4.一条和佐と『妹』

 寮棟区内にある図書館は、休日でも開館時間は午前七時と非常に早い。勉強熱心な生徒たちに配慮したものだ。


 217号室を飛び出した一条和佐はその後、まっすぐそちらへと向かっていた。


 人嫌いだが、一方で勉強家である彼女が開館時間と同時に図書館に入ることは珍しいことではなく、顔なじみの司書から許可を得て、禁帯出資料室に訪れるのもいつものことであった。


 シスター蒼山と同年代の司書は、決して勘の鋭い女性ではない。白髪少女が禁帯出資料室で本当は何をしていたのか、長い間知らなかったのである。


 むろん、埃っぽい空間で専門的な書物を読む時もあるが、今回は違う。

 このときの和佐は書架に眠る書物には目もくれず、部屋の奥にあるもう一つの扉に手をかけていた。


 開いた扉から春の陽光が降り注ぎ、その先に、平時なら誰も訪れなさそうな空間が広がっていた。高い塀が目の前にそびえ立ち、古くなった備品が野ざらしにされている。清潔さが売りの聖黎女学園にもこのような箇所は存在するのだ。


 一歩外へ出て扉を閉めると、和佐はハンドバッグから携帯端末を取り出し、メッセージ機能を開いた。

 操作の時間はごくわずかだった。文字すら入力しない。


 梟のスタンプを一つ、送信しただけである。


 それが白髪少女にとっての『来て』という合図だった。

 やがて相手から同様にスタンプによる返信が届く。


 白くてずんぐりむっくりのアザラシの赤ん坊がドヤ顔を決めているもので、なぜか頭にキノコが生えていた。いちおうこれが相手からの『了承』ということになる。


 端末をしまって待つこと数十分、図書館裏の狭い空間を通ってやってきた慌ただしい足音を和佐は聞き留めた。


「姉様ッ。遅れてしまい、申し訳ございません……」


 早足で駆け寄った少女がうやうやしく頭を下げる。

 和佐は驚いた様子もなく、社交辞令に彼女の来訪をねぎらった。


「そうそうに悪かったわね。円珠えんじゅ

「とんでもない! 私は姉様のためならば、いついかなる時でもせ参じる覚悟ですからッ」


 岬やシスター蒼山が見たら目を見張ることだろう。


 和佐は美少女だから、密かに想いを寄せる生徒がいたところで不思議ではない。

 だが、人嫌いと目された和佐が満面の笑みではないにせよ、やってくる生徒を拒否しないことは、彼女の気質を知るものからすればほとんど異常事態であった。


 彼女こそが先ほど一条和佐と通信していた相手で、名前は日生ひなせ円珠えんじゅと言う。


 円珠は中等科三年に上がる少女で、年齢的には和佐を「姉様」と呼んでも差し支えないが、栗色のミディアムボブは、白髪の姉様と血のつながりのないのは明らかだ。胡桃のような色と形状の瞳が印象的で、控えめだが、姉様に対するまっすぐな情念がうかがえた。


 ゆったりとした若草色のワンピースに身を包む円珠は、一条和佐の家ほどではないが、それなりに大きな企業のご令嬢にあたった。二年前の社交パーティで大人たちの輪から逃げ出した円珠は、同じく会場の外で休んでいた和佐の姿を見て、一瞬で魂を染め抜かれた。普段は気の弱い円珠が、このときだけは和佐の硬質な感情も気にならず、心身を前のめりにして詰め寄ったものだ。


 憮然としながらも、和佐がお近づきの申し出を受け入れたのは、友好よりも打算の思惑があったからだ。人付き合いは好まないが、手足として使うには円珠の従順さは好都合と判断したのである。


 承諾した際、和佐は円珠にこう告げた。


「まずは私の学校に入れるように努力することね。むろん、私のそばに居続けたいのなら編入試験の成績だけじゃとうてい足らないでしょうけど」


 尊大な態度を激励と受け取った円珠は、親に頼み込んで進路を聖黎女学園に変更してもらい、その編入試験に見事に合格して一条和佐との再会を果たしたのだった。


 和佐と円珠の逢瀬は、すべて極秘で執りおこなわれた。和佐としては周りが距離をおいてくれたほうが都合がよかったし、円珠としても二人きりの関係をわざわざ晒したいとは思わなかったのである。


 図書館裏での二人の関係は二年間続き、和佐は円珠の『姉様』呼びを認めるほどになっていた。この程度で『妹』が気持ちよく働いてくれるのであれば、呼び名くらいは認めてやっても問題はなかった。


 その姉様が白髪をかき上げ、硬い口調で言い放つ。


「編入生の女はいまだ私のルームメイトでいるわ」


 円珠の中に軽い衝撃があった。彼女は三年前のルームメイトの件もすでに聞いており、新たにやってきた編入生も彼女の二の轍を踏むものと信じて疑わなかったのである。姉様が押し付けられたルームメイトを追い出すのに手を抜くとも考えられず、それを乗り越えたという編入生に、円珠はかすかに興味が湧いた。


