第三章 乙女たちの不本意な結末

1.怒れる少女

 大校舎の内部を歩いた岬は、早くも他の学校との格の違いを思い知らされていた。広さも清潔さも設備の充実さも、平凡な小中学校時代のものとは比較にならない。


 新たな場所を見るたびに率直な驚嘆を岬は口に出し、沙織子の気をいたくよくさせた。鼻血から完全に立ち直り、鼻に詰めたちり紙はすでにゴミ箱の中。手を当てた胸を勢いよく反り返らせ、編入生の質問に得々と答えていく。


 一時間ほどかけてあちこちの場所を見て回り、白亜の大校舎を出ようとしたとき、沙織子の足がふいに止まった。

 岬もそれに倣い、おねーさん同様に正面玄関をじっと眺める。


 大校舎は盛り上がった地面の上に建てられ、正面玄関と校内道路のあいだを十数段の階段でつないでいる。横幅が広いため、生徒一同は『大階段』と呼び親しんでいた。


 その大階段を現在、制服姿の少女が駆け上がっていた。上り終えると、速度を緩めず二人のもとへやって来る。


「沙織子おねーさんッ!」


 岬が口にするよりもずっと自然に響いた『沙織子おねーさん』である。

 声変わり前の少年のような声で、その声には緊迫をはらんでいた。


 だが、沙織子が気になっていたのは彼女の態度とはまったく別のところにあった。

 声が完全に呆れ果てている。


「東野さん……どうしたというのよ、その頭」


 突然現れた彼女の髪はチョコレート色のショートカットだが、その髪が今、通り雨にやられたかのようにしっとり濡れていた。

 それでいてライラック色の制服が無事なのが何とも奇っ怪である。


 東野さんと呼ばれた彼女は、岬と同等の背丈で、肌は浅く日に焼けている。紺色のボレロは羽織っておらず、スカートの丈はちょっぴり短くしていた。そこから伸びる脚は長く、しゅっと筋肉が引き締まっている。


