Karma03:泥梨を這う獣たち(8)
「俺が言いたいことは分かるだろう。余程の馬鹿でなければな」
ゆっくりと顔をあげるスコールの瞳がぎらつく。王宮で見たあの狼の瞳。誰もが彼の出方を窺うように息を止めた。そして少しの沈黙を経て、スコールの口端がぎっと広げられた瞬間。
「なぜみすみす機を逃したのかと聞いているッ!」
身が竦むほどの怒号。それは吹き荒ぶ風、砂塵全てを撃ち落とすかのよう。怖気を押し殺し、咄嗟に何かを言おうと進み出ようとしたフローズを、前のプロキオンが腕を上げて制止した。
「悠長に話をしている暇があるなら奴らの首を掻くぐらいの真似をしろ、四人もいるなら魔女二匹ごとき恐るるに足らん相手のはずだ!」
「……魔女の進撃開始から一時間、奴らがそれ以上の攻撃を仕掛けてこない限りは追撃は禁じられてる。控えの第二陣のせいで大損害が出た前例を、仮にもあんたが忘れるわけがねえ。そうだろ
ロキは背に追った東方の刀――確か苗刀と呼ばれる代物だ――に手をかけながら諭すように、それでいて沈着に声を上げる。
「俺らは一時間きっちりで戦闘は切り上げた。奴らもそれ以上は仕掛けてこなかった。何ら問題はねえはずだ。むしろあんたの方が軍紀に反してる」
「上手く話を逸らしたつもりかプロキオン。もう一度聞く、貴様らは一体何をしていた?」
シリウスが一瞬片頬を引きつらせたのが見えた。スコールはそれを見据え怒気を緩めもせず続ける。
「貴様らの動向は通信機で把握している。なぜ四人で魔女を攻めず二手に分かれた? あんな廃墟に何の用がある、それは魔女を討つより重要なことか?」
「じゃあモノを野放しにしてもいいってわけ? あいつらのせいで何人死んだか数えられないってのに」
「猟犬女の話を聞いていなかったのか。魔女の襲撃は日に日に生温くなってきている。加減をしてやっている、その言葉通りだ。奴らは人間を根絶やしにするのが目的だ。だが今回の奴らは第二陣を投入こそすれ、ライラプスだけを寄越してすぐに撤退した。まともにやり合わずして勝つ算段が奴らにはある、近い内に何かを仕掛けてくると考えるのが自然だろう」
刀は未だ下されず、鋒は僅かも動かない。砂混じりの熱風がスコールの三つ編みを撫で続ける。
「その何かで王手をかける気だとしたら? 俺たちにはもう時間がない。回り道をしている暇などない、あんな機械はヘカテーさえ討ち取ればガラクタにすらならん」
「へえ、つまりは戦争が終わりさえすりゃあ、その過程でどれだけ死人が出ようがどうでもいいってわけ」
魔女の思惑を測るため、スコールはわざと戦闘許可時間に反し、リスクを無視して追撃を仕掛けた。ユーリスと同じ予想をしたのか、シリウスは吐き捨てるように声を荒げる。モノや魔女による犠牲を無視した言動に本気で怒っているのか、それともハッタリをかけているのか。演技だとしてもシリウスの声色は最もらしく、語尾が段々と強くなる。
「大のために小を切り捨てる、それを正義だって言い張るなら、まったく高尚な正義だよ。反吐が出る」
スコールの顔が僅かに上を向く。一陣の風が過ぎ去ってすぐ、彼は丸くした目の片方を細め、堰が切れたように高笑った。ユーリスたち四人は流石に当惑を隠せず、手で顔を覆い肩を震わせる男を見つめる。崩れ落ちた石壁までもが
「はは……正義、正義か……よく言ったものだな。貴様らがその高尚な正義とやらで俺たちを虐げていないことを祈るばかりだよ」
弱い引き笑いを摺ったまま、スコールは一層その瞳に狼の血を映し、啖呵を切って出た。
「俺は大のために小を切り捨てた貴様らとは違う。その真逆だ。この世界では有象無象の正義が矛盾し合う、そんなことは十二分に分かっている。人間共がさも訳知り顔で決めつけた正義など何の役にも立たん。正義のイデアなぞ問うても永遠に答えは出ない、だから俺は人が崇める真っ当な正義などとうに捨てた!」
その叫びは、ユーリスには悲愴に思えた。背を冷たい汗が伝う。眼前で燃やされる瞋恚の炎で、彼が独り灰燼に帰すのではないかと。
「守りたいものを守るために、目指すものを実現させるために戦うだけだ。どれだけ狂人と呼ばれ獣と並べられても、理想のためならばあらゆる手段を行使する。自他問わず必要な犠牲は幾らでも払う。この世界に魔女は無用だ、一匹残らず殺し尽くす。俺の理想は奴ら全ての屍の上にしか成り立たない」
一点の汚れもない理想がこの世に成ると思うなよ。
静かに狼の瞳には光があった。それこそが彼の選んだ道であって、たったそれだけを信条に死線を潜り抜けてきた。濁るはずがなかった。その光を失ってしまえば、何も見えない暗闇しか残らない。
「……その理想が」
駄目だ、と心が一言だけを繰り返す。その道には必ず終わりがある。ただ奪い沈みゆくだけの泥の梨。進んではいけない。先にいかせるわけにはいかない。フローズたちの制止も無視してユーリスは一歩一歩と前に進み出た。
「お前の理想が叶ったとしても、お前がいなくなったら意味ないだろ!」
懇願に近い、やっとのことで絞り出した祈りの言葉だった。どうか引き返してきてほしかった。自分と、ネメアが立つ陽の下まで。
「死んだら意味がない、死んだらおしまいだ……!」
請う胸中とは裏腹に、くく、と喉が鳴り溢れ出すような一笑。
「ああ、そうだな、あいつが言っていた。理想というものは一番理解してほしい人には分かってもらえないように出来ている。あの頃と何も変わらないお前が、何もかも変わった俺を理解できるはずがない」
ようやく鋒が地に向く。スコールの青灰の瞳は一転牙を抜かれた獣のように、代わって感傷のようなものが宿り始めていた。
「過去に戻る術はない。この世界のどこを探しても、どんな叡智を手に入れても、神の力をもってしても絶対に不可能だ。だから俺は、過去に戻すために戦っている」
妙な言い回しに募るは不安のみ。なおも鈍く光る狼の眼には僅かな迷いが見て取れた。
「まさかとは思っていた。こんな予感は外れてほしかった。ユーリス、お前はただこの戦争を終わらせるために、人類を勝利に導くために王都に来た訳ではないな? 本当の目的は俺を連れ戻すことだ、そうだろう? ならば今までの話は全て違ってくる」
遅すぎる直感が走る。落下するフローズを受け止めたあの時、ちらと見せた彼の笑みが、やさしい失笑などではなかったと。呆れや安堵ではない諦観、不安から生まれた虚だったのだと。
「それは考え得る限り最悪の答えだ。俺の今までを打ち崩す、希望の皮を被った絶望だ。こんなことなら俺は……」
じりとブーツの踵を砂に滑らせ、スコールは振り返り様に、至極静かに呟く。
「お前には二度と会いたくなかった」
伏せられた目線は絡まない。蝕まれた手が震えないよう縛りつけた右手の包帯を解きながら、スコールはひとり砂塵の向こうへと去った。
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