Karma01:蝕まれる黄金(2)


 血の臭いが立ちこめ始めるまでにそう時間はかからなかった。魔女軍の兵器である機械仕掛けの黒い獣が、逃げ遅れた人々に牙を剥く。身体を規則的に走り抜ける濃い桃色のネオン光と、違わぬ色の大きな丸い一つの瞳。どの個体も一つ目であることから『モノ』と呼ばれた未知の兵器の前では、いくら訓練を積んだ軍人もただの人。容易く銃弾の雨を抜ける獣に為す術もなく身体を裂かれる者が大半だった。


 あらゆる声も音も全てが痛々しい。その中を走り抜け、モノを構成する金属の僅かな隙間に剣を突き立ててもそれはただの気休めにしかなり得なかった。モノは一度地に倒れても身体を再構築し、稼働音を立てて再び疾駆する。だが――亜種でも破壊できないせいで人々が酷く怯えていたというのに、件のソロはそれをいとも容易く壊したと。地上東部での目撃情報がある彼もこの騒ぎを聞きつけているかもしれない。

 運よく生き残った人々に避難路を伝え先を急げば、色を失い始めた空を駆ける十人の魔女が目に留まった。彼女たちは五人ずつに分かれ左右に散っていく。中でも戦地に似つかわしくない黒いドレスを着た魔女が目立っていた。

「あれか」

「特徴は一致しています。間違いないかと」

「今回で調査を終わらせろ。これ以上の猶予はない、ぬかるなよ」

 ヴィトニルはそう言い捨て、黒いフードを顔を隠すように深く被る。彼は崩れ落ちた古い木材を踏み台に高所へ上り、別方向へ曲がった小隊を追って姿を消した。

「ライラプスと思しき敵影を発見。これより調査を開始する」

 スコールは配下の小隊に通信を飛ばし、しばらく標的の跡をつけると寂れたアーケードの商店街に辿り着いた。廃ビル群の最奥であるこの区域は都会と地方の境目だ。所々天井が抜け壁も砕かれた商店が立ち並び、店に掲げられていただろう看板は地に落ちている。商店街を覆う割れた硝子の天井から橙の陽が射す中、文字通りの血の海だった。

「お前たちはアーケードと住宅街、両方を確認できる場所に待機しろ。指示を出すまで動くなよ」

 予め高所に待機させていた小隊に指示を出す。死体の多くはこの辺りに逃げ込んできた隣区担当の軍人だろう。頑なに故郷を捨てなかった住民も見受けられる。誰も彼もが慟哭を湛えたままの顔を晒していた。剣によってつけられた死体の傷は急所だけを狙われていて、全てが一瞬だったに違いない。


 十字路に差し掛かったその時、石畳を打ち鳴らすヒールの音が建物の残骸に反響した。垂れ下がった天井の鉄柱の陰から、何者かが死体を引きずってこちらに近づいてくる。陰を出て夕光の下に現れた、タイトな黒いドレスの女。スリットにあしらわれた紫陽花のような花が逆光に映える。彼女は手にしていた剣で宙を斬り、滴っていた血が地面に線を描いた。

 彼女は左手で引きずっていた死体を投げて寄越す。スコールとの間、十メートルの距離の真ん中に落ちた男。四肢がひしゃげるような、ぐしゃりと音を立てたそれは先程まで生きていたとは思えない。

「あなたのお兄さんかしら」

 死体の男はスコールと同じく灰混じりの黒髪だった。亜種の髪色は血縁があろうとなかろうと似通う特性がある。確かに見たことのある顔をしているが――。

「あまり覚えがない。目を見張るような功績もなかった奴だ」

「貴族って案外冷めた関係なのね」

 女はそう言って肩をすくめる。研ぎ澄まされた青白いナイフのような美しさが目の前にあった。あの冷たく鋭い青瞳で一度捉えた獲物は決して逃さない。どこに逃げようとも食い下がる様は『狩猟犬』と称され、そう噂した軍人も一人ふたりと消えていく。

「ライラプスだな。仲間はどうした」

「あなたこそ、相棒はどうしたの」

 ライラプスの切り揃えられた長い茶髪が風の流れのままに揺れる。彼女の胸元に下げられた地上のものとは少し違う通信機、棒状の金属の中央にはめ込まれた青い石は彼女の瞳の色と同じだ。彼女は石を人差し指で三回叩いた。垂れ下がる鉄柱の向こうから銃声と剣戟の音が響いている。

「訊くだけ無駄だ」

「それもそうね。あなたってお喋りが好きそうには見えないもの」

 彼女の揶揄に耳を貸す義理もない。スコールは十字路を右に走った。ライラプスがその様子を目だけで追っているのが見える。彼女と交戦するのは初めてだったが、噂が本当ならどこへ逃げても追ってくるはずだ。

 異能の詳細を目で見ることができないか、対峙した者が尽く死にゆくために詳細が分からない魔女は多くいる。彼女たちは地上軍によってリストアップされ、調査対象を割り振られた軍人は対象を発見次第、異能の調査を試みなければならない。能力を見切らなければ対策の立てようもない。調査ではどれだけ危険な賭けでもやってのけなければ。それで死ぬのならそれまでだったということだ。


