2.屋内プールでのひととき

 聖黎女学園の屋内プールは学舎区内にある体育館の隣に併設されている。温度と湿度は常に一定に保たれ、柔らかな日差しがプールの水面を反射し、天井に巨大な水影を映し出していた。


 岬はプールサイドチェアに腰かけ、ゆらめくプールの水面を眺めていた。

 右手にはストップウォッチを、左手には記録用紙を挟んだバインダーを持ちながら、軽やかに打ち付けられる水音に耳を傾けている。


 せっかくのプールだが、このときの岬は水着姿ではなかった。制服は紺色のボレロだけを外し、ローファーと紺のハイソックスも脱いでいる状態だ。まるで温室にいるかのような熱気と湿気に、肌に薄汗が滲んでいるのが実感できる。


 そもそも、なぜ岬が記録係のようなことをさせられているのか。

 きっかけは数十分前までさかのぼる。


 東野暁音は「部長にはちゃんと話した。ただ返事聞く前に駆け出しただけなんだ」と必死に言い訳をしてから、引き続きルームメイト解消をひたすら訴えかけつつ、律儀に岬を屋内プールまで導いた。

 そこで、ちょうど練習を終えた部員たちと鉢合わせになり、暁音は鉛を飲み込んだような顔になる。


 脱走犯の短髪少女に部員たちが殺到したが、それを制して手を差し出してくれたのが水泳部の部長さんである。


「暁音ちんが脱走したことは顧問には黙っといたげる〜。こちらの彼女さんに記録を三本とってもらったらね~」


 部長の差し伸べた手が天使のものか悪魔のものか、今でも暁音は判断がつかない。だが、いずれにせよ彼女に選択の余地はなかった。

 顧問の雷を回避するためにも編入生の少女の協力を仰ぐしかなかったのである。


 暁音の水着姿を見られると知り、岬は暁音の頼みを快諾したが、部長さんの意図を考えないわけにはいかなかった。こちらに対して意味ありげな視線を向けたのは「今後も水泳部をご贔屓に~」ということだろうが、残念ながら、水泳部に入る意思はこれっぽっちもない。


 プールの縁に手がかかり、岬は急いでストップウォッチを止めた。白い飛沫を散らして暁音が水面から跳ね上がる。


 キャップとゴーグルを競泳水着の肩紐に挟むと、岬のもとにやってきて記録用紙を覗き込んだ。


「ちゃんと記録できたかよ?」

「うん、たぶん大丈夫」

「そうかい。まあ、なんだっていいんだけどな」


 投げやりに言い放ち、暁音は自分で用意したタオルで頭をふき始める。

 その様子を岬はさりげなく観察した。


 暁音の身につけた競泳水着は、紺色の地に赤と白のラインが入ったシンプルなものだ。シンプルゆえ、彼女の肢体のラインを惜しげなく際立たせている。胸のふくらみはまだまだ発展途中ではあるが、腰回りはスポーティに引き締まっており、対して小尻から太ももにかけての曲線はあどけない柔らかさを秘めていた。首筋から肩甲骨にかけて水滴が艶かしくつたい、競泳水着の繊維は水分を含み魅惑的な照りを見せている。

