Karma04:無明を照らせ(3)
廃ビルの屋上はやはり風が強かった。第八都市ほど熱っぽいものではないのが救いだ。からりとした晴天で、落下防止用の柵越しに辺りを一望できる。魔女が現れればすぐ目に留まるだろうし、見張りには最適の場所だったが、眺めは当然よくない。ところどころ瓦礫と化した建物を見ていたらしいフローズは、すぐに背後のユーリスに気付いて安堵の表情を浮かべた。
「体調はどう? 今回は人手もあるし、あまり無理しないでね」
「もう殆ど元通りだから平気だよ。……そういえば、あの二人は?」
ユーリスはふとした疑問を投げかける。シリウスとロキ――ロキは「プロキオン」という名の愛称らしい――も同じように護衛任務に就いたものだと思い込んでいたが、道中でも市街でも二人の姿は見当たらなかった。
「彼らなら、上層から第一都市の警備を命じられて今朝発ったみたいよ。しばらくは帰らないでしょうね」
第一都市は地上随一の寒冷地であり機械化の進んだ街だと聞く。砂漠の後は凍土に飛ばされるとは何とも気の毒な話だ。自分たちと行動を共にしたことで、謂れなき中傷などを受けていなければいいのだが。
フローズはそれきり呆けたように眼下の街を見つめるのみになった。沈黙と共に秋らしくない風が二人の間を吹き抜けていく。フローズはいつもなら気を引き締め魔女の姿を探して空を注視しているのに、今日は心ここに在らずといった様子だ。どうもおかしい、とユーリスは窺うように声をかける。
「大丈夫か……?」
「……あなた、本当に……優しいのね、自分のことで精一杯なはずでしょう」
ちらとユーリスを一瞥して弱々しく微笑む彼女は、またすぐに視線を街に戻す。
「私が図書館であなたにそう声をかけた時、大丈夫じゃないって、そう言ってた。きっとあなたは、私が思ってるほど強い人ではないのよ。それは何も悪いことなんかじゃないけれど」
俯き何度か目を瞬いたフローズは大きく息を吸って、吐く。どこからか白い鳥が現れて、少しの羽音を残し去っていく。
「……何人死んでしまったのかしら。怖かったでしょう、痛かったでしょう。大切な人の無事を願ったかも知れない、殺されるのを見てしまったかも知れない。その痛みや苦しみ、憎しみ、無力さを考えると、いつも押し潰されそうになるの」
壊れた街、壊された生活。それらを一心に見つめながら、彼女は絞りだすような声で続けた。
「お母様が殺された時もそうだった。苦しくて、悔しくて……私のせいで死んでしまった。私が魔女を庇ったせいで、上手く人間を演じられなかったせいで……私の大好きな人を救うことも、その死を泣いて悲しむこともできなかった。お母様とヴィトと暮らせる日が永遠に続くと信じてたのに……」
上手く人間を演じられなかった。魔女の全てを否定し、この世から排除すべき存在だと唱えることができない異端。それを暴かれた日から彼女の人生は一変したのだ。ユーリスにとっても他人事ではない。フローズに自分の思想を伝えたことはなかったが、きっと彼女はユーリスに自身と同じものを感じているからこそ、ここまで心を開いてくれているのだろうと思う。
「あなたと初めて会ったのは教会でだったわね。私の元パートナーの葬儀でもあった、あの日……彼の遺体の状態のこと、聞いた?」
「あ、ああ、聞いただけだけど確か――頭が潰されてたって。……どうしてそんな話を」
なぜ、今するのか。考えを巡らせるより先に、フローズはユーリスの目をじっと見つめて。決心というより、諦めがついたかのような色を、その氷のような凍てつく瞳に宿して。
「あれ、私がやったの」
あまりに唐突だった。頭の中でその事実を理解しても、心が動くまでに長い時間がかかるほど。
「私が潰した。頭蓋って案外脆いのよ。踏めば簡単に割れたわ」
追いつかない思考が邪魔をしても、フローズの今にも泣き出しそうな表情だけはユーリスの心を締め付けた。彼女の唇が震えるのを見ていられなかった。見えない何かに押し潰されてしまわないようにと、彼女の心は彼女自身を守るかのように堰を切って、溢れ出る。
