Karma03:泥梨を這う獣たち(9)
ユーリスは故郷の教えから救済の神の存在を肯定こそしていたが、本当に神がいるのなら今の戦乱の世をどう説明するのかと、信仰者たちに問い正してみたかった。
だが神の存在、権能の是非よりも、明日を生きるか死ぬかを考えるほうが多くなっていく。人類も魔女もできる限りの犠牲を抑え戦争を終わらせて、スコールと共に故郷へ帰るというのは傲慢なのか。もう完全には取り戻せないあの日の平穏を追い求めるのを、唯一の救いと考えるのは愚かなのか、高望みなのか?
また今度奢るから、と遠回しに感謝を述べてくれたシリウスにも、生返事をしてしまったように思う。ロキは最後まで何かと気を使ってくれたし、フローズも終始かける言葉を探しているような顔つきだったので心苦しかった。
中央区の住処に転がり込むと、リュカオンは素っ頓狂な声を上げながらも慌てて体を支えてくれた。憔悴しきったひどい顔をしていたに違いない。大した怪我はしていないのを不審に思った彼女は、ユーリスの額に手を当てて余計に狼狽えていた。
「一体何があったの? ひどい熱……」
ユーリスをベッドに寝かせ濡れタオルを額に置いたリュカオンは、他に何をやるべきかと両の手を握っては緩めて、その顔は憂色を極めている。
高熱が瘴気のせいだとは分かっていた。身体中を襲う倦怠感や寒気なんてものより、ずっとずっと胸が痛かった。今まで縋り続けていたものが独善的夢想に過ぎなかったこと、一体何が正しいのか分からなくなってしまったこと。
「……俺があの時、王都になんて行っていなかったら」
声は惨めに震えている。もう、いっそ誰かに言ってしまおうと思って。
「あいつが一人で戦うこともなかった。一人で王都に連れて行かれることもなかった」
第二都市アシュバタ、エリア28。ニルヴァーナ一族の聖地『鎮めの地』。ユーリスとスコールは生まれついてから、村の奥深くの民家にて半ば監禁状態で育った。黒と灰の髪色、異常な身体能力。髪の染め粉さえ容易く落としてしまう特異な身体。ユーリスに至っては特殊な瞳のせいもあって、何としても人目を避ける必要があった。亜種だと、魔女と渡り合える存在だと知られれば王都に連れて行かれる。この頃には王都軍は既に世界各地の亜種を強制徴集していたのだから。
看護師だった母は元よりニルヴァーナに関わりがあったらしく、スコールとネメアの叔母――ユーリスが「先生」と慕う彼女の進言で、一族の者ではないユーリスも匿われた、という話だった。スコールの姉であるネメアと共に薬学を学んだり、時たまやってくる村の子供たちと一緒に、先生から昔話や外界の話を聞かされる日々を過ごす。同い年なはずの子供たちを置き去り成長する心身に、己がただの人ではないと思い知りながら。子供に似つかわしくない静かな少年時代。それでも幸せだったのに、ユーリスはたった一度だけ憧れを追ってしまった。
ユーリスが母と共に王都を訪れた日に、魔女が牙を剥いた。今日まで母の行方も知れなくなり何も出来なかったユーリスとは対照的に、スコールはたった一人で、家の物置の奥にしまわれていた東方の古い剣を握り故郷を守りきった。
得体の知れない民族の地。鎮めの地はそう忌み嫌われ人間がそう寄り付く場所ではなく、故に軍も監視の対象にしていなかった。だが流石に近隣に魔女が現れてしまえば話は違う。
誰も助けに来てくれない、万が一来たとしても手遅れになる。そう思い、だからこそ戦ったスコールの力を、一歩出遅れたが務めを果たしに来た軍が見逃すはずがなかった。ユーリスが騒ぎの終息と共にやっとのことで帰郷した時には、彼の姿はどこにもなく。そして、先生の姿もなかった。何故かは今も分かってはいないが、スコールが王都に連行された後、先生も連れて行かれたのだという。
しばらくぶりに顔を見るネメアにいつもの笑顔は当然なく、ただ弱く咽び泣いていたのが耳を
「みんなに内緒で、あいつと約束してたんだよ。もしどっちかが軍に連れて行かれたら、追いかけるからって。そうすれば寂しくないだろって」
所詮は子供の戯言だった。変化の連鎖を愚かにも信じていたからこその誓い。家族を奪われ、憔悴しきったネメアを放っていけなかった。ユーリスがこっそりと、隠してあった剣を手に取ったのを目にしたネメアが半狂乱でしがみついて来たのを未だに忘れられないのだ。置いていかないで、と喚く彼女に泣きながら謝ったことも。
白いカーテンの隙から月を見上げる。ベッド傍の椅子に座るリュカオンから顔を逸らすためだったのだが、ほんの僅かに欠けた眩しいまでの黄は、人を魅了してやまない。
「スコールを待ってる人がいるんだ。あいつが生きるのを願っていた人がいたんだ。俺にはもう、他に出来ることがない」
快活で無邪気だったネメアが痛々しくもすっかりと、無感情に変貌してしまったのを見て、いよいよ罪の意識が色濃くなった。もう一度剣を取った時、彼女は何も言わなかった。ただ一度弱々しく笑んだだけで、本当は何を思っていたのかは知る由もない。
すうと吸った空気が肺を痛めつけている気がした。リュカオンは横たわるユーリスの吐露を僅かも身動きせずじっと聞いている。
「あいつの理想に賛同できない。俺は先生の教えを捨てられない、捨てたくない。人間と魔女のどちらかがいなくなるまで、なんておかしい。みんな必死で生きてるんだ、生きていたいだけだったのに。たった一度の過ちがこんなに大きくなるなんて誰も思ってなかった、望んでいなかったはずじゃないか。だってそれまでは手を取り合って生きていたんだろう?」
リュカオンが、はっと襟を正したのが布の擦れる音で分かった。
「俺はそんな時代を知らない世代だ、だけど……例えこのまま魔女を殺し尽くしたとして、俺はきっと後悔すると思う。スコールの目指す世界が、魔女がいない世界が無性に恐ろしい。理由なんて俺にも分からないけど」
漠然とした寒心は日に日に膨らんできていた。天地がひっくり返ろうと今この時世では魔女は人類の敵なのだ。
「だからって人間を蔑ろになんてできない。このまま均衡を保つだなんて出来やしない。……どうしたらいいのか分からないんだ」
彼女たちの命を奪ってでも明日を生きるために戦わねばならないというのに、なぜここまで矛盾した心を抱えてしまうのか。幾年も思案を重ねても答えは出なかった。スコールが真の正義を振り払ったように、答えのでない問いに見切りをつけられたならどれほど楽になれるだろう。
「君はきっと俺の希望なんだと思う」
ふとリュカオンを見てそう呟くと、彼女は僅かに眉を上げて見つめ返してくる。
「君がいた過去の世界はとても優しくて、綺麗で、幸せだったんだろうなって夢見てるだけだよ」
「……なら、あなたも私の希望よ、ユーリス」
ふいに、誰もが目を瞠るような、あたたかな微笑みが降り注いだ。
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