 ライラプスが追ってくる気配はなく、スコールはアーケードの東口を出て、南口の向かいの木造建築が立ち並ぶ住宅街に入り込み通りを不規則に進んだ。

「ライラプスはアーケードから出たか」

『いいえ、東口からも出ていません』

 部隊の報告を聞きながら、住宅街のさらに奥に進み待機する。肉眼で捉えられていなければ場所が分かるはずもない。噂を確かめるにはいい状況だろう。

『南口から出ました! 歩いて住宅街に向かっています!』

 明らかにライラプスはスコールを普通には追っていない。見失うリスクがあるのに走りも飛びもせず、東口ではなく南口を使い、スコールの居場所までの最短ルートを選んでいるように思える。

 スコールは動くことなく様子を伺っていたが、ライラプスの靴音は確実に迫ってきていた。路地裏をじぐざぐに進んだのだから、南口から一直線の場所にいるわけではない。この広い住宅街で一箇所を当てるなどただの勘ではできるはずもなかった。

「隠れたつもりなんでしょうけど」

 ライラプスの声が住居間の木板一枚を隔てたすぐ先で聞こえても、スコールは至極冷静だった。アーケードから出て五分も経っていない。彼女は迷路のような空間で一瞬も迷わなかった。つまり彼女の能力は予知、透視の類か。

「何人この方法で殺したと思ってるのかしら」

 その声を聞いた瞬間、スコールは右に飛び退いた。間髪入れずに木板が砕かれる鈍い音が鳴る。木板はライラプスの剣で貫かれ、スコールの背にしていた住居の壁に剣先が埋まっていた。スコールは臆することなくまた路地裏を無造作に走り抜けたが、どこを通ってもライラプスは最短ルートで追跡するだけでなく回り込んでくる。

 彼女は障害物を無視して標的の位置を透視している、そう確信したのは

 住宅街の小道に出た瞬間、同じくすぐ横の路地裏から飛び出た彼女の剣を刀で受け流す。彼女の剣には鍔がない、柄と刀身だけの珍しいものだった。スコールの持つ東方の刀とも、ヴィトニルの西方の剣とも違った構造だ。

 住宅の壁を伝って屋根に登ればライラプスも当然追ってくる。受け止める彼女の剣は思いの外重かった。スコールは亜種である義兄弟と手合わせとして剣を交えることはあったが、あの手が痺れるような衝撃、かけられる圧力に引けをとらないのではないか。身体を強化する能力を持つ魔女は比較的多い。ライラプスもその類なのかもしれないが、それに透視能力が加わっているのは妙な話だ。

「二重能力など聞いたことがない……!」

「さあ、どうかしらね」

 ライラプスは鍔迫り合いの向こうで不敵に笑う。魔女の能力に個性はあれど亜種にはない。魔女はこちらが身体能力が高いだけの生物だと分かりきっているからまだいいが、スコールは猛攻に耐えながら考えを巡らせる必要がある。

 動揺を逃すまいとライラプスが剣の向きを変えた。スコールの刀は上方向へと打ち上げられ、大きく弾かれたせいで体勢を崩した彼の足は地に着かなかった。落ちる、と理解した瞬間に腹部を下方向へと蹴り飛ばされる。

 落下した先は既に割れた壁が剥き出しになっていた場所で、強く叩きつけられたせいで背に激痛が走った。一枚鋭くなった小さな木板が右腹部を刺していたが、痛みは波のように引いていくはずだ。倒れている暇などない。とどめを刺すため追撃してきたライラプスの剣を転がるようにしてかわし、そのまま地に落ちた刀を拾い上げて走った。通りの開けた場所に逃れると、スコール率いる部隊が路地内にいるライラプスに一斉に照準を合わせていた。

 銃撃の音は長くは続かなかった。兵の放った銃弾は一発は当たったようだが致命的な一手にはならず、ライラプスは宙で銃弾の雨を避け、追跡は緩められない。ライラプスはスコールを狙うことで、自身に向かう銃弾を最小限に抑えられると知っている。

 相手が相手だ、とにかく視界を広げなければ後手に回る羽目になる。スコールは再び住宅街の屋根に飛び上がった。

「身体はいくらか頑丈でも痛みは誤魔化せないでしょう?」

 二度目の鍔迫り合い。言葉は軽くとも先程よりも剣に勢いがなかった。先ほどの重撃は運よく彼女の右腕を貫いたらしく、力があまり入っていないと見れば分かる。

 馬鹿なことを言うものだ、そんな侮蔑の笑みで彼女を睨みつけ、先の衝撃で口内に溜まった血を吐き捨てた。

「誤魔化せるさ! 貴様らのような化け物には理解できないだろうがな!」

 怪訝な顔をしたライラプスの隙を突き、刀を薙ぎ払い生まれた隙間に潜り込んで追撃する。攻勢に転じ、既に痛みなど殆ど感じなくなっていたスコールに対し、ライラプスは腕に走る激痛に口を引き結んでいる。地上には痛覚を麻痺させる薬物などいくらでもあるということを彼女は知らないのだろう。

