3.沙織子おねーさんの隠し事

 平静を装った顔の裏で、岬は肌色ピンクの妄想に歯止めの利かない状況だったが、ある事実に気がついてその空想が急に打ち切られた。隣の先輩に呼びかける。


「沙織子おねーさん!」

「ようやくちゃんと呼べるようになったわね。……で、そんなに焦ってどうしたの?」

「いえ、些細なことかもしれませんが、おねーさんの説明で一つ気になったことがありまして……」

「わ、私のこと? そ、それは一体何かしら……」


 わざととも思えるくらい声が裏返る。どうやら指摘される内容におねーさんは心当たりがあるようだった。

 彼女自身の口から白状する前に、岬はプルーン色の瞳をまっすぐ向けて言い放った。


「簡単なことです。どうしておねーさんの説明にはんです?」


 寮母が217号室に訪れたときは開口一番に「一条さんにキスされなかった?」と心配してくれたが、このおねーさんにはそういう素振りが一切見られないのだ。生徒を気にかける寮生委員としては不自然な態度でなかろうか。


 指摘された沙織子の反応はめざましかった。


 全身をこわばらせ、酸っぱいブドウを口いっぱいに含んだかのような表情が顔全体を支配した。こぼれ出た言い訳は、あからさまなぎこちなさがあった。


「あ、ああ、そういえば、そういうこともあったわねえ。おほ、おほほほほ……」

「先輩、何か隠してますね?」


 わざわざ洞察するまでもない。据わった目つきで沙織子を見つめると、おねーさんは先輩呼びを訂正するどころではなかった。狼狽の限界点が一気に訪れようとしていた。


「ばば馬鹿言わないでちょうだい! 私が上野さんに隠し事するわけ、ななないじゃない! わ、私がキスごときでうろたえるわけなんかかか……‼」

「赤城先輩⁉」


 紅茶色のポニーテールの髪色ががっくりと落ちる。

 地面に膝をついた先輩は自身の髪色と並ぶ色の頬を両手で包み、そのまま身動きがとれない有様であった。

 岬も慌ててひざまずき、おねーさんの顔色をうかがおうとしたとき、その彼女の口から弱りきった声がこぼれてきた。


「上野さん、ちゃんと沙織子おねーさんとお呼びなさい……」


 面食らった。いきなり何を言い出すのかと思ったが、彼女の反応を見る限り、そこまで深刻になる必要もないかもしれない。


 アスファルトの地面に何かが一滴、垂れ落ちた。涙ではない。おねーさんの身体を支え起こしたときに岬が目撃したのは、鼻から流れる赤色の線だった。

 その事実に気づいて沙織子の頬がさらに鼻血の色に近づき、それでも編入生の少女にきちんと礼を述べ、自嘲気味につぶやいたのだった。


「ごめんなさい、見苦しいところを見せちゃったわね。これじゃおねーさんの面目丸つぶれじゃない……」

「いえいえ、かっちりとした先輩より、取っつきやすい点がある方のほうが、あたしはむしろ好きですよ」

「……そう、ありがと」


 後輩のフォローに感謝しつつ、沙織子はちり紙を受け取って鼻に詰めた。

 先ほどまでさんざん元気だったおねーさんは、今やしおしおになって肩を落としている。


「はああ……結局こうなっちゃうか。編入生さんの前で失態を演じないように何度も練習したのに。上野さんからキスの話題が……ウッッ! 出たとたんにこれなんだもの。あーあ。異性のキスならともかく、どうして女の子どうしのキスでこんなにドキドキしなくちゃならないの……」


