Karma03:泥梨を這う獣たち(2)

「フローズ……?」

 珍しい髪の色ですぐに分かった。ユーリスは小さく呟いただけだったがフローズには聞こえたらしい。彼女は驚いて顔を上げたが、ユーリスを認めると見るからに青ざめ首を激しく横に振った。

「大丈夫だ。俺の他には誰もいないよ」

 ゲート破壊作戦以来、ユーリスはフローズから人前で自分と関わっては駄目と何度も念を押されていた。ほっと目を伏せた彼女にユーリスは慌てて駆け寄ったが、明らかに普通の様子ではない。肩にかけた帯は外れ、いつも整えられていたゆるいウェーブの癖毛も乱れていた。

「どうしたんだ、一体……」

 彼女の左頬は赤く腫れ上がっていて、目には僅かに涙が滲んでいる。どこかにぶつけてできるような怪我ではないし、フローズが肩を上下させるほどに息を上げるなど見たことがなかった。腕の中に一冊の本を大事そうに抱えたまま、彼女は呟く。

「慣れてるから……」

「慣れてるって、もしかして」

「やり返せって思う? 王都に亜種が何人いると思ってるの。私より強い人ばかりなのに、全員を敵に回したら殺される。今こうして生きてるのだっておかしい話なのに。道具として、いたぶっても罪にはならないぼろ犬として生かされてるだけよ」

 一息で喋りきったフローズは一呼吸おいて、「ごめんなさい」と弱々しく漏らした。魔女の嫌疑をかけられ処刑された母親を持ち、魔女の子と呼ばれ虐げられている彼女が手酷い扱いを受けているとは聞いていたが、いざ目の前にすると何も言葉が出て来なかった。

「お兄様たちは虚勢を張って生きてるから、私みたいに半端に戦果を出すとすぐ手を上げるのよ、馬鹿らしい。でもヴィトはあまりできない子だから、お兄様たちも相手にしてない」

 確かにヴィトニルへの中傷の言葉を聞く機会はあまりない。ユーリスに軍関係施設への立入許可が下りてからというもの、ルヴトー姉弟への差別はより目につき始めた。だがヴィトニルに対しては軍人たちも徹底的に無視するか影でこそこそ笑っているかぐらいで、フローズのように直接暴力を振るわれたことがあるとは聞かない。

「私が受け入れている限りあの人たちはヴィトを見ない。私が耐えればヴィトを守れるの」

「だからって君がこんな目に遭うことないだろ……!」

「世界で一番かわいい私の弟なの! お母様は殺された、父は私たちのことなんて我が子とも思ってない! ヴィトはたった一人の家族と言っていい子よ、あの子のためなら何だってするわ!」

 語気を強めてユーリスの腕に縋り付いた少女の目は揺らがなかった。悲壮を帯びた表情の中でも、彼女は常に誰も底まで折りきれないような意地を瞳に宿していると思う。

「お願いユーリス、私がどんなことをされていても助けになんて来ないで。王都には優しい人たちだって沢山いた、でもみんな殺された。私を庇って、みんな」

 次第に小さくなる声が彼女が抱える罪の意識を物語っている。

「私、まだ頑張れるから、大丈夫だから……」

 ユーリスは何も言えなかった。最愛の弟を守りたい一心で均衡を保っている彼女を否定することなど出来なかった。生きる意味、成し遂げるべき使命を取り上げれば、彼女を天から吊り下げる糸は簡単に切れてしまう。下手な慰めの言葉ではフローズを傷つける、だからと言って黙ってただ項垂れる様を見るしかできないのは、心が伽藍になった心地がして息苦しい。


 それでも何とか言葉を探していたが徒労に終わった。ざわめきに気づいたのはフローズが扉の方を振り返ってからだった。廊下から聞こえる怒号はくぐもっていたが、彼女はごくりと息を呑む。

「スコールだわ」

 一瞬頬がひくついた。なぜ彼が、という疑念はすぐに消える。王宮での狼の如き眼光を忘れるわけがない。

「駄目よ、何をされるか分からない」

 フローズの制止をよそに、彼女を背に隠して僅かに扉を開ける。隙から見えた廊下の先にいたのはまず野次馬の軍人たち。その視線の先には刀を抜いて歯を食いしばり息を荒げているスコールがいた。そして彼と対峙するのは――。

「なんでゲーレが……」

 凛とした佇まいの、炎と硝煙の臭いがするあの女軍人だった。姿勢こそ正してはいるが手を腰に帯びた剣にかけている。ゲーレはスコールを睨みつけてはいたが嫌悪から来るものではなさそうで、額の汗に前髪が張り付いていた。