 猛攻を耐え凌いではいるが足がよろめき始めたライラプスに蹴りを食らわせる。彼女が屋根に叩きつけられる衝撃で屋根瓦が二、三枚剥がれた。その音に紛れるように聞こえた無機質な稼働音と、怯えたような慟哭、銃撃の音。通りの部隊の方を振り返ると、彼らにあの機械仕掛けの獣が飛びかかろうとしているのが見えた。


 だが兵たちの叫び声はすぐにざわめきへと変わる。空から降り立つように現れ、モノの背部に剣を突き立てる影。スコールは声も出なかった。金属と金属の僅かな隙間を刺され、地に倒れたモノはいつものように再び立ち上がりもしない。自分もこれまでモノに対して同じ方法で攻撃していたはずだった、なのになぜ彼だけがあれを壊せる? どす黒いオイルが吹き出す機体から剣を静かに抜いた、白い外套のあの姿、他に誰がいようか。

「ソロ……」

 やっとのことで出した声には動揺が現れていることが自分でも分かる。こちらを見上げた男の顔は、深く被ったフードに隠され暗く半分も見えなかった。

 突如すぐ横に迫った剣を刀で受け流す。狩猟犬はその名を体現するように食い下がった。ちらりと見た先にソロは既におらず、彼はライラプスの背を狙って剣を振るっていた。ライラプスは突然の乱入者に顔を顰め、容赦のない二本の剣をいなし数メートル先の屋根上に着地した。自然とすぐ傍らに立ったソロの目は見えずとも、口元はどこか弱々しく微笑んでいるように見える。

「何のつもりだ」

「心配はいらない。俺は人間だ」

「どうだか……」

 ソロの動きは明らかに亜種に似通ったものだった。ただの人間ならモノが倒れている場所から僅かな時間でこんな高所に来られるはずがない。ライラプスは肩を上下させながらも胸の通信機に手を当てていた。

「そう……あなたが陛下の機械を破壊している……。ただの人間でもなければ亜種でもないわね。どうしてあなたにも視えているの」

 みえている、とはどういう意味だろう。亜種には見えずソロには見える何かがある――?

「視えるものは視えるから、としか」

 その言葉を聞いた瞬間、スコールは全身の血の気が引くような感覚に襲われた。依然整わない呼吸を通す喉から妙な音が出る。


 透視能力。スコールはライラプスのものに似た能力を持つ者を知っている。だからこそ彼女の能力に予想がついた。


 彷徨う視線を無理矢理にでも傍らの男に向ける。隠された顔は何も教えてはくれない。ライラプスは通信機に触れ続け、人差し指を少し動かしている。あの機器に通信以外の機能が備わっているかどうかはスコールの理解の範疇ではなかった。先程の三度石を叩く合図のようなものといい、何を仕掛けてくるか分からない。スコールは震えたままの手で強引に刀の柄を握り直し、足を後方へとにじる。

「魔女でもないのにそんな力を持てるわけがない、どういうことか確かめ――」

 彼女はぴたりと電池が切れたように動きを止め、押し黙っている。何かに耳を澄ましているようだった。恐らくは通信機から彼女にだけ聞こえる音声だろう。

「リュカオン……?」

 ライラプスの顔が一気に青褪めるのが目に見えた。

「何をしているの! 退きなさい、あなたの手に負える相手じゃない!」

 今までの冷静を捨てて通信機に怒鳴る彼女は、ぎぎと音が鳴るほどに歯を軋ませスコールだけを鋭く睨んだ。

「本当に、躾のなってない犬ほど嫌いなものはないわ……!」

 ライラプスはすぐさま背を向け急くように飛び去った。スコールは彼女を追おうと足を踏み出したが、腕をソロに掴まれ引き戻される。

「止せよ、怪我してるんだから」

 ソロの判断は至極まともだった。

「……なぜだ」

 本当はライラプスを追う気力などとうに削がれていた。掴まれたままの腕を振り払うこともできない。かろうじて振り絞った声はどうしようもなく惨めに震えている。

「なぜお前がここにいるんだ、ユーリス」

 息がつまる感覚を鮮明に感じた。目の前の男を問いただす言葉すら口にできず、やはり何も言わないでくれと請うこともできなかった。何よりも、戦場こんなところで会いたくなどなかった。

「ごめん」

 ソロはゆっくりとフードを親指で押し上げる。その下から現れた黒と白が混ざる髪、ほんの僅かに違った虹彩の丸い両の瞳。かつての面影が残る優しげな顔に、あの頃の無条件な明るさはない。それでも無理して作ってみせる笑みが痛々しく、顔を伏せるようにして目線を外す。突然の謝罪に続ける男の声は僅かに震えていた。


「もうお前に……何から謝ったらいいのか、わからないよ」




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