4★.長椅子の上で

 分厚い布地の上で、岬の顔が驚きのまま凍結される。

 その編入生を見下ろす聖花さまは、余裕を失ったかんばせで、緊張で震えた声を発した。


「ごめんなさい、本当にごめんなさい……。もし岬ちゃんが引き受けてくださらないというのなら、わたくしは力づくであなたを従わせなくてはならなくなる……」


 黎明の金色の瞳には潤みさえ見せているが、言っている内容は「何言ってんだこの人は?」の一言でしかない。暴力を振るう意図はなさそうで、その点は一安心だが、こうまでして妹を近づけさせまいとする彼女の気概に、岬は唖然とする他なかった。


 黎明は顔を近づけ、今度は違う声音でささやいた。


「わたくしの手にかかれば、どんなに反抗的な子でも、最終的には言うことを聞かせることができますの。ですが、それはその子の本来の気質をねじ曲げてしまうということ。わたくしも、できれば岬ちゃんのその心を損なわせたくありませんの。だからお願い、わたくしが手を出す前にどうか頼みを聞き入れてくださいませ」


 脅迫と少しも変わらない訴えに、岬ははっきりと反感を示した。妹だけでなく、こちらの意向も完全に無視してのけようと考えているのは、もはや疑いようのないことだった。

 失望の声が漏れ出た。


「ひどい話だ。それが最高と謳われた聖花さまのやり口なんですか?」

「そう思ってくださっても構いませんわ」


 開き直り、それから黎明は神妙な顔つきで付け加えた。


「わたくしが人払いをお願いしたのもそのためです。岬ちゃんが拒否した場合に、強硬手段で協力を取り付けられるように。……そもそも、この取引が岬ちゃんにどのような損をもたらすのか、わたくしにはわかりかねますわ。エミリーからわたくしに対する執着を取り除くことで、岬ちゃんはあの子と心置きなく春を謳歌できるというのに」

「ずいぶんと見くびってくれたものですね。あたしが一条さんの想いを踏みにじるような真似を許すと本気でお考えなのですか? だいたい、わざわざ二人きりになれる場を設ける時点で、あたしが拒否し、強硬手段を取らざるを得ないとわかっていたんじゃないですか?」


 なぜ強硬手段しか手がないとわかるのか。それは聖花さま自身が自分の目論見がまっとうなものでないと自覚しているから他ならない。


 それを見抜いた岬は反発と決意とを表情に鮮やかに飾り、黎明さまはこれ以上の説得の無益さをさとった。

 金の瞳に苦悩の波をちらつかせながらも、ついに実力行使に出ることを決めたのだった。


 仰向けにした岬をさらに強く押さえつけ、唇を重ねる。


「んうッ……!」


 岬の脳裏に早くも非常用のランプがともった。


 変態淑女としての自負として、彼女に責めを受け流す自信はあったのだが、思い上がりかもしれない。一昨日の夜に一条和佐が犯した認識違いを、岬もやらかす羽目におちいった。


 粘着質な水音が連なる。豪奢だが淫猥さとは無縁に見えた聖花さまのキスは、器量において変態淑女の編入生にも劣らなかった。その境地にいたるまでにどれだけの乙女を餌食にしたのか、つい邪推したくなってくる。


 ねちっこいキスが中断されると、岬は呼吸を整えながら半ば茫然と聖花さまのかんばせを仰ぎ見た。頭がくらくらするのはキスの巧みさだけでなく、彼女の纏う花のかぐわしい香りのせいもあったかもしれない。


 やらしいキスを交わした黎明さまは自身の接吻の巧みさを誇示する意思もなく、あくまで真顔で岬に問いかけた。


「どう、観念する気になりまして?」


 煽るような響きはないが、岬はむっとなって聖花さまの嘆願をはねつける決心を固めた。


 理性に基づいて考えるなら、ここで情事を打ち切って、快楽の沼から這い上がるべきなのだろうが、ここで降参すれば、聖花さまに折れてルームメイトに想いを諦めるように告げねばならない。