「本当は知ってるの……彼らは自分の身を守るためにわざと私を傷つける。私の仲間じゃないと周囲に知らしめるためにそうしている。でも、それでも……あいつは私の、人間としての尊厳を踏み躙った。王族の地位なんてどうだっていい、それ以前に私は人間なの。地上の姫じゃない、魔女の娘じゃない、人間なのよ。なのに、顔を合わせる度に酷いことを言われた、歩く度に辱められた、息をすることすら許してくれなかった。一つぐらいは好きになれるところがあるかもって、頑張って頑張って、そう信じてたのに……この世界の人間は皆そう。あなたも見たでしょう、私の顔を見た瞬間に、皆が私を否定する。この腐りきった世界でどれだけつらくても生きる可哀想で自分よりも劣った、憐れで惨めで気持ちの悪くて、もし殺したとしても何の業も背負わないと確信できる存在に、寄ってたかって石を投げるの……!」
この崩れ落ちた景色が、彼女を苦しめるのだろう。様々なものが奪われたという事実を形作る街を目にする度に、この世界から逃げられないことを思い知る。自分に石を投げたあの親子も、頬を打った兄も、我が子とも思ってくれない父も、同じ人間として見てくれなかった元相棒も、母を糾弾し殺した地上の国民も、全てが現実だ。いっそ悪い夢であってくれと願うほどの。たった十四歳の女の子が生きるにはあまりにも重すぎる、過酷で冷徹な世界。
「信じても信じても裏切られる。頑張ってみたって誰も答えてくれない。幸せを積み重ねても踏み躙られる時は一瞬よ。……こんな荒れた景色を見ていると、死んでいった人たちのことを考えてしまって、胸が苦しくなっていつも泣いてしまう。でも私は、みんな私と同じように苦しんで、死んでしまえばいいと思ってしまう! 私を、ヴィトを、お母様を虐げたこいつらには似合いの最期だって、いいざまだって思ってしまうの!」
彼女は吠えた。ユーリスにだって見えていたのだ。フローズに差し向けられる誹りを、赤く腫れた頬を、投げられた石で傷ついた額を、流れ落ちる血を。
柵を小さな両手で握りしめる彼女は、やがてそのまま蹲み込んでしまう。
「分かってる、分かってるのよ、全て私が引き起こしたこと、私が望んだこと。それをこの世界では因果応報と呼ぶの。でも、それでも……私の小さな復讐ぐらい許してくれたっていいじゃない。だって私がやらなきゃ、苦しんで悲しんでずっと耐えてきて、それでも報われなかった過去の私を、誰が助けてくれるのよ」
真の救いは己の内側に――決壊した激情で、抑えきれない衝動で、相棒にとどめを刺してしまったのだろう。自分を守りたい、救いたいその一心で。
ユーリスはその告白を聞いてもなお、彼女を責める気など更々起きなかった。彼女は自分と同じで、強い人間ではないと知ってしまった。その弱さを埋めるように仮面を被って懸命に生きている、過ちは正そうと尽力する、彼女自身の正義のもとに生きる優しい人だ。
だって、彼女はあの葬儀で誰よりも長く、祈りを捧げていたじゃないか。
下手な慰めの言葉しか思いつかない自分が心底嫌になる。フローズはそんな同情など望んではいないとは分かっていたが。ようやく立ち上がった彼女は涙を拭って、頭を冷やしてくると足早に立ち去ろうとする途中で不意に立ち止まった。
「……私がもし道を踏み外しても、お母様と違う道を選んでしまっても、止めてくれなくたっていい。馬鹿な奴だって笑ってくれたっていい。あなたが優しい人だということはもう十二分に分かったわ。だからどうか……」
私みたいな人間が生きていたこと、忘れないで。
振り返りもせず震える声で呟いたフローズの危うさに、ユーリスは思わず慌てて着いて行こうとする。しかしその足はコンクリートに影ごと縫い付けられたように動かなくなってしまった。
一瞬、それは細長い雲だと思った。天高く、白い手のような無数の何かが、ゆっくりと降りてきていた。まるでフローズに救いの手を差し伸べるかのように。苦しみのない天上へ導こうとするかのように。
階下へのドアが閉まる硬質な音に我に返る。再び空を見上げると、白い手は幻であったかのように掻き消えていた。
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