「私は君が心配なんだ。あの薬を亜種が使えばどうなるかぐらい分かっているだろう。待っているのは破滅だぞ」

「知ったことか、私は貴女のただ清いだけの正義に応える気など毛頭ない!」

 諭しの言葉にスコールは咆哮で返した。柄を握りしめすぎているのか腕全体が震えている。歯の隙を呼吸が通り抜ける音が耳を澄まさずとも聞こえた。

「君の力は確かに地上にとって不可欠だ。少々の無茶も必要かもしれないが君のそれは度を越している。終戦まで君の体が保つかどうか……」

「承知の上だ! 己の身を顧みる暇など必要ない、理想のために命を差し出さねばならないのなら心の臓だろうとこの手で抉り取ってやる!」

 あの時と同じだ。思わず目を細めてしまうような、恐ろしいまでの空気の震え。耳にしたみなが狼狽えてしまうような、清すぎる憤怒。スコールにとっては相手が誰であろうと些細なことなのだろう。自らの障害となるものに温情など与えるだけ無駄なのだと、彼の狼の双眼が吠え続けている。

 スコールが大きく息を吸った。ゲーレが僅かに身構えたのが見えたが、彼はそのまま静かに喋り切る。

「私にフレキの影を重ねているというのならそれは貴女のエゴにすぎない」

 ゲーレの凛々しいばかりの瞳が明らかに動揺を宿した。四肢が強張っている、唇がわなないている、頬を汗が伝っている。ゲーレはいかにも軍人らしい毅然とした人物。ほんの少し話しただけでそう思い込んでしまっていたユーリスだったが、スコールのたった一言で彼女が今まで纏っていたものが瓦解した。

 ユーリスは傍らのフローズに目で問うたが、彼女は目をそらしただけだった。

「……私はっ――!」

 ゲーレが声を荒げたその時だった。辺りを一斉に警報音が包み込む。西部の第八都市ウトパラの方向、エリア40防衛ライン上から敵影を観測。居住可能区域到達まで約二十分。

 野次馬たちが今までのことなどなかったかのように散り散りに去っていく。スコールは剣を構え俯いたままで通信機の警告を聞いていたが、呼吸がさらに激しくなっていて顔色も血の気がないようだった。

「……私だ。すぐに配置に付く。第三隊はお前に任せる。防衛ラインの隊員には通常通り区民の誘導を」

 先に動いたのはゲーレだった。忙しなく指示を出しながらも、彼女は動かないスコールを一瞥して、むず痒い顔でその場を後にする。スコールは彼女が去ってからようやく通信機に手をかけたが、その身体は壁にもたれかかるようにして崩れた。ユーリスは咄嗟に扉を開け放とうとしたがフローズに服を引っ張られて後ろに倒れ込む。

「だめ、行っちゃだめよ」

「でも酷い顔色だぞ……!」

「駄目ったら駄目!」

 フローズが小声で怒鳴った。扉の隙からスコールがよろけながらも壁に手を付きながら立ち上がるのが見える。彼が視界から外れてからも、ユーリスの右目は通信機に話しかける姿を捉えていた。

「殿下……殿下、どこにいらっしゃるのですか……」

 あんな状態でも戦うと言い切るのだろう。薬物に頼ってでも前線に立つ、それはもはや執着というより狂気の域だ。相棒のヴィトニルを探して彼がようやく廊下から消えた時、ユーリスは床に仰向けで倒れ込んだまま手で顔を覆った。

「……大丈夫?」

「大丈夫なわけない……」


 フローズは押し黙った。きっと、ユーリスは今まで通りに答えると思っていたのだろう。

 きっと戻れるはずだと信じているんだ。

 遠雷が聞こえる中で呟いた彼は微笑んでいた。あれは自信の表れだった、同時に彼を駆り立てる全てであって、最後の希望だった。

「スコールの時間はあの日で止まってる」


 十五年前の魔女による大規模襲撃。ユーリスが王都を訪れていたあの忌まわしき落日の時。


「全部俺のせいなんだよ、全部……」

 力ない、喉の鳴るような笑い声が漏れた。サイレンは止んだ。軍人たちの靴音も。

 どこに立っていればいいのかが導き出せない。答えが出たとして、この許されざる両の足で、立っていられるのか。

 痛いほどの静寂の中でユーリスは涙が溢れるのをすんでの所で堪えた。だが傍に座りこむ少女には、惨めな声の震えを気づかれてしまったかもしれない。


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