第二章 来迎
Karma03.5:月の向こうでまたいつか
そこは、海と呼ばれる場所であった。
途切れることのない波の音。無窮の天地が一線を引く景。裸足に纏わりつく砂は、存外心地の悪いものではない。
リュカオンは気づくと丸太のベンチに腰掛け、眼前で波打つ光を見つめていた。輝く満月の下、いつの間にか纏っていた白いワンピースが優しい潮風に揺れる。彼女は海を見たことはあったものの、人間のように身近に感じたりはしなかった。開戦前は地上が拠点だったと言えどその殆どは内陸であったし、あくまでも故郷は海などない地下深くだったから。
新天地、未知の世界を夢見て海の向こうに漕ぎ出した者たちは、みな何故か帰らなかったという話を思い出す。人間に噂の真偽を聞くとどうにも事実らしかったが、この不気味な謎については「この地を捨てることを神は許さなかった」と畏怖を口にして疑問すら持たない者ばかりだった。
いくら科学が発展し、神の名を借りて理由を付けてきた天変地異や超常現象が暴かれようと、神という存在は否定されなかった。神によって作り出されたと伝えられる「魔女」が一体何者であるか。それが陽に照らされる日が来ない限り、神への信仰は絶たれないであろうとリュカオンは考えている。彼女は救済を欲していたわけではなかったが、信仰を失った神は権能を失うという話が本当であるならば、名も知らぬ誰かの為に祈ることも決して無駄ではないと信じていた。
明晰夢。この景色が夢であると分かっている。だからこそ失くした何かを探したかった。大怪我を負ってから身体に渦巻く喪失感――その感覚さえもつい最近になって芽生えたものだった――の正体を満月夜の伝説に求め、穏やかな浜辺を歩き回る。月光をきらきらしく反す砂をしばらく踏みしめた先に見えたのは、波に打ち上げられたように横たわる何かであった。
それが狼であると気づいた時、走り寄った足はびくりと一度止まった。波打ち際で身体を横たえた狼はどうやら衰弱しているわけでもなく、ただ眠っているだけのようだ。恐る恐る近づくと狼の分厚い耳はぴくりと動き、金の鋭い瞳が開かれ、驚くべきことにリュカオンの名をたどたどしく口にした。
「どうして私の名前を……」
「ああ、本当に忘れてしまったんだ。記憶が流れ出たせいだよ、きっとそうだ」
狼は明るく少女のような声色で語りかける。夢だから、で片付けられる有り得ない現象。狼は起き上がり、灰の艶やかな毛並みを繕いながら忠犬のように行儀良く座り直した。
「リュカ、あなた最近ひどい怪我をしたでしょ? 血をたくさん流した、だからあなたは忘れてしまった、忘れてしまったという感覚さえもないほどに」
「血を流したら記憶が消えるの……?」
「一時的に消えるだけ。時間が経てば徐々に回復するんだって。なんでも記憶が血に宿ってるとか……私たちが
口をはくはくと動かしながら流暢に言葉を紡ぐ狼。質量のある尻尾を背後の波を真似るよう振りながら、リュカオンをじっと見ていた。
魔女が血を流すと記憶が飛ぶという話は地下でも何度か聞いたことがあったが、まだ解明も立証も出来ていないはずだ。記憶は脳に記録されるという今まで考えられてきた常識を打ち破りかねない疑念だったが、どんな荒唐無稽な真実が転がり出ようが、それが真実だというのならば受け入れるしかないではないか。
「博識なのね、狼なのに」
誰からそんなことを、と暗に尋ねると、狼もそれを悟ったのか黙り込む。
「気をつけて。私の異能は奪われた。私の
狼は一転神妙に唸り声を漏らした。
「彼が今、どんな姿形を取っているかは分からない。誰が嘘を吐いているのか、どこからどこまでが芝居なのかも……ごめんなさい、不確かなことしか言えなくて。でも間違いなく言えるのは、彼はあなたと一緒にいるあの優しい青年を必ず試してくる。用心しておいた方がいいよ」
リュカオンは息を呑んだ。過去現在未来を繋ぐ満月夜の夢は、ただの夢だからと馬鹿には出来ないものだ。ユーリスの身に危険が迫っているのも、人語を喋る奇妙な狼の妄言だと切り捨てていいわけがないのだ。
「あなた、一体誰なの」
狼の輝く双眼から目を決して逸らさなかった。彼女が内包するもの全てを見透かして、どんな些細なものでさえ逃したくなかった。
「これを見ても思い出せない?」
鼻先を空に向けた狼は、月に遠吠えを響かせた。すると突然、獣の体躯がさらりと砂粒のように崩れ、渦を巻いたそれは黒い猫を形作った。にゃあと一鳴きした猫はまた姿を変える。犬、鶏、山羊に羊、虎、獅子、白鳥――まるでおとぎ話の世界にでも迷い込んだかのようだった。リュカオンは驚嘆を隠しきれぬまま、一つの記憶を手繰り寄せる。口をついて出た、彼女の名は。
「リュクルー……」
それを聞いた彼女は、愛らしい瞳が印象的な少女に変化して、砂浜にふわりと降り立った。黒灰の髪に混じる野花のような黄、不朽の金をたずさえた双眸が目を引く。
「やっと思い出してくれた! リュカ、本当に久しぶり!」
丸く澄んだ人懐っこい瞳が細められ、リュクルーはリュカオンを不意に抱きしめる。じわと染み出すように記憶が思い起こされる温もりが胸に満ちる。
リュクルーはリュカオンの後に地下神殿に生まれ落ちた魔女だった。リュクルーの名は愛称で、真名は"リュクルゴス"といった。
元来、人を楽しませたり驚かせたりするのが好きだった彼女は、生まれて早々にエンターテイナーを目指すと言ってリュカオンのもとを離れていった。頻繁ではなかったが連絡も取り合っていた。何百年と過ぎ去った時の中でリュクルーに会ったのはほんの数回だったが、どれだけ離れていても不思議と隣に在るように錯覚すると、彼女を知る者は口を揃えて言ったものだ。それも仕方のないことだろう。リュカオンだけではなく、誰もリュクルーの本当の姿など知らなかったのだから。
リュクルーの声を最後に聞いたのは五年前。サーカス団員を辞し、軍属として活動していた彼女からの一本の電話。「真実が知りたい」、そんな言葉を残して彼女は消息を絶った。
「待って、リュクルー! あなた今どこに――!」
リュカオンから身を離し、鼻歌を響かせながら波打ち際へ躍り出るリュクルーに、リュカオンは縋るように叫んだ。ようやく思い出した失くしたもの。可愛がっていた妹分の存在すら忘れてしまっていた自分の不甲斐なさを押し殺して、今はただ必死に、波にさらわれてまた居なくなってしまいそうな彼女に呼びかける。
リュクルーはふくらはぎまでを海に浸し、真っ直ぐなサイドテールを揺らしてリュカオンの方に向き直ると、静かに頭上を指差した。リュカオンが天に目を向けると、今にも落ちてきそうなほどの大きな満月が、海のような夜空に浮かんでいた。
「またいつか、月の向こうで会えたらいいね!」
夢は終わりあるものだ。粗末なソファの上で目を覚ましたリュカオンは、リュクルーが満たしてくれた空白を、彼女が遺した最期の笑顔を忘れないよう願うばかりであった。
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