2.編入生・上野岬

 上野岬がボストンバッグを担いで聖黎女学園に訪れたのは四月四日の午後十時半過ぎのことだった。この日彼女は、遠方からの移動中にトラブルに見舞われ、到着が大幅に遅れてしまったのである。


「あなたが編入生さんね? 初めまして、三号棟の寮母を担当するシスター蒼山と申します」


 守衛から連絡を受けて、白い修道服とヴェールに包まれた初老の女性が正門前にやってきた。シスター蒼山は遅れてやってきた岬に対して「よく来てくれましたね」と安堵といたわりの言葉を投げかけてくれた。長時間の移動を強いられた岬にとって染み渡るような言葉だ。おかげで寮部屋に着くまでもうひと踏ん張りできそうである。ボストンバッグを抱え直し、ぴんと背筋を伸ばした。


 聖黎女学園の寮は本棟と、そこから繋がる四つの寮棟から成り立っていた。まず岬が通されたのは本棟の「談話室」のプレートの付いた扉であり、ボストンバッグを脇に置くと革張りのソファーに身体を落ち着け、白い修道服の寮母と向かい合った。


「こんな夜間に悪いけれど、入寮してきた生徒にはいちおう全員とお話することにしているの。あ、面接じゃないから肩の力は抜いてね」


 実際、肩の力を入れる必要のない質問ばかりだった。春休みは何をしていたの、この学園でどんなことをやりたいのなどといった問いに岬は自分なりの回答を示したが、ふいにシスターの表情があらたまったものに変わる。


「それで、次の質問なのだけれど……」

「はい」

「これから聞くことはデリケートな部分がかなりあるわ。だから答えたくないなら黙ってくれても構わないから」


 ずいぶんな念の入れようである。小首を傾げながら岬が二回目の「はい」を口にすると、穏やかな風貌のシスターはこんなことを言い出した。


「上野さん、あなたは女の子にキスされても平気?」

「……はい?」


 三回目の「はい」はかなり懐疑的な響きをもって発せられた。プルーンのような色合いの瞳が見開かれ、どういうことかと無言で訴えかけている。


「……そうよね。いきなりこんなこと言われても戸惑っちゃうわよね」


 恐縮しつつも、シスターはあらかじめ準備したと思われる一枚の写真をテーブルの上に置いた。制服姿の女子生徒で、うなじにかかる白髪と光沢のある灰色の瞳が、編入生の少女に鮮烈な驚きを与えた。


「彼女がルームメイトになる一条和佐さんよ」

「あまりキスをしたがるようには見えませんね?」


 正直な感想だった。人形めいた美しさを秘めた少女は、その容姿ゆえに浮世離れした印象を強く与えたが、理知的なかんばせは接吻の二文字とは縁遠いように感じられた。


「そうね……。一条さんがキスをしたのは三年前の一度きりのはずだから」

「どういうことです?」

「彼女は三年前、嫌がらせのキスでルームメイトを追い返したのよ」


 事件は今と同じ、入寮期間中の夜に起こった。寮母は初等科の教員から和佐の人嫌いの性格を聞いており、彼女の内情に配慮し、特異な容貌を気にしなさそうな少女をルームメイトとして据えたのだった。


 だが、その結果といえば。


 同室した最初の夜、ルームメイトの少女は寮母に泣きついた。話によれば彼女は白髪のルームメイトに無理やり押し倒されて唇を重ねられ、しまいには冷ややかな声で「出て行って」と宣告されたのだという。翌朝、シスターは二人を呼び出して話し合いの場を設け、短い論争のすえ、最終的にはルームメイト解消の判断を下すしかなかったそうである。


「……私たちも油断していたわ。最初からすべてが丸く収まるとは思っていなかったけど、まさかこのような手段に出るなんて思いもよらなかったもの」

「それにしても、なぜキスだったんでしょう? 部屋を追い出すなら、他にも方法はあったでしょうに……」

「一条さんは良家の生まれだからね。物理的な暴力を振るうのは避けるよう躾けられているのではないかしら? まあ、相手に深いトラウマを負わせたという点では大して変わらないと思うけれど」


 溜息を吐いてみせたが、そんな問題児とルームメイトになるよう寮母は勧めているのである。

 疑いを込めた眼差しで、岬はシスターを見つめた。


「……もし、あたしがお断りした場合、一条さんはどうなってしまうんです?」

「どうもならない、そのままよ。あなたは新しい学園生活を謳歌すればいいし、一条さんは普段と変わらずふさぎ込んだ生き方をして、そしてそのまま卒業することになる」

「…………」

「一条さんは頭も良いし、決して口には出さないけど、高い目標があるように思えるのよね。でも、人との交流を果たせなければどんな夢であっても叶えることは難しい……。崇高な理想を抱いているのであらばなおさらよ。目標を達成させるためには理不尽な人間関係も避けられないし、逃げてばかりではそれが癖になってしまう。一条さんにはお節介と言われそうだけれど、私は彼女につまらない人間になってほしくないのよ」