「一体、その編入生の方は何者なのでしょう……?」


 だが、白髪の姉様は問いに答えず、妹に対して突然このような質問を投げかけた。


「円珠、あなたは東野ひがしの暁音あかねを知っていて?」


 面食らった円珠であるが、やがて姿勢を正して頷いた。


「東野先輩ですか? 確かにご存知ですが……」

「彼女と話せる?」


 胡桃色の瞳がさらに丸くなったが、これも首肯にいたるまでの時間は短かった。


「可能です」

「なら彼女に伝えて。私は昨夜、編入生の上野岬に嫌がらせのキスをし、寝ていた際に寝間着をひん剥いてやったとね」

「へ……ふええぇぇっ⁉」


 一瞬で耳の先まで真っ赤になった円珠に、白髪の姉様は底冷えに近い視線を浴びせかけた。


「あくまで噂よ。誰があの女の着たものをむしったりするものですか。ただ、そう言っておけば暁音は目の色を変えて編入生の娘を私から遠ざけようと試みるでしょう」

「な、なるほど……」


 辛うじて円珠は頷くことができた。


 東野暁音の和佐嫌いは有名である。

 他の少女たちのようにつるんで陰口を言い合ったりするわけではないが、むしろ一切触れようとしないところに彼女の憎悪が如実に現れていた。一条和佐の存在を認知しようとしないのだ。

 それゆえか、視界に白髪美少女の姿をとらえた時の暁音の不機嫌ぶりにはぞっとさせられる。普段は気さくで人当たりの良い先輩なのであるが。


「確かに……編入生さんが酷い目に遭わされたと聞けば、あの人はじっとなさらないと思います」

「むしろできなかったら、私への憎しみもただの虚仮威こけおどしということになるけどね。まあ、あれが怒り狂うのであれば噂の内容などなんだって構わないわ。円珠に任せる」

「何でも……はい、了解いたしました」


 丁寧に一礼し、円珠はじっと動かずに姉様の態度をうかがった。

 行きなさいとの指示があるまで引き上げるわけにはいかない。それが忠義であると円珠は思っていた。


 だが、次に姉様がもたらした質問は思いがけないものだった。


「それにしても、あなたに東野暁音とのつながりがあったとはね……。指示しておいて何だけど、まさか即答されるとは思わなかったわ」


 暁音は高等科一年、円珠は中等科三年に、それぞれなる予定だ。しかも、所属する部活もまったく違う。

 普通に学校生活を送っていれば縁の持ちようのない二人であるが、それに対して円珠はカスミソウのような笑顔で応じたのだった。


「先輩とは趣味が共通してるんです。ほら、こちらッ」


 和佐の前にぬいぐるみが突き出された。円珠がスタンプでよく使うキノコを生やしたアザラシだ。

 彼女がその奇妙な生き物の大ファンなのは知っていたが、最大の疑問は円珠の顔より大きいぬいぐるみを手ぶらの彼女がどこから取り出したということだ。


 灰色の瞳を見開かせる和佐に気づかぬ様子で『妹』はなめらかに語り始める。


「この子は『海洋生物KINOKO』シリーズで一番人気のキノコアザラシちゃんで、大好物のキノコを食べまくっていたら、頭にキノコが生えてしまったらしく、しかも頭のキノコが取れてしまってもすぐに新しいものに生え変わるという設定でして」

「……まあ、つまり。東野暁音もその生き物が好きだと言うわけね」

「どちらかといえば、東野先輩はそのシリーズのシロナガスキノコクジラさんがお好きなようです。キノコアザラシちゃんは近年ではグッズ販売に留まらず、CGを駆使して作られた動画もすでに一ヶ月で登録者数が五万を超えたと話題になりました。しかもそしてさらについになんと」

「……………………」


 何だか自分の頭にまでキノコが生えてきそうな気分だ。


 和佐は無為な時間を使ったことを激しく後悔し、疲れた表情で高速に動き回る円珠の舌を止めさせた。彼女は我を忘れて喋っていたことを恥じていたが、自分の熱中していることを姉様に打ち明けられて悪い気はしなかったようである。


 役目をきちんと果たすようにと強く念を押して円珠を送り出すと、浮ついた足どりに一抹の不安をおぼえながら和佐は禁帯出資料室へと引き返した。書籍に目を通して時を待つ。


 和佐の懸念は、幸い杞憂に終わった。

 日生円珠はきちんと役目を果たしたのだ。


 東野暁音に噂を伝達し、そして彼女は尻に火がついたような勢いで編入生の居場所まで突撃していったのである。

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