Karma05:胎動 (2)


 白く可視化された息が揺らめいて、天を目指す間もなく消えていく。


 兵舎の外の、色の奪われた雪景色に妙に寂しさを感じる。ユーリスはとぼとぼと黒い足跡を刻みながら、ネメアに会うために故郷である第二都市を目指していた。

 自分が無知であると分かっていたつもりだった。だが知らないことがあまりにも多すぎる。知ることが怖くなるほどに。知らなくていいことだってこの世にはあるはずなのに。

 それなのに。真実やら理屈やら、隠されたり明かされていないもの全て暴かなければならない。知らなければ始まらないのだ。ユーリスの中の判然とはしない「何か」がずっとそう叫んでいた。

 身に危険が迫ると聞こえる謎の女の声、天から降りてくる白い手。先ほど見つけた謎のメモの意味。

 巡り巡った疑問に頭を悩ませて、最初に浮かんだのは先生の顔だった。少数民族・ニルヴァーナの生まれ。類稀なる優秀な薬師であり、「知ること」を子供たちに説いた人。彼女はもうこの世にはいない。魔女として民衆から糾弾され、あの黒いローブの――上層の一声で灰となった。彼女に教えを乞う事はもう出来ない。

 あるいは、彼女の姪ならば。ニルヴァーナ一族は独自の宗教を信仰している、とだけ知らされていたユーリスは、ネメアなら何か知っているかもしれないと踏んだ。同じく先生の教え子であり、恐らくニルヴァーナの教えを継いでいる彼女なら――他に当てはない。リュカオンの一件以来、彼女には会えていなかったし、元気にしているかどうかも気がかりだった。とにかく会ってみようとユーリスは王都の外れの市街地を進む。


 ふと足が止まる。この辺りの住民は全員が既に退避したそうで、今まで人ひとりともすれ違わなかった。ただただ雪を踏みしめる音だけが響いていたのに……すぐ先の建物から話し声がする。ユーリスはつい声を上げそうになったが、すんでのところで抑え忍び足で声に近づいた。

 この建物は先日ルー・ガルーという亜種に出会った倉庫だった。一枚割れた窓から漏れる話し声は二人ともが少年のようで、一方に聞き覚えがある。ユーリスはそっと外壁に身を預けて右眼で中を見た。暗視スコープのような緑の視界に映る二つの白いシルエット。間違いない。ルー・ガルーとヴィトニルが、そこにいた。


「君たちは一人でも多く魔女を殺してくれればいい。義務さえ果たしてくれれば後は何をしようと自由さ」

「勘違いするなよ。僕らは貴様に協力しているわけじゃない」

 以前と同じく、倉庫の真ん中に打ち捨てられた木箱に座るルー・ガルー。その前に距離を取って佇むヴィトニルの声は、ユーリスが今まで彼に抱いていた印象や記憶とは違うものだった。聞き覚えがないと言うと言い過ぎかもしれないが、明らかに普段と様子が違う。あどけなさを残しながらも強い拒絶や反抗心、静かな憎悪の色が滲む声色。

「分かってるさ。だが結果は同じだ。俺は人類の勝利を望み、君たちは魔女のいない世界を望む。辿り着く結末は魔女のいない世界に他ならない」

「……お前は何を知っている」

「君たちが知りたいことの全て。欲するならその身で真実に辿り着けよ、人間」

 ルー・ガルー・が身動みじろぎ一つせず言い放つ。

「話にならん」

 少しの静寂の後にヴィトニルはそう吐き捨てて踵を返した。出入り口と思しき鉄扉へ向かいながら、彼は続ける。

「貴様の業は必ず罰へと昇華される。自分が蒔いた種は自分で摘み取るのが定めだ。忘れるなよ、因果応報は万物の前に横たわっていることを」

 妙なことにヴィトニルは鉄扉の前で三秒ほど立ち止まり、そのまま何も言わず路地へ出て去っていく。ユーリスは努めて物音を立てないよう蹲っていたが、ヴィトニルの行先がこちらではなかったことに胸を撫で下ろした。昨日のヴィトニルの物言いといい、ユーリスは恐らく彼のことをまだ何も知らないだけではないかと思い始めていたし、無闇に顔を合わせるのが憚られてしまう。