 沙織子は根本的に誤解している。女の子どうしの接吻だからこそ興奮するのではないか。

 岬は声を大にしてそう主張してやりたかったが、先輩の恐慌パニックがそれこそシャレにならないような気がして、代わりに無難なことを問いかけた。


「練習したってことは、おねーさんは寮母さんからあたしの学校案内をすることを聞いてたんですか?」

「いえ、でも蒼山さんなら私を選ぶことはわかってたから」

「それはまたどうして?」

「迷える寮生に手を差し伸べるのが私の使命だからよ!」


 得意げにふんぞり返る。胸に手を当てて、堂々たる態度ではあるが、鼻に詰めたちり紙のせいで何ともシュールに映ってしまう。


「たとえ他の人に指名されても、私は降りるつもりなんか毛頭ないから! 涙が出ようが鼻血が出ようが私はおねーさんとしての職務をまっとうするまでよッ」


 朝、寮母から編入生の案内を頼まれたときに「きた」と喜んだのはそういう事情があったからか。やたらと使命感に燃える人間は腹の内で何か良からぬことを考えているのが通説であるが、もしかしたら鼻血のおねーさんは数少ない例外なのかもしれない。


「このような醜態を晒した以上、おねーさんとしては聞き出さないわけにはいかないわよね。上野さんは……その、一条さんにキっ、キス……されたの?」

「はい」


 不用意におねーさんを刺激させないよう、むしろ淡白に岬は応じた。

 その反応に沙織子が驚く。


「……それなのに、そんな平気でいられるわけ?」

「付き合い甲斐のあるルームメイトだと思ってますから」


 岬の笑みは鋭気に満ちていた。


 その言葉自体に嘘はない。一条和佐の容姿を見てお近づきになったのではと指摘されれば返す言葉もないが、下心だけでルームメイトになったわけではない。彼女の屈折した性格をどうにかしたいという思いも確かにあったのだ。


「……すごいわ」


 溜息交じりに沙織子が感嘆する。


「……私にはとてもできそうにないわ。キスだけが理由じゃない。全生徒に喜ばれる素敵なおねーさんを目指してるわけだけど、彼女だけはどうにもならないとハッキリわかるの。蒼山さんから『彼女の相手は私に任せなさい』と言われて、それに甘えちゃってるわけだけど、私より後輩であるあなたが彼女の問題と真摯に向き合おうとしてるのを見ると、今まで逃げてきた自分が情けなく思えてくるわ」

「そんなこと言わないでくださいよ。沙織子おねーさん」


 すっかりダウナー状態になっているおねーさんの肩を岬が優しく叩く。


「人には適材適所というものがありますし、相性だってあるんです。沙織子おねーさんは大勢の寮生さんを気にかけてらっしゃるんですから、それだけで十分素晴らしいとあたしは思いますよ? あたしはたまたま、一条さんと相性が良かっただけなんです」


 悪びれもなく岬は関係を既成事実化した。和佐が聞いたら物凄い渋面を浮かべそうだが、今は考えないことにする。


 後輩に励まされ、なおかつ至誠な(ように見える)態度を受け、沙織子おねーさんはぽかんと口を開けてしまう。そして、急に茶色の瞳を潤ませ始めた。


「上野さん、あなたって人は……!」


 胸打たれたような声を沙織子は発した。ウブなだけでなく非常に涙もろいおねーさんでもあるらしい。このまま感極まれば編入生の少女に抱きつきかねない勢いだ(それはそれで岬にとって望ましい展開ではあるのだが)。


「……そうよ、そうよね! いくら苦手意識をあったとしても、寮生を見捨てるなんて決して許されないことよねッ。ありがとう上野さん。あなたのおかげで私、覚醒したわ。どうか何かあったら遠慮なく私に助けを求めにきてちょうだいね。力になってあげるから!」

「あ、ありがとうございます……」


 岬が声を詰まらせたのは、感動よりも焦りのあらわれだった。


 ここまで熱烈に賞賛されると、本性をあらわにすることなんてとてもできそうにない。むろん、進んで変態的嗜好をおねーさんに明かすつもりはないが、彼女の熱意が暴走した暁には、それがどこに向かい出すかまるで見当がつかない。


 なぜだか、とてつもなく嫌な予感がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る