4★.嫌がらせのキス
冷たい感触より凍てついた声が、岬の耳に注がれた。
「ふしだらだけでなく、生意気な口でもあるのね。たかが編入生ごときに私に意見しないで」
岬の背筋が震える。それは恐怖というより、危うさを秘めた恍惚に近い感覚だった。
「ここはあなたの部屋じゃない。さっさと出て行って。さもないと……」
「ど、どうなるんです?」
「とぼけるつもり? それとも本気で察しが悪いのかしら」
岬の顔に当惑と怯えの影が降り立った。白髪の少女が心地よく嫌がらせのキスを執り行ってもらうために、哀れな
「私のことは忘れなさい。恨むなら、生贄として連れてきたあのシスターと、それにのこのこついてきたあなた自身だけにすることね」
「な、何をするの……?」
瞳と声が揺らぐ。かりそめの動揺ではあるが、それなりの迫真はあるように思われた。少なくとも、白髪の少女に自身の優位性を錯覚させるには十分である。
震えながらの岬の問いに和佐は応じた。口で。だがそれは言葉ではなかった。
白髪の乙女はさらに顔を近づけ、編入生の『ふしだらで生意気な口』を自身の艶やかな唇で塞いだのである。
唇どうしの接触は一瞬だが、それだけで岬の反応は一気に変わった。頬に当てられた手を振り払い、顔に衝撃と嫌悪を浮かべながら後方によろめく。
「ねえ、ほんとに何をするの⁉」
「あなたこそ、この期に及んで何を言っているの」
青ざめる岬とは裏腹に、和佐の口調はそっけない。
岬は背後の壁に追い詰められ、白髪少女がゆっくりと迫ってくる。
「やだっ、やめて、はなして……っ!」
乱暴に両肩を掴まれ、岬は恐怖に耐えきれずにわめいた。
嫌がる編入生に、和佐は無情に言い放つ。
「違うでしょう。あなたが言うべきは、今すぐこの部屋から出ます、あなたのルームメイトは諦めます、それだけよ。……いや、わざわざ言う必要もないわ。意思表示だけなら首を縦に振れば済む話なのだから」
岬はこれ以上言い返さず、反射的にプルーン色の瞳を閉ざした。
逃げ出すくらいなら、嫌がらせを受けてでもルームメイトに留まるほうがましと判断したのだろう。シスターの期待を裏切るわけにもいかないと思っているのかもしれない。
健気なこと、と和佐は内心で皮肉り、怯える少女を見据えた。
「……なるほど、それがあなたの覚悟なの」
そっちが意地でもルームメイトであり続けたいのなら、その選択を後悔させるまでである。
そう心に決めると、白髪少女は目を閉じた来訪者に再び顔を接近させた。
「んううッ」
二度目のキスが行われた。
岬の全身に痙攣がはしる。一度目とは比べ物にならない快感が、少女の神経にさざなみを立てた。白髪少女の息遣いと唇の動きが、触感を通じてはっきりとわかる。
「くちゅ……ちゅぱっ、あむ、ちゅぷ……」
淫猥な水音が鼓膜を打つ。岬が鳴らしたものではない。被害者であり続けるためには、唇の主導権はまだ和佐に握っていてもらう必要があったのだ。彼女のキスは、清雅な容姿に似合わない、とんでもなく貪欲なものだった。
愛情に基づいたキスではないから、初めからむさぼるように唇を重ねてくるのは合理的といえるかもしれない。だが、臆面もなくそれを実行に移せる人は少ないだろう。白髪乙女の行動力に、岬は素直に驚嘆した。
「んううぅぅッ⁉︎」
瞬間、岬の口腔に柔らかく湿ったものが滑り込んだ。舌だ。白髪のお嬢様は色艶の良い舌をうごめかし、編入生の少女の心を内側から舐め溶かそうと試みたのだった。
岬の背筋に官能が突き抜けた。危うく芝居を演じたことも忘れそうになったほどだ。脳天がしびれ、寝間着に包まれた手足が同時にひくつく。
「ぷは……ッ」
ようやく和佐は唇を引き離してくれた。あれだけ情熱的な口づけをこなしたにも関わらず、両眼には冷ややかな理性が保たれたままであった。扇情的な接吻も、彼女には邪魔者を追い出すための一行為に過ぎないのだろう。編入生の少女にかける言葉には無情の響きがあった。
「呆けていいなんて、誰が許したかしら」
灰色の瞳が剣呑なきらめきを見せた。
次の瞬間である。
何の前触れもなく照明が落ちる。
和佐も岬も一瞬にして、お互いの視界から姿を消すこととなった。
岬は寮母の言葉を思い出した。日が変わると消灯される。どうやらシンデレラの魔法の解ける時間が来たようであった。
寮部屋のカーテンは閉め切られていなかったため、やがて月明かりで、二人は相手の姿をとらえることができた。和佐の目が編入生の黒髪をとらえたとき、その髪が勢いよくひるがえったのが見えた。
「きゃっ……!」
このとき悲鳴を上げたのは和佐のほうだった。
いきなり両肩を掴まれ、次の瞬間、今度は自分が壁際に追いやられたことに気づく。
ネグリジェに包まれた背中からどっと冷や汗が噴き出た。
襲いかかった人物が何者か、考えるまでもなく一人しかあり得ない。
だが、それでも和佐には信じられなかった。その相手は、つい先ほどまで熱情的なキスで肉体も精神もとろけさせたはずではなかったか。
灰色の瞳に映ったのは先ほどまで背を向けていた寮部屋の内装であり、その中央をくり抜くように編入生の少女がたたずんでいる。
彼女は顔の半分を月明かりに照らしており、可憐なかんばせに魔性めいた一面を付け加えていた。
「呆けてなかったら、何を許してくださるんです?」
「…………」