 真剣で深刻な寮母の表情を受け、岬はプルーン色の視線を改めて写真に写った少女に移した。


 髪と瞳の色には驚かされたが、少なくとも美しさと知性については汚点をうかがわせる部分はまったくない。実際、この白髪の美少女は成績自体は非常に優秀らしく、論文大会にでも出れば賞を総なめすると言われるほどだとか。目立つのが嫌いだから彼女は辞退しているらしいが、ともあれ、この少女に輝かしい道を歩ませたいというシスターの気持ちが岬には納得できた。


「もちろん、彼女とルームメイトになるかどうかは上野さんの判断しだいよ。向かないと判断したら拒否してくれても構わない。過去の編入生にも同じ質問をして全員にられてきたわけだからね。でも、私は本心ではあなたにルームメイトになってくれればと思っている。正直なところ、あなたは今まで来た子たちとは違う雰囲気を感じるから……」


 いつの間にか身を乗り出していたことに気づいたシスターは、息を吐いてソファーに深々と座り直す。


「……まあ、キスのことも考えると十分に悩ましい問題でしょうね。でも、それを黙ってあなたを一条さんのもとへ送り届けるわけにはいかなかったから」

「まあ、それはそうでしょうね」


 それから写真を前にして岬は深く沈黙していたが、やがて顔を上げてシスターに対して頷いてみせた。


「……わかりました。ルームメイトの件、お引き受けいたしましょう」


 少女の返答に白衣のシスターは胸を撫で下ろしたが、彼女に対して念を押すことは忘れなかった。


「ありがとう。でも、本当にいいのね? 頼んでおいて言うのもあれだけど、部屋に入ればもれなく一条さんにキスされることになるのよ?」

「キスについてはわかりません。正直、同性どうしで口づけを交わすなんて、考えたこともなかったですから……」


 少女の顔に逡巡しゅんじゅんがはしるが、それも一瞬で払われた。


「ですが、それ以上にあたしは一条さんの将来のほうが気がかりです。あたしも、彼女にお粗末な未来を歩んでほしくないから……。あたしが彼女の支えになれるなら、喜んで力を貸してあげたいと思ってます」


 岬の真摯な表情に、シスターはますます相好を崩した。


「そう言ってくれるとこれほど頼りになることはないわ。編入そうそう、お手数をかけてしまうけどいいかしら?」

「もちろんです」


 こうして話がまとまり、それからシスターはルームメイトに会う前にシャワーを浴びたらいかがかしらと提案した。寮の入浴時間はとっくに過ぎているが、岬が遅れてやってくるとの連絡を受けてシャワーブースだけ特別に解放したのだという。


 長旅による見えない汗と垢にまみれた岬は喜んでその申し出を受け入れた。


 談話室を出ると、編入生の少女はさっそく脱衣所におもむき、衣類をすべて脱ぎ捨てて、左右の三つ編みをはらりと流した。一糸纏わぬ岬の肢体は程よく肉がついており、白い柔肌は健康的に張っている。黒髪も腰までまっすぐ流したことで、三つ編みの時とはずいぶんと印象が異なって見える。


 脱衣所は大浴場とシャワーブースにつながっていた。衣類を籐籠(とうかご)にしまった岬は個室に向かい、内側から扉に鍵をかけた瞬間、恐ろしく不穏な笑い声を立てた。


「ふふ……ふふふ……」


 少女の体躯は熱湯を浴びる前からほてり出していた。そして、可憐な頭の中では蛍光ピンク色の妄想が一秒ごとに膨れ上がっていく。


(まさか、あんな素敵な子にキスされるなんてっ……!)


 岬は自分の胸の前で両拳を握りしめた。


 実は、シスターがキスの話題と一条和佐の写真を出した時点で、岬は「喜んで!」と即答したい衝動に必死に耐えていたのだった。あえて回答を渋ってみせたのは、さすがに会ったばかりの寮母にはしたない娘と思われたくなかったからである。


 同年代の少女の容姿を見て愉しみ、触れて悦ぶことが、清楚に見える編入生、上野岬の無上の趣味であった。さすがにその気のない相手の唇を強引に奪うような真似はしないが、向こうから嫌がらせのキスをしかけるというのであればやむを得まい。熱烈の歓迎にはきちんと応えてあげるのが礼儀というものである……。


 そう都合よく自分に言い聞かせながら、これから会うルームメイトのために、岬は自身のみずみずしい肢体を隅から隅まで丁寧に洗い清めたのであった。

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