3.疑惑の主従関係
黎明と風月が去ってから時間を空け、岬と和佐も大校舎を後にした。寮棟区に戻るまで二人と大勢の取り巻きの姿は見当たらない。どうやら宣言通り、あの二人が引き付けてくれたらしい。
現状の聖花さまがファンの寵愛を無事にやり過ごせるか非常に気がかりではあるが、今さら不安がっても仕方がない。そそくさと本棟へ戻り、シスター蒼山に外泊許可を申請した。
「入寮してから三日でもう外泊? どうやら予想より早く関係が進展しているみたいねえ」
明らかに揶揄するような口調であったが、和佐も淡白な態度をとりながらも岬の宿泊を認める構えらしく、寮母としても悪い気はしなかったようだ。特別会議室でのやり取りを聞いていれば対応も少しは変わっていただろうが、岬も和佐もそのことは口にしなかったため、特に深入りせずにあっさりと二人に外泊許可を出したのである。
それから三号棟の217号室に帰還した二人はそれぞれ私服に着替え、別々に昼食を摂った。話し合いをするのに人気のある食堂は不都合であったし、そもそも和佐は編入生にまとわりついた姉の匂いの件を根に持っている可能性があったのだ。彼女が相談に乗ってくれるかすら怪しいところであったが、その点は杞憂だった。
「一体何があったんでしょう。あの二人は」
「知らないわ。私もあんな二人は初めて見たもの」
そんな精神状態でもないだろうに、和佐はいつものように椅子に腰かけて本を開いている。岬はこのとき外泊のための荷物をバッグに詰めているところだったが、白髪のルームメイトにとっては自宅に帰るだけなので、その準備さえ不要といったところだろう。
「それじゃあ、五年前の状況について聞かせていただけないでしょうか?」
白髪少女は細く美しい眉をひそめたが、思案の迷宮にとらわれていたのは彼女も一緒だ。
やがて本を机の上に置き、重たげに口を開いた。
「……私も五年前のことについて大して知らないわ。黎明も風月も、揃いも揃って私に隠し事ばかりするのだから」
「一条さんの知ってる範囲で構わないので、教えていただけませんか?」
「五年前は黎明の専属メイドが突然辞めていった年よ」
プルーン色の瞳を丸くさせたまま、岬は大袈裟にまばたきをしてみせた。
「専属メイドって子夜先輩じゃなかったんですか?」
「風月はもともと私の専属メイドだったの。そのメイドがいきなり辞めたことで、私から黎明の専属に移ったわけ」
移ったというより押し付けたのだけどね……と、和佐は最後に付け足した。どうやら彼女との関係もうまくいっていないようである。二人の過去のやり取りもに多大な関心はあるが、今はとにかく辞めたというメイドさんの話だ。
「それで、黎明さまの専属だった方というのは?」
「黎明と風月の同期生だった女よ。名前は
「火影さん、ですか」
黎明や風月ほどではないが、彼女もなかなか珍しい名前の持ち主のようである。
「その火影さんは一体どのようなメイドさんで?」
「ただのやかましいメイドよ。能力も高くなかったし、常に浮ついた態度をとっていて、家事中も鼻唄を歌ってばかりで風月に呆れられていたくらい。黎明に気に入られていなければ一瞬でクビになるような人材だったわ」
「一条さんにとってさぞ嫌な相手だったんでしょうねえ」
思わず口角が持ち上がった岬だが、過去の『恋敵』に対して、和佐の反応は淡白だった。
「あいつ個人で言えばそうだったけど、当時は私は黎明からしつこいくらいべったべた触られてたからね。正直、火影を憎むどころではなかったわ」
「べったべた、ですか?」
「そう、べったべた」
もしかして彼女もお姉さまに長椅子の上であんなことやこんなことをされたのだろうか。
変態淑女の肌色ピンクの妄想は、ルームメイトの深刻な嘆きによって打ち払われた。
「……火影が五年前に突然メイドを辞めて、それ以来、あいつは、私に触れることをぴたりとやめるようになったの。理由はわからない。私は別に、鬱陶しく触れられなくても構わなかったけど、いきなり露骨に接触を避けるようになったというのは、さすがに不自然でしょう」
「確かに、そうですね」
和佐の屈折した本心を汲み取って、岬は頷く。
「火影さんがどうして辞めたかはご存知なんですか?」
「表向きは突然重病にかかって実家に帰ったとされているけれど、それが事実だとは私は思わない。その証拠に、黎明は火影が去って以来、一度もあいつの実家に訪ねたことがないのだもの。あいつと火影の間に何か確執があった、そう考えるのが自然でしょう」
「あたしは最初、火影さんが嫉妬のあまりに一条さんにひどい嫌がらせをしようとしたのがばれて、メイドをクビにされたものかと思ったのですが」
なかなか悪くない推理だと思っていたが、和佐は白いかぶりをゆっくりと振った。