 すました顔をしながら、岬はハイビスカス色の喜びに打ち震えていたのだった。


 二人が口を閉ざす。すべての音がプールに吸い込まれるかのような静寂が満ちたが、ややあって暁音が再び口を開く。


「一条と一緒にいたっていいことなんて何もないんだぞ」

「まだその話を引っ張るんだねえ。暁音ってさ、ひょっとしなくても一条さんのこと嫌ってるの?」

「あいつと一緒にいたいってほうがどうかしてる」


 唾でも吐きかねない様子で暁音は言い、何の前触れもなくプールサイドを歩き始めた。

 先ほど勝手に話を切り上げた意趣返しなのだろうかと疑いながら、『どうかしてる』認定を受けた岬は、プールチェアから立ち上がって競泳水着の少女の後を追った。


「暁音が一条さんを嫌うのはわかるけどさ、だからと言ってあたしまで巻き込まないでほしいな。何が起ころうか暁音の知ったことじゃないじゃない」


 冷たくあしらわれて、暁音は足を止めて剣呑な目つきで振り返った。


「人が心配してやってるのになんだ、その態度は」

「それについては感謝するよ。だけど、よく考えてみて。そもそも暁音はこの噂を流した張本人は誰だと思う?」

「張本人だあ?」

「あたしはこの噂を流したのは一条さん自身だと思うんだ」


 暁音は露骨に馬鹿にしたような顔つきになった。


「なんで一条が自分のしたことを吹聴したがるんだ」

「そうだとすれば腑に落ちることがたくさんあるんだよ。だいたいさ、キスマークをつけたことが事実だとしたら、そのことを知ってるのは一条さんだけじゃない。あなたが誰から情報を又聞きしたかは知らないけど、一条さんから直接そのことを口伝くでんしてもらわなければ、こんな噂は出てこないはずなんだよ」

「馬鹿言うな。一条に手を貸す連中なんかいるもんか」

「それはどうかなあ? 一条さんは気難しい性格かもしれないけど美人さんでしょ。彼女の容貌に惚れ込んで密かに忠誠を誓っている人がいてもおかしくないんじゃない?」


 暁音はうなった。どれだけ憎い相手でも彼女の美貌を否定するのは難しいようである。

 和佐の美貌に生徒がコロリとやられてしまう可能性はゼロとは言えない。

 もっとも、暁音はその対象を円珠と結びつけようとはしなかった。


 派手に舌打ちをして、柄も悪く言葉を吐き捨てた。


「あんな奴に協力したがる馬鹿な奴もいるもんだな」

「何言ってるの。暁音も一条さんの悪だくみに十分加担してるじゃない」

「なんだとお?」


 暁音の両目が凄絶な怒気で血走り始める。

 岬はそれに気づかないふりをして語り続けた。


「一条さんがこんな噂を流したのは、暁音があたしにルームメイトをやめろと訴えかけてくれると確信してたからじゃないかな? あたしを追い出すためなら自分を貶めることくらい平気でやりそうだもん。あなたは一条さんにまんまと利用されたんだよ。これであたしが出て行ったら、一条さんは手を叩いてあなたに感謝するだろうね」


 ことさら意地悪く言ったのは、和佐に利用されている事実を印象付け、暁音のルームメイト解消を諦めさせるという魂胆があったからだが、岬の予想は大きく外れた。


 けたたましい咆哮が響き渡り、次の瞬間、岬の身体は宙に投げ出された。


 怒れる競泳水着の少女に突き飛ばされた制服姿の編入生は、プールサイドを飛び越え、次の瞬間、プールの水面に白い巨大なあぶくの花を咲かせていたのである。


「…………」


 岬は今の自分の状況がまったく呑み込めなかった。

 無意識で濡れた前髪を払いのけると、先ほどまで自分が踏みしめていたはずのプールサイドに競泳水着の少女が慌てふためいているのが見える。


「お、おい、岬。泳げるかー……?」


 ようやく我に返った岬は、あたりを見回し、近くにただよっていたストップウォッチとバインダー(挟まれた用紙は耐水性のため無事)を回収した。それから生まれて初めての着衣での立ち泳ぎに挑戦し、差し出された暁音の手を掴み引っ張り上げられる。


 暁音は自分の非を認めることに関しては潔かった。濡れネズミになった岬に対して盛大に頭を下げる。


「悪い! 突き飛ばすつもりはなかったんだ!」

「ううん、こっちこそ怒らせるようなこと言ってごめん。でも……さすがに困ったな」


 自分の姿を見回して苦笑する。ライラック色の制服は今や深ブドウ色に変色させており、制服の下も当然、びしょ濡れであった。

 暁音は内線で三号棟の寮母と連絡をとった。そして217号室から予備の制服と下着を届けてもらう間、二人は屋内プールにあるシャワー室で身を清めることにしたのだった。

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