第二章 少女楼閣

1.一夜明けて

 ルームメイトが着替え終えるのを待っていたとき、玄関から呼び鈴が鳴り響いた。


 玄関には絶賛不機嫌中の和佐が向かっていたはずだが、応じる気配がない。洗面室で着替えの最中か、あるいは、ふてくされてそのまま立てこもってしまったのだろう。

 やれやれと思いながら、岬は玄関まで出向いて応じることにした。


「上野さん、時間があるなら少し話せるかしら?」


 寮母のシスター蒼山である。問題の美少女のもとへ送り出した彼女としては、昨夜に何があったか知りたいのは当然の心理だろう。

 岬は快諾し、白の修道服に包まれた彼女を部屋まで招き入れた。

 開口一番はこうである。


「昨日はどうだった? 一条さんにキスされなかった?」

「キスですか? うーん、確かにされましたが……」


 岬は少し対応に迷った。この問いは予想できたことだが、その回答は今まで用意できていなかったのだ。

 左右の三つ編みを傾げながら応じる。


「正直、何ということもなかったですね。これしきのことであれば、百回だってされても平気ですね」


 何ともなかったのも平気だったのも嘘である。もし事実であれば、発情して和佐の唇や耳を執拗に責め立てたりはしなかっただろう。むろん、そのような内情は白衣の寮母にはおくびにも出さない。


 シスターは呆気にとられていた。嫌がらせのキスをやり過ごしてくれたのだから安堵すべきなのだろうが、あまりにも反応があっさりし過ぎていたため、かえって不安をおぼえてしまったのだ。

 逆に真顔でたしなめる事態となった。


「……あなたがこの一夜を乗り越えてくれたことは感謝するわ。だけど、その感想はくれぐれもあなたの胸の内だけに留めておきなさい。同性どうしとはいえ、それを聞いてあなたのことをよく思わない子も出てくるでしょうから」

「心得ました。……昨日の一条さんとのやり取りを経て感じましたが、やはりこのまま行けば将来に差し障るような気がしてならないんです。今後どうなるかはわかりませんが、彼女のこの先の憂いを断つためにも、引き続きあたしがルームメイトを……」

「またしてもシスターのことを欺くつもり? 私の容姿にしか興味がないくせに」


 岬の言葉をさえぎり、玄関から一条和佐がうんざりした様子で現れる。

 彼女はネグリジェから私服に着替えていた。


 私服姿のルームメイトを見た岬は、またしても彼女に時の魔女としての側面を見いださずにはいられなかった。


 純白のシルクのブラウスに、ふくらはぎの上半分を覆う丈の濃紫色のハイウエストスカート。スカートの裾からは黒色のタイツに包まれた脚をのぞかせる。全体的な飾り気で言うなら、むしろそっけないくらいであったが、その瀟洒さがかえって岬の心を騒がせた。思わず喉が鳴ったほどである。

 陶然している岬に構わず、和佐はシスター蒼山に冴え冴えとした視線を送っている。


「シスター、今からこの娘の化けの皮を剥いでやるわ」


 白髪の美少女の語る昨夜の顛末はシスター蒼山をさすがに絶句させた。だが、寮母の反応を和佐は不服に感じていた。彼女が望んだものはシスターが変態淑女の編入生に幻滅し、ルームメイトの解消のために動いてもらうことだった。だが実際は、強い驚きは与えられたものの、そこまで深刻な不快感までにはいたっていないようである。