 詳しい事情を何一つ聞かされていないというのに、そんな指示には従えなかった。

 承服するふりをして、実際には黙っておくという手も考えられたが、岬はあくまでも自分の信念を貫き通すほうにこだわった。


 乱れた前髪をかき上げて声を絞り出す。


「……冗談じゃありません。ここで諦めたら、一条さんに不都合なことを言わなきゃならないでしょうが」


 屈服させられるならしてみろと言わんばかりである。

 うら若き少女の強情に、聖黎女学園のOGは嘆息してみせた。


「岬ちゃんがそこまで仰るなら、わたくしも心を決めねばなりませんわね。どのみち同じ結末をたどるのだから、気持ちいい目に遭ったほうが岬ちゃんとしては喜ばしいことなのかもしれませんし」


 嫌な言い方をするものだ。それではまるで自分が聖花さまに犯されたがっていると言いたげではないか。控えめだが優位性を確信している物言いも、岬は気に入らなかった。


 黎明は再び編入生の少女と唇を重ね、彼女の足元にそっと手を伸ばし、履いていたローファーを脱がした。そして脚全体を長椅子に収めると、聖花さまはライラック色のスカートに隠された太ももの裏を指でなぞった。


「ひうッ……⁉」


 岬は悲鳴を押し殺せなかった。いかに変態淑女でもこの愛撫に無反応でいられるはずがない。全身を大きく痙攣させ、不意打ちを決めた聖花さまを恨めしげに見つめる。


「……考えてみれば、岬ちゃんにこのことを打ち明けないほうが都合がよかったのかもしれませんわね。何も知らなければ、岬ちゃんはわたくしが何も言わずとも、エミリーの心をとろとろに溶かし尽くしてくれたかもしれませんのに」


 またしても痛いところを突かれて、岬は官能の余韻も忘れて頬に血をのぼらせた。聖花さまの意地の悪い言葉を否定する材料を彼女はまったく持ち合わせていなかった。

 自分の気質をかんがみると、知らぬままにルームメイトの心を蹂躙する可能性は十分に考えられ、岬は自身の卑しさを思い知らされて心に暗い影を落としたのだった。


 その影が一時的に消えたのは、聴覚が遠方からの足音をとらえたときだ。

 足音は外の廊下から響いている。いちおう聖花さまは人払いを依頼したが、事情を聞かされていない生徒がやってきた可能性も決してゼロではないのだ。

 黎明さまも外部からの音を聞き留めたようだ。だが彼女がもたらした行動は、岬の求めたものとはかけ離れていた。


「んん――――ッ‼」


 黎明は岬を離すどころか、さらに熱烈に抱擁して長椅子の上でもつれ合おうとした。編入生と同等以上の変態淑女ぶりを発揮させた聖花さまは、弾力と柔感に富んだ胸のふくらみを押し付け、身体的、精神的の両方の理由で岬にスカートの裾を直す余裕を与えない。


 足音は着実に特別会議室へと迫っている。乾いた音が一足鳴るごとに、岬の心臓に氷の杭が打ち込まれていく。


 抱擁から逃れなくてはと本気でもがく。第三者にこんな場面を見られたら、変態淑女の悪名に箔がつくだけでは済まされない。ファンの面々の恨みを買い、始業式の前から暗澹あんたんたる学校生活を約束されることになるだろう。


 その事情を知ってか知らずか、聖花さまは緊張の中で肉感的な気持ちよさに耽溺たんできしようとしている。


 岬はだんだん腹が立ってきた。

 彼女は自分が聖花さまだからお咎めを受けることはないと確信しているのかもしれないが、こちらはそういうわけにはいかないのだ。その事実をまるで考慮しない白い美女に、岬は思い知らせてやる必要を感じた。


「ひにゃんッ⁉」


 間隙を縫って、岬は聖花さまのかんばせ目がけて手を突き出した。手のひらの固い部分が偶然、黎明の形のいい鼻に直撃し、白髪の美女は顔を押さえて悶絶する。同時に、即座に抱擁から抜け出した岬は、脱がされたローファーを履き直し慌てて長椅子から立ち上がった。

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