 ユーリスは逡巡したが、倉庫の扉を開けることにした。ルー・ガルーは幼い見目に似合わず博識のようだったし、警戒さえしておけば話をするのも悪くはない。

「やあ、また会ったね」

 ルー・ガルーはユーリスの姿を目に留めると至極軽い挨拶を飛ばしてきた。相変わらず軍服のフードで顔は見えず、小さな口元は笑みを絶やさない。

「もしかして今の話聞いてたかい?」

 話が終わってそこまで時間も経たずに入ったのだし、そう尋ねられることは目に見えていた。ユーリスがだんまりを決め込むと、ルー・ガルーは急にけらけらと笑い始める。

「そう身構えるなよ! 取って食おうだなんて思っちゃいないさ。ただ面白くはなってきたんじゃないか? 無知の知を脱する日なんて永遠に来なくていいのさ。思考と追求を止めた人間なんてただの有機物に過ぎない」

 ははは、と笑い声を斬らせて顔を上げる。彼のエメラルドによく似た左目がフードの隙から覗き、真っ直ぐな黒い前髪が僅かに溢れたのが見える。


「一つ聞こう、君はカルマを信じるか?」


 ユーリスは自分の片眉がぴくりと動くのを感じた。

「過去の行いは必ず己に返って来る。善行、悪行を問わず己の行動に応じ、未来において報いが待っている。全ての物事に偶然は有り得ない。いま君と僕がここに立っていることも、過去の何かの結果である。カルマ理論――君は決して目に見えぬ運命と必然を信じるか?」

 ルー・ガルーは口角を上げたまま、細めた丸い目でユーリスをじっと見ている。

「……それは、前世とか来世とか、時間を飛び越えても作用するという前提の上で?」

「もちろん。カルマは魂に刻まれるものだ。生死の壁など障害にすらならない」

 先生の微笑みが思い浮かぶ。何度も何度も聞かされた創世の神話。神が与えたもうた希望、輪廻転生。

「――分からない」

「分からない?」

「確かに、良いことをしたら良いことが、悪いことをすれば悪いことが返ってくるっていう考えをずっと聞かされてきた。俺はカルマ自体は信じてきたし、これからもそうだと思う。でも、君のに信じると答えたらそれは……輪廻転生そのものの存在を、認めることになる」

 子供の頃から考え続け、辿り着いたというには余りに曖昧な答え。いくら考えても分からないのだ。自分に前世の記憶はない、記憶があると言う人にも会ったことがない。信じてみてもいいじゃないかと言う自分も、死を恐れる人間の作り話だと言う自分もいる。スコールの「実在していたところで記憶がなければ意味がない」という答えにも揺り動かされる自分がいるのだ。

「ふうん、意外な答えだな。賢者シンハの教え子の癖に」

 ぐるぐるとまとまりない思考が一瞬にして止まる。

「なんで君がそれを……」

「シンハとはちょっとした知り合いでね。まあ、それはいいとしてだ」

 ユーリスから考える暇を奪うように、ルー・ガルーは何かを投げて寄越す。突然のことで慌てて受け止めたそれは小さな映像記録機だった。起動すれば記録された映像がホログラムで投影される仕組みで、既に倒産した電気メーカーのロゴが書かれている。

「君に渡してほしいと頼まれたんだ」

「誰から」

「おいおい、さっき僕らがしてた話、聞いてたんじゃないのか? 悪いが今までのはサービスだ」

 君が当ててみろ。そう言ったルー・ガルーはくつくつと笑いながら、フードを目深に被り直す。

 ユーリスは受け取った記録機に目を落とした。映像を見ないことには送り主の検討はつかない。ルー・ガルーには色々と聞きたいことがあったのだが、どうにもそんな雰囲気じゃないな……そう溜息をついて顔を上げるが、ルー・ガルーの姿は既になく。

 穴の空いた天井から降り積もった雪の上を、どこに潜んでいたのか一匹の黒猫がにゃあと一声。小さな足跡をつけて、ユーリスの脇を通り過ぎていった。





 2207年12月7日 / 中央区・郊外/ 雪 / 月齢:16.3


 鬱蒼と生い茂る草木を雪が覆っていく。元より音といえば木々を抜ける風、小鳥の囀りぐらいの静けさに包まれた地は、冬が訪れにより一層深閑としていた。

 王都や中央区の主要な住宅地から遠く離れた森奥に、ぽつりと佇む古ぼけた小屋。魔女の襲撃を知らせるサイレンは薄らと聞こえる程度であったが、このところそれすらも聞こえなかった。何だか不気味だ。リュカオンは小屋の中で、出来ることならばもう握りたくはない拳銃の手入れをしていた。


