― 幕間 ― 狼と獅子(一)


――六年前――


2201年 12月11日 天候:晴時々雪



 どこからか、水がぽつぽつと石を弾く音が聞こえる。階上から冬の冷気が流れ込む灰の石壁。廊下を点々と浮かび上がらせるトーチの火。荒目の石畳を踏み鳴らす、靴音が反響する。

「やあ、賢者どの。気分は……まあよろしくはないだろうな。こんな薄暗い場所に閉じ込められちゃあよ」

 揺らめく僅かな光の中、ある鉄格子の前で足を止めた男がいた。黒のローブ、目深に被ったフードの隙から嗤笑ししょうを見せている。

 牢内の粗末な椅子に腰掛けた女。それは光なくしても光輝を失わぬのではないかと錯覚するほどの白であった。女は長い睫毛を一度瞬き、男に視線を寄越す。

 その双眼、焼けつくような炎の紅、凍てつくばかりの氷の蒼である。


「君に尋ねたいことがあってね。いや、君とはついぞ話らしい話をすることがなかったなと、急に残念になったのさ」

 かちゃり、と鉄扉の錠が外れる音。男は牢内に踏み入り、腕に引っ掛けていた黒い布を無造作に放って、なおも座ったままの女の前に立ち、指を鳴らす。すると何か――白い手のような、不気味なものが無数に地より涌き出で、簡素な椅子を形作る。

「さて、君はその無二の美しさに相応しくない、こんな地下牢に幽閉されてしまった訳だが……なぜあんな真似をした?」

 男は椅子のような何かに腰を下ろし足を組む。その声が帯びていたのは咎めるような色ではなく、純粋な好奇心。

「――愛していたから」

 凛と気丈に。ゆっくりと上げられた、聖女のごとく端麗な顔の半分を灯りが照らす。切れ長な赤と青の瞳は崇高ともいえるほど、この世のものでは測れないほど。

「予想通りの答えだな。つまりは俺にまだ人間だった頃の理性が残ってるってことかね」

 男は肩を落として溜息を吐いた。俯き気味の黒いフードに白で描かれた紋様は、閉じた目蓋から零れる涙を連想させる。

「質問を変えよう。君はその決断に何を思った?」

「……やっと終わる。そう思ったのは事実です」

「驚いた。君は存外人間らしいんだな」

 はっと頭を上げた男は大袈裟に口を開け、驚嘆を示した。対する女は努めて平静。純白の簡素なドレスにトーチの橙が映り込む中、眉一つ動かさず前の男を見据えている。

「つまり君は心のどこかで死を望んでいたと。未来を変えられない運命に絶望したせいで?」

「恐らくは」

「一つ教えてやろう。君に未来を変えるだけの力は備わっていた。だが君は、未来を変えるすべを知ることが出来なかった。やはり無知は罪だよ。こうして二つとない才を腐らせる」

 まったく嘆かわしいと言わんばかりに男は再び頭を垂れた。


「話を戻そう。大方、自己犠牲の精神といったところだろうが……俺は常々思うんだ。それは希望の押し付けではないのか、ってね」

「あなたの考えは何ら特異ではありません。一つの物事でも視点を変えれば、オパールのように様々に色を変える。この世に数えきれないほどの正義があるのと同様に」

「君はそうは思わなかったのか?」

「時に、心より体、理性より衝動が先に動くこともあります。あなたの目にはさぞ愚かに映ったでしょうが、私は後悔などしていません」

「後悔が世界を狂わせると知った上で、自分を戒めるためにそう言っている?」

「いいえ、世界の仕組みなど関係なく、心から」

 女は一度も感情の類を宿さなかった。終始粛々と、まるで自らが喋るべき言葉を諳んじるかのように口にしている。

「愛していたから、か」

 男は女の言葉を思い出したように反芻はんすうし、足を組み替えた。

「君の自己犠牲のおかげで、新たに舞台に上がった者が二人いる。どう転ぶか見ものだよ。今回の世界はなかなかどうして面白い役者が揃っている。惨憺たる世界にただ閉口し跪き、早々に屈するような木偶でくの坊じゃない。虎視眈々と反撃の機を狙っている、何かのために命すら惜しまない、諦めの悪い犬ころが勢揃いだ。人間もまだ捨てたもんじゃない。俺の予想では、君が可愛がっていたあの少年もいずれ王都に――」

「ところで」

 女が男の饒舌を遮る。きん、と鉄を優しく叩くような、冷たい声。

「いま、何時ごろなのでしょうか。このような場所では陽の傾きも見えないもので」

「滑稽な問いだな。君は無知を演じているだけだ。そんな簡単なことを知らないはずがない」

「勿論。ですが今ここで、この瞬間に、私があなたに時刻を問うことは決まっていた。ことです」

「……成る程、演者も骨が折れるな」

 話に水を差されたことにも男は憤りを見せず、ううんと何もない天井を見上げた。

「地下牢に降りる前に時計を見たけど、午後六時だったぜ。あと一時間ってところだな」

「……そうですか」

 女は目を伏せそれきり黙り込む。二色の瞳がなければ、まごうことなき白一色。周囲の闇など近づけぬほどに神々しくもある。

 男はその居住まいの異質さに妙な苦笑を漏らして、再び指を鳴らした。またも白い手のようなものが蠢き、女との間にテーブルを作り出す。男はテーブルに肘をつき、指を組んで悠々と語り出した。


「なればこそ、時間の許す限り話をしようじゃないか。君がいかに聖人君子と言えども、ただこの世界に屈するはずがない。君がやはり人間であるならば、その心に狼がいる。君も歴史を覆すやもしれない役者の一人だ。安寧、理想、自由、力、価値、正義、知恵、そして愛……手の届かざるものを求めた彼らと同じような野心がある」

 骨ばった指を遊ばせながら、男は依然顔色を変えない女を値踏みするように注視する。

「獅子身中のろう……その狼による死を前にして、いずれ口を閉ざす者を前にして、何を騙る必要もない。自由のままに語り、欲のままに問えばいい。予告しておこう、俺は最後にこう問う。君はこの残酷で美しい世界、因果律による宿命を生き、希望を得たか、と。答えはもう用意してあるんだろう? 楽しみにしてるぜ」


 男の隠された瞳が、右眼のみほんの少し覗いた。極彩の遊色、ブラックオパール。あまりにも非現実的な色彩が嬉々と細められる。


「さあ、ほんの短い間だが……お相手願おうか、神の子よ」

 

 

 過去を視、まだ見ぬ未来を渇望する愚者。未来を視、今を嘆けど夢を見た魔女。

 

 満月夜に雪が降る。冬に包まれし王都。地下牢、人を人とせぬ鉄格子の中。

 

 泥梨ないりを這う獣二匹。飢餓の狼と智慧の獅子、相対す。



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