「あたしの演技、いかがでした? 正直ちょっと自信なかったんですが、一条さんが気持ちよく乗ってくださって嬉しいです」
和佐は答えない。まだ衝撃から立ち直れない様子で全身を震わせていると、編入生の少女が寝間着に包まれた胸を押し当ててきた。白髪少女には負けるが、なかなかに量感と弾力に富んだ胸だ。
頬を上気させる和佐に、さらに顔を近づけた岬がきわめて魅力的な微笑みで告げた。
「あたしのことを追い出したいなら、せめてこれくらいはしていただきませんと」
心臓の表皮をナイフで削がれたような恐怖が這い寄り、その恐怖が立ち消えぬまま、和佐は先ほど唇を奪った少女に、今度は唇を奪われてしまったのであった。
「ンあ……ッ!」
真正面から唇を押し当てられて、和佐の表情にスイッチが入った。嫌がらせのキスをしたときでさえ変化の乏しかったかんばせが、暗がりでもわかるくらい赤く染まっている。
岬は和佐の嫌がらせのキスと同じことをして、唇を離したとき、ぜえぜえと喘ぐ少女に向かってわざとらしく上唇を舐める動作を示した。
「そうです。それでいいんです……。この程度で屈してしまったら、今まであなた自身が培ってきたプライドに対して申し訳ないじゃないですか」
今度のキスはさらに過激だった。唇だけでなく、胸どうしで激しくキスをしているという有様だ。
岬が腰を振り、生々しく二人の胸がせめぎ合う。熱く湿った唇からは苦しさと色っぽさが混在した吐息が互いの顔の皮膚を撫でつけた。
「えへへ、今度はこちらでどうでしょう?」
少し声にとろみが入っているが、変態淑女の編入生はまだまだ余裕だ。
そして、次の彼女の責めによって、辛うじて保っていた和佐の冷静さが残らず吹き飛んだのであった。
岬の顔が白髪少女の耳元に移り、その部分を愛おしげに甘噛みしたのである。
こそばゆさだけに留まらず、わざとらしく立てられた水音が、鼓膜を直接、筆先でもてあそぶかのようだった。嫌がらせのキスしか知らなかった和佐にとって未知の感覚である。
「あぁ……ああっ……!」
和佐はついに立っていられず、壁に手をつけ、そのままずるずると床に座り込んでしまった。
秀麗な少女にあるまじき醜態を、プルーン色の瞳がしかととらえている。
「へたり込んでるところ申し訳ありませんが、一連の行為はあたしにとってまだ自己紹介の段階ですらないんです。幕が上がれば、一条さんの身体なんて打ち上げられたくらげのごとく、かぴかぴです」
和佐は顔を上げず、ただひたすらに息を荒げていた。
ふつふつと怒りが沸き起こった。自分がとんだ道化を演じていたことを、ようやく理解したのであった。
意気揚々と嫌がらせのキスをしたとき、この娘は怯えきった表情の裏でほくそ笑み、反撃の機会を虎視眈々と狙っていたというわけか。
見下していた編入生にもてあそばれたと知ったときの和佐の憎悪はすさまじかった。その怒りの一部は、自分自身にも向けられていた。編入生の罠に、自分から乗り込んでしまったのだ。知的少女の
屈辱で目がくらむ思いをしながら、和佐は唾液で濡れた口を拭い、編入生の少女に毒々しい声を吐き出した。
「消えて」
短い拒絶の言葉は、相手の恐怖心に届く前に弾かれてしまった。
「えへへ、それは無理な相談です〜。寮母さんにあなたのルームメイトになってくれと託されてますから」
「あなたは私だけでなく、シスターのことまで欺いていたということね。あなたの変態的嗜好を知っていれば、いくら彼女でもここまで平静でいられるはずがない……」
「まさか、あたしの性癖を寮母さんにばらす気ですか?」
岬の表情に一瞬焦りがよぎる。
隙が見えた、という和佐のかすかな希望は、先ほど騙された経験から疑惑へと転じてしまった。焦った表情さえ、こちらを釣り出す罠かもしれないではないか。
絶望的な表情で白髪を押さえて立ち上がると、黒髪の編入生が嫌味なくらい爽やかな笑みを浮かべて言う。
「まあ、もしばらすようなことがあれば、それはそれで対応いたしますので。とにかく長旅で疲れてますので、あたしのベッドの場所を教えてください」
和佐はきつく唇を噛みしめた。
出会ったばかりの変態淑女に操を奪われるなどたまったものではない。だが、この変態淑女にかなう方法を、白髪少女は咄嗟に思いつくことができなかった。最善と思われた手段は、最悪のかたちで叩き潰されてしまったのであった。
灰の視線をベッドに向け、声を絞り出す。
「……手前のベッドが空いているわ」
言いながら、和佐は自分が泣くのではないかと思った。
シスター相手に言い負かされるならまだしも、こんなへらへらとした同い年の編入生に終始主導権を握らされていたなど、許しがたい恥辱である。今まで生きてきた中で、これほど惨めな敗北もなかった。
その敗北感に塩を塗りつけるかのように、岬の笑顔が暗がりの中できらめいている。
「えへへ、ありがとう。どうかこれからもよろしくお願いいたしますね、一条さん♪」
可愛げしかない岬の笑みも言葉も、和佐にとっては反骨の材料にしかならない。
いそいそとベッドに入って寝息を立てる編入生に殺意に等しい一瞥をぶつけると、和佐はカーテンを閉め、ルームメイトになってしまった少女を最大級に警戒しながら毛布をかぶった。
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