Karma03:泥梨を這う獣たち(10)


「本当にね、あの頃はとても幸せだったの。私たちは人間に色々なものを与えたけれど、人間は私たちに色々なことを教えてくれた。一日に何度も顔を変える空のこと、心地いい音が決して止まない海のこと。太陽と月が追いかけっこをしているから、地上には光が溢れていること。世界はこんなに広かったんだって、途方もない年月を生きてきた私たちに教えてくれた」


 月を見上げまるで子供のように語るリュカオンの瞳は、月光を浴びてきらきらと輝いていた。瞳の中に星が生まれたような、そんな明緑の瞳。 

「だからね、あなたみたいに私と同じ夢を見続けてくれる人がいるのがすごく嬉しいの。あなたに会うまでは、進み続ける世界にたった一人取り残されている気がしてた。一人じゃなかったって思えたのは、あなたに出会えたから」

 リュカオンは静かに立ち上がって、部屋の壁際に置かれたサイドテーブルに手を伸ばした。彼女が今朝格闘していた古い音響機器――レコードプレイヤーというらしい――は何とか昔を思い出してくれたそうだ。

「過去は変えられないけれど、後悔することは悪いことじゃないと思う。最後に何か一つを選び取れるなら、何も無駄にはならないわ」

 ごそごそとプレイヤーを触る。その作業はてんで分からなかったが、針のようなものが円盤に下ろされた後、優美なピアノの旋律が流れ始めた

「ドビュッシー、ベルガマスク組曲、"月の光"。聞いたことはない?」

「……いいや、ないな」

「そう、とても有名なのに……この曲、弾いたことがあるの。懐かしいわ」

「ピアノが弾けるのか」

「ちょっとだけよ、本当に。ライラの方が上手でね……ええと、ごめんなさい……」

 リュカオンの嬉しそうな笑みはすぐに失笑に変わり、きまり悪そうに目を泳がせる。今や地下を裏切った彼女にとってはささやかな思い出話も心中複雑なものに転じてしまったのだろう。

「……ああ、そうだ、月は死者の国なんですって!」

 無理やり話題を変えようと手を合わせていたが、いやはやこれもどうかと……といったようにまた目を逸らす。合わせた手を傾けて力なく笑うリュカオンに、ユーリスも思わず笑みを零した。

「死者の国っていう割には、ずいぶん綺麗な場所なんだな」

「え、ええそうね! でも、太陽が当たるからここからは綺麗に見えるだけなのかしら。いざ月に立ったら案外つまらないところかもしれない」

 大昔に月に行った人もいたそうだが、と話すと、リュカオンは宇宙船なになに号のなになに飛行士が――と矢継ぎ早に返す。何百、もしくは何千年と生きてきた故の博識ぶりを、彼女は鼻にかけることもなく嬉々として語るのだった。


 穏やかな、透き通ったピアノの音色が心地よい。気が楽になってきたのか、単に麻痺してきただけなのかは分からないが少しずつ頭にかかったもやが晴れていく。リュカオンはまた夜空に浮かぶ円に目を向けて、そっと呟いた。

「本当に人も魔女も生まれ変わるのだとしたら、月になんて行く暇もないのかしら」

「綺麗だと思って遠くから見ているうちが、きっと一番幸せだよ」

 知らなくたっていいことがある。知ったところで何も出来ない、ただ見ているだけしか出来ないことが。でも知らないままでいるのはもっと嫌だった。

 そんなユーリスの胸中などよそに、リュカオンはまた思いついたように、されど神妙な語り口で。

「死者はまず月に行く、そして雨となって地に還り、植物に吸われたそれは穀物となってやがて生物の糧となり、自らが蘇るための生命を育む……そんな言い伝えがあるそうよ」


 満月の夜の晩は、この世とこの世から消えたもの――忘失との間に水が満ちて繋がりができる日。その夜には不思議な夢を見ることがあるの。失くし物の在り処が分かったり、忘れてしまった記憶を取り戻したり、死んでしまった大切な人と話せたり……少なくない人間や魔女がそんな夢を不意に見るんだって。


「今宵は満月……私も忘れてしまったことを思い出せるかもしれない」

 リュカオンのその言葉は、まるで独り言のようだった。

「光は止まないわ。だからどうか夢を見続けて。私たちは皆それぞれの理想のために生きている。これからきっと皆が色々なものを失うし、何かを捨てる選択をしなければならない。でも手放したものは無くなりはしない。無駄なものなんて一つもない。失われたようでいてすぐそこにあるの。月が欠けてもまた満ちて夜空に現れるように」


 その月に焦がれるようなやさしい顔を、生涯忘れることがない気さえした。ベッドに横たわったまま魅入るように彼女を見上げていると、急に目が合ってばつが悪くなる。

「……あなたの先生の受け売りだけどね。でもどうか、どれだけ苦しくても打ちのめされても希望を捨てないで。あなたの理想はきっといつか、この世界を救える。私はそう信じてるから」


 人も魔女も生き残る道。失くしたはずの幸福を取り戻すための道。その上にこれからどれだけの血が流れるのか。どうしたら辿り着けるのか、その先に何が待っているのか、答えは出ない。未来なんて分かりっこない。それでも最善を尽くしたい、最後に何かを選びとって、勝ち取りたい。


「矛盾してるのは俺が一番よく分かってる、でも……」

 決して消えない後悔を、贖えない罪を抱えてでも、足掻いて生きると決めたのだ。

「でもすごく、うん、いい音楽だと思う」


 気づけば小さく鼻で歌っていた。リュカオンもユーリスを真似て鼻歌を被せていて、ずっと星月浮かぶ天を見つめている。まどろみによって、満月、いよいよ満たされた水の中にゆくりと沈む間際、「おやすみなさい」と囁く声が聞こえた気がした。

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