 この小屋を一つの住処とするユーリスは、リュカオンを気遣ってか周囲を警戒してか頻繁に戻ってくるわけではない。当然だが彼女は常に一人きりで過ごしていた。

 外に漏れないよう小さな音量で『月の光』を聞き流す日々。ピアノを弾きたいと思うことはあった。小屋の外に出て朝日を浴びたいとも。だが不思議と、地下に帰りたいとは思わなかった。

 人語を解す狼の夢を見てから、リュカオンは黙して考えていた。彼女は満月夜の夢の神秘を信じていたし、リュクルーが自らの前に現れたことには意味があるはずだと。それでもリュクルーが月の向こうへ行ってしまったと信じられないままでいる。

 二丁の銃をことり、と机に置いた。金色の銃身に、赤薔薇のチャームが光る。もう二度と使いたくはない、だがいつか使わなければならない時が来るような気がして、毎日手に取っていた。


 不意に扉をノックする音がした。三回、二回、三回。ユーリスと示し合わせた合図だった。リュカオンが鍵を開けると、ユーリスは久しく見ずとも変わらないふにゃりとした笑みを見せた。

「久しぶり。変わりない?」

「大丈夫よ、夜は少し冷えるけれど」

「そっか……今度何か上着を持ってくるよ。被って寝るだけでも少しはましだと思う」

 ユーリスから紙袋を受け取る。中には芋や牛乳や林檎といった食べ物が詰まっていた。魔女は飲まず食わずでも生きられると伝えても、彼はリュカオンを心配し度々こうして食料を持ってきてくれる。どこまでも優しい人だ。この命は彼によって繋ぎ止められたことを毎日のように考えては、奇跡のような人だと思うのだ。

「今日はどうしたの?」

 リュカオンがそう聞くと、ユーリスは一度ううんと唸って、ポケットから何かを取り出した。

「ちょっと見てほしいものがあって……」

 彼の掌には小型の映像記録機があった。側面についたボタンを押すと、水色のネオン光が空間に浮かび上がる。光は長方形の画面を形成し、やがて中央に一人の男が現れた。

『聞こえているかな。機械には不慣れでね、すまない』

 ネオン光で形取られた男の姿は、不鮮明とはいえ整った顔立ちだった。さらりとした短い黒髪に、冴え冴えとした両の瞳。一つ妙だなと思ったのは、妙に煌めく右目だった。

『さて、諸君――おそらくはそうだろう。ユーリス、君はこの映像を他の誰かに見せるはずだ。まあそれでも構わない。何をしようと君の自由だ。だが君が俺の提案を断ることはないだろう。なぜならこれは光芒なのだから」

 耳障りのいい、聞き入ってしまうようでいてどこか危うい気配のする声だった。リュカオンはちらと傍らのユーリスの顔を伺ったが、彼はホログラムから目を離さない。

『本題に入るとしよう。ユーリス、俺は君に興味がある。君の掲げる理想、思想、選択に。その衝動、好奇心、知りたいという欲求に。そこでだ』

 男は指を組み、不敵に微笑んだ。また右目がきらと光る。

『君の好奇心を試す。無知は罪だ。しかし知りすぎることもまた罪だ。そしてその先に必ずしも希望が用意されているとは限らないし、君は決して全知には成り得ない。神の子といえど所詮は人の身。それでも世界を覆すと言うならば、まず火種を暴くことだ』


 マカミとジェヴォーダンの謎を追え。

 彼らが一体何者であったか。君がもし真実に辿りつければ、少しの知識は授けてやる。


『神を落とすか、天を殺すか。選択の礎になれば幸いだ。健闘を祈る』


 ネオン光はするりと解け、後には何も残らない。物言わなくなった記録機を握って、ユーリスはリュカオンに向き直った。

「何か……どんなに些細なことでもいい、何か知っていることがあれば教えてほしい」

 いつになく真剣な眼差し。彼はもう覚悟を決めている。この先に何が待ち受けていようと、真実を追う覚悟を。

 リュカオンは心臓の鼓動を抑えようと必死だった。あの男は危険だと全身が訴えている。だがもうユーリスを止めることは出来ないし、止める資格だってない。力になるか、ならないかなら答えは明白だ。彼には返しても返しきれない恩があるのだから。


 一つだけ、まだ話していなかったことがある。リュカオンはユーリスの美しい両の目を真っ直ぐ見た。話せば真実だと認めるのと同じだと、信じたくなくて黙っていた。だが向き合う時はやって来たのだ。

 リュカオンは途切れ途切れに言葉を紡ぎ始めた。満月夜の夢、月の向こうへ行ってしまった彼女のことを。

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