2.聖花さまがやってくる(2)
一条和佐は無防備に寝顔を見せるような無様な真似はしなかった。岬が部屋に戻ってきたときには、彼女はすでに私服に着替えており、朝食も摂り終えていたのだった。
白髪の美少女は机に向かって読書をしていたが、この時は珍しく彼女のほうから声をかけてきた。と言っても、決して好意的な雰囲気を醸成するものではない。
「すっかり悪評の渦中にいるようね。まあ自業自得でしょうけど」
渦中にいることを岬は自覚していた。沙織子おねーさんの失神と編入生の手籠め未遂事件は一日のうちに寮生の大半に知られてしまい、廊下を通ったときも、自分に対する乙女たちのひそめきが聞こえたのだった。
「一条さんにあちこちキスされた件も、なぜかあたしが悪者にされちゃってるんですけど」
「廊下を堂々と歩いていれば、疑われても当然よ」
噂を流した(正確には脚色したのは円珠だが)張本人は、被害者に対して冷淡である。
だが真理であった。キスの噂だけならまだしも、東野暁音の件の後では、変態淑女の疑惑は真実ですと認めてしまっているようなものだ。
岬はベッドの上に座り込み、脚をばたつかせた。
「ま、ずっと隠すつもりもなかったんですがね。本性を誤魔化し続けてもくたびれるだけですから。さすがにここまで早くばれるのは想定外でしたが……でもまあ」
三つ編み少女の口元に小悪魔的な微笑が広がる。
「これであたしはこの部屋以外、居場所は完全になくなってしまいましたね?」
和佐はぎょっとなった。まさに藪から出た蛇に噛まれた心境である。
驚きが去ると、和佐の中に急速に腹立たしさがせり上がった。
東野暁音も同じような理由でこの娘をこちらへ押し付けてきたのだと考えると、身体能力しか能のない娘の分際でいらぬ機転を……と不快感がさらに募ったのである。
「えへへ、今さらルームメイトを解消するなんて言わないでくださいよ~? 今ここで別れてしまったら、あなたのお姉さんにとても顔向けできませんからね♪」
ここで和佐は初めて、驚きの表情で顔を上げた。
「あなた、黎明と会うつもりなの?」
「ご存知でない? というか一条さん、お姉さんのことを呼び捨てしてらっしゃるのですか」
和佐は岬の質問に答えるどころではなかった。
再びうつむかせた顔には今まで見たことのないような翳りがよぎり、灰色の瞳には強い揺らぎが浮かんでいる。
絶望のうめきが、半ば無意識的に漏れた。
「そんな……私は、何も知らされてない……」
ただならぬルームメイトの様子に岬は息を呑んで見守っていたが、やがて慎重に問いかけた。
「お姉さんのことについて聞いてもいいでしょうか?」
「なぜ? あなたはこれからその本人に会うのでしょう。聞きたいことなら、あいつに直接尋ねればいい」
「いえ、直接会う前に予習の一つでもしておきたいと思いまして……」
「あいつを慕う連中は現在もごまんといるわ。話を知りたいというならそこを当たってちょうだい」
先ほどから姉を「あいつ」と呼んで
「どうしてです? あなたの憧れのお姉さんのことだというのに」
「憧れ?」
「寮母さんが仰ってましたよ。一条さんが美しさを保っている理由は、お姉さんの存在を強く意識してのことだと」
「はっ!」
和佐の声には露骨なさげすみがあった。
「幼少期からあいつと比べられて、私がどれだけ不快感を募らせてきたか、あなたは永久にわからないでしょう。周りは『お姉さんはあんなに周囲と打ち解けられるのに、どうしてあなたは心を開くことができないの?』と繰り返し、そのたびに私は打ちひしがれてきたの。そっちから私のことを奇異な目で見ておきながらよく言えたものと思うわ。優秀な姉がいるおかげで、私は今までずっと惨めな気分を味わうことになったのよ」
そんな姉のために意識など向けるはずがないと白髪の美少女は言外で訴えかけている。それから、玲瓏な声でさらに続けた。
「この格好に関しても姉抜きで簡単に説明がつくわ。自己満足は前にも言ったけれど、一条家の娘として恥のない容姿をしていたかっただけなの。滅多に会うことはないけど、産んでくれた両親には感謝しているわけだから」
過去にルームメイトをキスで追い出しておいて恥も何もあったものではないと思うが、岬はその点について言及しなかった。
代わりに、別のことを思いついた。
「そうだ。一条さんもお姉さんに会いに行きません? なぜ連絡を寄越さなかったのか、これを機に問い詰めればいいじゃないですか」
「別に知りたくもないわ」
和佐の返答はにべもなかった。
「それに、あいつが私をどう思っているかなんて、連絡を寄越さない時点で明白でしょう。わざわざ制服に着替えて無為な会話を交わすくらいなら、他のことに時間を当てるわ」
そして和佐は有言実行を果たすために、読んでいた本を机に置いて椅子から立ち上がった。そのまま早足で部屋から出て行こうとする。
岬が制止の込めて呼びかけると、
「トイレよ!」
と、短く鋭い回答が返ってきた。
思いがけない返答に、さすがの岬も二の句が継げずにいた。
知的な反撃ではないが、効果は確かにあり、出まかせとはわかっていても、嘘と即断できず、岬は彼女を無理に引き留めることができなかったのであった。まあ、結論から言ってしまえば、部屋を出た白髪少女は迷いなく玄関の扉を閉めていったのだが。
和佐を追うことを、岬はしなかった。必死に追いかけた結果、聖花さまとの待ち合わせに遅れてしまったら目も当てられないし、ルームメイトの態度に興が削がれてしまったのもある。もともと和佐の口上を信じる気はなく、姉の来訪を知らなかった時のショックのみが真実であると岬は確信していた。
気を取り直して予備の制服に袖を通し、念入りに身だしなみを整えから、出立の時間を見計らって岬は217号室を後にした。
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