「本当なの? 上野さん」


 まじまじと見つめられ、誤魔化しの無益さをさとった岬は寮母に対して素直に頭を下げた。


「……騙すような真似をしてすみませんでした。本当のことを言ってしまったら、ルームメイトにしてくださらなかったと思いまして……」

「可能性はあったわね。でもね、実は上野さんにその気があるってことを会ったときから薄々感づいていたのよ」

「えっ、本当ですか?」


 驚いた様子で顔を上げる。


「だって上野さん、昨日キスの話をしたとき恥じらう素振りを一切見せなかったでしょう?」

「あ…………」


 完全に油断した。

 確かにウブな乙女なら、キスの話を聞いたら顔を赤くして慌てふためくものであろう。シスターの前では完璧に擬態したつもりであったが、まだまだ甘かったらしい。


 だが、なぜだが岬は胸のすく思いをした。持ち前の頭の切れで相手を言いくるめたことは多々あったが、ここまで綺麗にしてやられたのが新鮮だったのである。

 その編入生とは裏腹に、据わった目つきになったのは和佐のほうだった。


「……シスター、あなたはこの編入生の性癖を察したうえで彼女を私の部屋まで連れてきたというのかしら」

「あなたは見抜けなかったというのね、一条さん」


 えぐるような反撃であった。和佐はぐっと押し黙り、寮母と編入生に憎悪をたぎらせた灰色の視線を向けている。

 シスターは岬に向き直った。


「上野さん、あなたが襲いかかったのは、あくまで一条さんのキスに対する報復、あるいは掣肘せいちゅうと考えていいわけね?」

「はい」

「一条さんがキスをしない限り、あなたは彼女に手を出すことはない……そう解釈して構わないわけね?」

「もちろんです」


 楚々としたポーカーフェイスで岬はこの場を切り抜けることにした。

 断腸の思いではあったが、さすがにここで本心をぶちまけるわけにはいかなかったのである。


 初老の寮母はまばたきせずに岬の態度を検分した。編入生の本心を見抜いたかどうかは不明だが、やがて表情に現れたのは苦笑である。


「……文字通りの老婆心で言わせてもらうけど、いくら一条さんの素行に問題があるからといって、あなたが彼女に好き放題振る舞っていいという理屈にはならないのよ? もちろん、一方的に彼女にしてやられて泣きを見ろと言う気もないけれど。まあ、上野さんならそのくらいのさじ加減はうまくやってくれるでしょう」

「はい、お任せください」

「いいわ。自分の嗜好で他人に迷惑かけないと誓えるなら、昨夜起こったことは目をつむってあげる。引き続き、一条さんのルームメイトとしてすべきことを果たしなさい」

「この女のすべきことって何よ!」


 和佐が吠える。ルームメイトを追い返す算段が潰えてすっかりおかんむりのご様子だ。


「こんなあばずれ娘と同居していたら貞操がいくらあっても足りないわよ! 手遅れな事態になったらどう責任を取ってくれるのよ⁉︎」


 聞いていた岬は、白髪のルームメイトの印象を変えることにした。人嫌い以前に彼女はわがままで他人任せだ。ある意味お嬢様らしい驕慢さと言えなくもないが、これでは嫌がらせのキスがなくともルームメイトの定着は苦労することであろう。

 シスターは、その驕慢なお嬢様に語りかけた。


「前々からずっとだけど、あなたは内心で周りの生徒のことを見下しているでしょう。編入生の彼女も含めて」

「それが何だと言うの」

「本人の前で否定もしないとはね……。仮に上野さんがあなたより下だとして、その彼女を追い出すために他人の手を借りなければならないとはどういうつもり? 自分の知性を自負したいのならば、せめて私を介さずに自分自身の力で上野さんと話をつけてご覧なさいな」


 聞いていて岬は感心した。白衣の寮母は白髪の少女の気性を熟知しており、それを利用した誘導が鮮やかだった。

 和佐はもくもくと闘気をわだかまらせ、うなるように応じた。


「……いいわよ。やってみせようじゃない」

「あらあら、勇ましいわね。だけど今は上野さんのルームメイトなわけだから、お洗濯のやり方だけはきちんと教えておきなさいね」

「おせんたく……」


 先ほどの熱気が嘘のように、和佐は虚ろげにシスターの言葉を反芻はんすうする。


「ええ、そうよ。この寮は大所帯だからね。一人に一個の洗濯機なんて贅沢、できるはずないじゃない。ルームメイトと話し合って当番を決め、相手のと一緒に洗うのが洗濯室のルールだということを忘れたの?」


 和佐の反応を見る限り、忘れたというよりそもそも意識していなかったに違いない。なにぶん今までルームメイトがいなかったわけだから。だが、それはすでに過去のものとなってしまった。


 和佐のかんばせが悪寒に染まった。

 肌に通したものをただ触られるだけならまだましというものだ。だがなにぶん、相手は花も逃げ出す変態淑女の編入生である。その実績は、昨夜のうちに明かされたばかりだ。


 変態淑女に自分の脱いだものを預けなければならないという屈辱に、和佐の顔色は白から青に変化して、最後に発火したような赤になると、その変態のルームメイトに対して挑戦的な言葉を投げかけたのであった。


「私は決して、あなたをルームメイトとは認めないわ」


 そして岬と寮母に背を向けて部屋から出て行ってしまったのである。

 シスター蒼山の制止の声はあからさまに無視され、二人きりになると同じ口から溜息が漏れ出た。


「……私も甘くなったものだわ」

「一条さん、一体どちらへ向かわれたのでしょう?」


 宣戦布告と敵前逃亡を同時に果たしたルームメイトを憂う岬に、寮母は白いヴェールを振ってみせた。


「この学校に身を隠すところなどいくらでもあるわ。どうせ敷地から出ることはないでしょうし、いずれ戻ってくるだろうから安心なさい」

「は、はい……」

「こうなってしまった以上、上野さんには先に学校案内を受けたほうが良さそうね。担当者に会わせてあげるわ」


 こうして一条和佐が寮部屋を飛び出した五分後、岬とシスター蒼山も三号棟の217号室を後にしたのだった。


 日の差した廊下にはすでに起き上がった寮生たちがたむろしている。

 談笑をしていた少女たちも白い修道服を見て一礼し、岬もシスターにならって生徒たちに丁寧に頭を下げた。見知らぬ編入生に彼女たちは戸惑いを隠せずにいたが、感触としては悪くない。


 挨拶をしつつ、寮母は誰かを目で追っていた。そしてある人物を発見して、すかさず声をかける。

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