 短髪の少女はおでこに張りついた前髪をわずらわしげに払いながら、いきなり彼女にこう申し出たのであった。


「すいません、沙織子おねーさん。彼女の学校案内の役目を代わってもらえないでしょうか?」

「はあ?」


 いきなりの要求に、おねーさんの右の眉が勢いよく跳ね上がった。


「何言ってるの東野さん。蒼山さんから仰せつかった役目を投げ出すなんて、できるわけないでしょうがッ」

「そのシスターから許可はもらってます。本人に直接確かめてもらってもいい」

「なんですって?」


 今度は左の眉が吊り上がる。岬は耐え切れず、おねーさんにそっと尋ねた。


「すみません。沙織子おねーさん、こちらの方は……」

「ああ、ごめんなさい。紹介がまだだったわね」


 改まった様子で沙織子が濡れた髪の少女をかえりみる。


「彼女は東野暁音さん。上野さんと同じ高等科一年になる子で、所属はお察しだろうけど水泳部」

「なるほど」


 岬は頷いたが、水泳部だろうが何だろうが頭を濡らして校内を走り回るようなことなどあるものだろうか。

 もっとも、赤城先輩は暁音の状態にこれ以上気を留めず、両手を腰に当てながら短髪の後輩を睨みつけた。


「確かあなた、この時間はまだ水泳部の午前練のはずでしょ? 部活はどうしたのよ」

「部長に頼んで抜け出させてもらいました」

「ふうん……。それで、蒼山さんには何と言って許可をもらったのよ?」


 暁音は今後はややためらった様子だった。

 黒々とした瞳を編入生の少女に向けてこう言う。


「そこの編入生が一条和佐の嫌がらせのキスを受け、あちこちにキスマークをつけられたと聞きまして……」

「きすまあく……⁉」


 沙織子の声が見事に引きつった。


「シスターにそのことを尋ねたら、そんなこと聞いてないわと一蹴されてしまったので、なら編入生の彼女に会って本当のことを確かめるまでだと思ったんです」


 プルーン色の瞳をしばたたかせて、岬は東野暁音という少女を見つめた。シスター蒼山が聞いてないのも当然だ。そのような辱めの事実など存在しないのだから。


 岬は当然、日生円珠の存在など知りようがなく、あちこちにキスマークをつけられたというのが、彼女の完全な創作デッチアゲであることも知らない。

 その一方で、暁音も円珠と和佐がつながっていることを知らない。

 円珠からもたらされた情報が虚報ではないかと疑われ、目に見えて戸惑っている。


 岬は首を振り、白けた様子で言葉を放った。


「誰から聞いたのかは知りませんが、そんなでたらめを吹聴するような方が、この学校には存在するんですか?」


 自校の名誉を傷つけられ、おねーさんはすぐさま『きすまあく』の呪縛から立ち直り、義憤の視線を暁音に向けた。


「嘘だというなら承知しないわよ。一体誰からそんなふざけた話を聞いたのよ?」

「いや、聞いた相手も又聞きみたいでしたから……」


 沙織子の怒りに気圧され、暁音はしどろもどろの対応になり、円珠の名を出すのをためらった。このとき沙織子は、強権的に後輩から情報を引き出そうとするべきではなかった。


 岬は真顔で沙織子おねーさんに向き合った。


「すみませんが、彼女と二人きりで話をさせていただけませんか? 沙織子おねーさんは寮棟区に戻って、噂の出どころの調査をお願いしたいんです」

「そ、そうね。こんな嘘、許せるわけないものねッ。上野さんが服の下にキスマークだなんて……ウウッ!」


 誰も『服の下』とまでは言っていないのだが。


 余計な発言で、余計な妄想を働かせた赤城先輩は再び鼻と口を押さえてよろよろと大校舎を後にした。


 大階段を駆け下りる音が聞こえなくなると、岬は改めて短髪の少女と正対した。

 好意的とは言いがたい態度は一条和佐と共通するものがあったが、こちらはずいぶんと野性味にあふれている。


「……一条の野郎に襲われたのがでたらめだと?」

「そう言ってるじゃない。ひどい話だよねー。根も葉もない噂話で他人を傷つけようとするなんてさ」


 一条和佐のときと違ってくだけた口調になる。


 確かに、ひどい話だと岬は思っていた。現実の一条和佐も、本気で自分を追い出したいのなら、せめてそれくらいの気概を示してもらいたいものだ。


 和佐にあらぬところをキスされる妄想を思い描きつつ岬は可憐なかんばせを引き締めていたが、次に放たれた暁音の回答には目を見張った。


「嘘を吐くんじゃない。ルームメイトがやってきて一条の野郎が何もしないはずがないだろうが!」


 岬は珍しいものを見るような目つきになった。

 ここまできっぱりと事実を否定されるとは思わず、あまりのことに腹も立たなかった。


 怒れる少女に、慎重に問いかける。


「あのね、東野さん」

「私のことは暁音でいい。こっちも岬って呼ぶから」

「じゃあ暁音。もしあなたの言うことが事実だとしたら、あたしは呑気に沙織子おねーさんの案内を受けていられるのかな? 心に傷を負ってふさぎ込んでいるのが普通でしょ」


 指摘されて、暁音は真面目に考え込んでいる。明らかに運動系に見える少女であるが、頭の回転が鈍いようには見えない。もっとも、一条和佐の場合もそうであったが、今の岬の清楚なかんばせから変態淑女と即座に見抜くことはできないようだ。


「……本当に、何もされなかったってのか?」

「うん。嫌がらせのキスを二回ほど受けただけ」

「結局受けてんのかよ⁉」


 暁音の日に焼けた顔がどす黒く染まった。掴みかからんばかりの勢いで編入生の少女に詰め寄る。


「そんなことされてなんで逃げなかった⁉ 仮にあの噂がでまかせだったとしても、あいつのところに居続けたら、いつか本当にそんな目に遭わされるかもしれないんだぞ⁉」


 岬としてはむしろそれを切望しているわけだが、喧嘩腰の暁音に言うのはリスクが高すぎる。困った顔で言い返した。


「でも、あたしが去ったら一条さんはまた一人になっちゃうんだよ? あれほどの綺麗な人が不憫な思いをしたまま卒業しちゃうなんて、あたしなら見過ごすなんてできないな」

「あいつは好きで独りでいたいんだから、そっとしときゃあいいだろ! お前がお節介焼いたところでしっぺ返しを食らうのがオチだ。それだけじゃない。一条を嫌ってる奴は私を含めて大勢いるんだ。もし、あいつと仲良くしようってもんなら、その連中を全員敵に回すことになるんだぞ⁉」


 必死の形相で暁音は叫んだが、岬はここで驚くべき行動に出た。

 唐突に暁音から顔を背け、いきなり玄関口を出ようとしたのである。


「……お、おい! どこへ行きやがる⁉」


 話を勝手に切り上げるかたちで出て行こうとするのだから暁音が声を荒げるのも当然だ。

 岬はすぐさま足を止め、暁音に対して小悪魔的な笑みを浮かべて振り返った。


「暁音こそ何しているのかな? おねーさんの代わりに来たんなら、きちんと学校を案内してくれないと困るよ」

「なんだと⁉」

「そんな大きな声で叫ばなくてもいいから。あ、そうだ。あたし、プールがいいな。暁音のツテなら部外者のあたしが覗き込んでも平気なはずでしょ?」


 とたん、暁音の顔に焦りが広がった。


「な、なんでよりによってプールなんだよッ」


 のけぞる暁音の心を見透かすように、岬はさらにいたずらっぽく目を細める。


「なんでって言われてもなあ。校舎はすでに見終えたし、あたしはむしろ暁音が慌てる理由のほうがわからないな。部長さんからちゃんと許可をもらってるなら引き返したって別に問題はないはずでしょ?」

「ぐうっ………!」


 せっかく乾きかけた暁音の短髪が今度は冷や汗でぐっしょり濡れるかと思われた。

 重々しく頷くまで彼女はどこまでもうなり続けた。部活を強引に抜け出したと自白したも同然の反応だった。

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