「それだと、同時期にあいつが私に触らない理由に説明がつかないでしょう。それに、もし仮にそれが真実だとすれば、黎明はここまで必死になってそのことを隠そうとするのかしら……」
それもそうだ。メイドの風月が主人を余裕で掣肘できるとなれば余程の秘密でなければならないはずである。岬は少なくとも、火影の辞職と黎明の態度の変化が無関係とは考えていなかった。
だが、どう知恵を絞っても答えは出ず、荷造りを済ませると、岬は完全に諦めた様子でベッドの上にひっくり返ってしまった。
「まあ、屋敷で真実は教えてくださるということですし、ここで考えたところでどうにもなりませんね。せっかくの一条さんのお宅です、可能な限り堪能しましょうか」
「正直なところ、何が真実でもどうでもいいわ」
こわばった声で和佐は言い放ち、岬はベッドから顔を上げてスカートを握りしめるルームメイトの横顔を見た。
「あいつが五年間私のことをないがしろにした事実は変わらないのだから。私をずっと苦しめてきたこと……必ず、その責任を取らせてやるわ」
「お二人の仲が元のかたちに戻るといいですね」
その言葉は、ルームメイトの強い反応をうながす効果があったようだ。真意を尋ねようと顔を向けたが、ここで反骨心が沸き立ったらしく、すぐに仏頂面に変じてしまう。
「心にもないことを言わないでちょうだい。あなたにとって私たちの復縁は何のメリットもないはずよ。それとも何? 姉妹仲を取り持った功労者として、私に最大限の恩を着せるつもりなのかしら」
呆気にとられた。さすがにそこまでひねくれた考えはしていなかったが、つっけんどんな様子はだいぶ和らいでいたように感じられた。まあ、彼女に素直さを期待するのが時期尚早であることは岬も把握できていた。
白髪少女が部屋を出ると、岬はベッドで横になり、枕と顔面でキスをした。自然と笑みがこぼれる。恩を着せると和佐は言ったが、改めて考えてみれば決して邪推とは言い切れないところもある。白髪の美しい姉妹の仲を取り持ち、それをきっかけとしてルームメイトと仲良くしていければどれだけ素晴らしいことなのだろう。
まだまだ秘密は薄闇色のヴェールに包まれたままだが、このときの岬は期待感に胸をふくらませ、すべてがうまくいく瞬間を夢見ていたのだった。
◇ ◆ ◇
一方、険悪なムードに見舞われたのは黎明と風月である。
どうにか内情をさとられずにファン一同の相手をこなした二人は、学舎区の来賓用駐車場に停めてあった車に乗り込んだ。お金持ちの家の車だからどれだけの高級車かと思われるが、彼女たちが乗っていたのは薄ピンクのアルトラパンであった。
ウサギが名前の由来である軽乗用車をメイドの風月が運転し、母校を後にする。助手席に収まった黎明さまは無理に取り繕った笑顔の反動が一気に訪れ、シートに深々ともたれかかり、くたびれ半分、恨みがましげ半分の視線で隣のメイドを睨みつけていた。
「一体どういうつもりですの。ふうちゃん?」
「私はただ、今のお嬢様の有り様に心を痛めたまででございます。五年間、ご主人様のせいで苦しみ続けてきたお嬢様のことを……」
「そらとぼけないでくださいまし。ひいちゃんのことをお二人にばらそうとしたのは、ふうちゃん自身の目的があるからでしょう?」
黎明は夕霧火影のことを「ひいちゃん」と呼んでいた。かつての専属メイドの名前を呼ぶとき、黎明の声に悪意は一切うかがえず、代わりに彼女を偲ぶような響きが強かった。
ハンドルを切り、正面を向いたままメイドは応じる。
「夕霧火影は、私にとって親友でした」
風月の声は平淡だが、さめざめとした凄みを感じさせる。
「ご主人様が火影の件で苦しんでいたことはむろん存じております。それでも、私は友を傷つけたあなたを許すことはできない」
「…………」
黎明は思いつめた様子でうつむいていたが、しばらくして金の瞳を動かしてメイドの本意を探ろうとした。
「でも……どうして今になってこんな裏切りを? 五年間、あなたはずっとわたくしのために尽くしてくださいましたのに……」
「今になって、ではありません。私はずっと、あなた様に復讐できる機会をうかがっていたのです」
「それが今だと言いますの?」
風月は答えず、ただ静かに笑った。穏やかな美しさを持つ彼女に似合わない、陰鬱とした笑い方。自分の計画が着実に進行していると確信している表情であった。
黎明は目をつぶってメイドから顔を背けた。これ以上彼女の暗い笑みを見たら、今までの信頼関係が崩壊しつつある現実を受け入れなければならないような気がしたからだ。
窒息しかねないほどの沈黙の中、風月の運転するピンクのアルトラパンは一条家の屋敷に向かって走り続けた。
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