの友誼ゆうぎを強く推されると、その想いにもわずかな揺らぎが生じる。親密になることで大きな陥穽ワナに足を取られるのではないかと不安になってしまうのだ。


 まあ、ここで悩んでも仕方ない。そう思い直すと、岬は椅子から立ち、客室を出ることにした。あまりうろつくのは感心されないだろうが、一条和佐の行方が気になりだして居ても立ってもいられなかった。黎明や風月と鉢合わせしたときの言い訳を適当に考えつつ、階段を下りる。


 一階に戻ってくると、岬は和佐が駆け出した廊下の方面に足を進めた。一回角を曲がったところに目的地はあった。ご丁寧に扉に『黎明』のプレートがぶら下げられている。

 鍵はかかっておらず、そっと扉を押し開けると、和佐と黎明による玲瓏な声の応酬が飛び交っているのが聞こえた。

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