Karma05:胎動(1)


 2207年12月6日 / 中央区・王都 / 雪 / 月齢:15.3



 薄灰の雲が空を閉ざし、ただしんしんと雪が降り積もっていく夕刻。誰もいない室内では紙を捲る音以外は冷気に吸い込まれて聞こえない。次第に彩度を落としていく窓の外の冬景色には目もくれず、ユーリスは手元の本をじっと読んでいた。


 彼はまた軍内の図書室を訪れていた。ふと頭に引っかかった物事を調べてみたくなったのだ。開架を探し回って見つけた一冊の歴史書は、深紅のハードカバーに金の箔押し。あまり本には詳しくないユーリスには何となく高価そうと思える装丁だった。背表紙には地上地下の公用語で『神教の歴史』とある。


 この世界で目覚めた神はまず人間を創り、その友人として魔女を創った。その男女の子に神はまた友人として魔女を創る。それを繰り返し、世界は人間と魔女の二大種族が暮らす地となった。そして、やがて死した原初の男は、神の慈悲たる輪廻によって再びこの地に生を受ける。

 この神話には続きがある。繁栄した世界において、魔女たちは考えた。人間はもう孤独ではないだろう。我が異能の守護が無くとも強く生きられるだろう。魔女はやがて光なき地下へと目を向け、開拓を始める。明かりを灯し、街を築き、地の底に一国を造り上げた。

「神望の理想郷が為、光の下、影の下に分かれようと何時の日も共に在らん」

 魔女たちはそう残し、みな地下へと移り住んだという。神に与えられた使命に一区切りをつけ、傍ではなく地底深くから人間を見守る者となったのだ。

 

 世界の歴史において、魔女は地下から地上に進出し人類ととされている。しかし一方の神話上では、魔女は地下へと移ったものの人間との交流を一切絶ったわけではない。この世界の歴史上では魔女が地上に進出し、人類と「出会った」のが初めての邂逅で、それまで人類と魔女は地上と地下に分かれ、互いの存在を全く認知しないまま暮らしていたのだ。

 神話と現実の差異を指摘するなど無意味なことかもしれない。神話とは現実から外れているからこそ神性を持つと言われてしまえばそれまでだが、ユーリスがふと抱いた疑問は少し外れていた。


 ユーリスは神話の続きを書物で知った。ほんの子供の頃の話だ。先生が聞かせてくれる神話が気になって、続きを聞かせてほしいと頼んだ。他の子供たちもみな頼んでいたらしい。だが先生はなぜか続きを語ることを渋った。強い拒絶ではなかったが、決まって「続きはご本で読みましょうね」と微笑むにとどめた。

 なぜ先生は神話の続きをすすんで語ろうとしなかったのか。今になって不思議に思い、神教についての本をまた読んでみたのだが、当然答えが書いてあるはずもなく。


 ふう、と溜息をついてユーリスはぱらぱらとページを適当に捲った。最近は魔女による襲撃もほとんどない。ただそれだけであればこの上なく喜ばしいことではあるが、何かを企んでいるのではないかという疑念は晴れず、頭の中に靄がかかったような鬱屈とした気持ちが続いている。

 何か、何か、とこんな本にはありもしない答えを探してページを捲り続けると、一枚の紙切れがするりと机の上に落ちた。端に千切られた後のある黄白色のメモ用紙だった。黒いインクでさらりと書かれた、ある種静謐せいひつな美しさのある文字が目に飛び込む。



『「神話が紛れなき事実であったのは一巡目だけだ」とアルテミスが証言した。俺たちは何か、大事なことを忘れているんじゃないか』



 紙切れが挟まっていたページには、まさに先程までユーリスが考えを巡らせていた神話が引用の形で記載されていた。「一巡目」という言葉に見当はつかなかったが、世界中で信仰される神話そのものを否定する内容や、不安を煽るような疑念の表れ。思わず息を呑むには十分だった。

 メモに署名はなく、書物の全部のページを捲ってみても他に妙な書き込みやメモは見当たらない。図書室には他に誰もいないというのに、ユーリスは周りをきょろきょろと確かめてからメモだけをこっそり抜き取り本を棚に戻した。

 そして図書室の扉を開け廊下と踏み出した瞬間、妙に早く脈打っていた心臓が、今度は危うく止まりかけそうになる。


 暗い青の壁に囲まれた廊下を歩いていたのは、漆黒のローブを纏う三つの影だった。頭から爪先まで滑らかな布で完全に覆われており、素顔は全く分からない。顔があるであろう部分に白で描かれた紋様は、閉じた目蓋から涙が溢れているような柄であった。

 彼らはユーリスの目の前でひたと立ち止まる。静まり返ったその場に溶け込む異様なオーラ。呼吸音さえ聞こえない三人を凝視して、ユーリスは強張る声を絞り出した。

「……上層の」

 ズボンのポケットに突っ込んだメモを握り締める。地上の軍人たちから「上層」と呼ばれる、軍の実権を握る三人の存在がいる。これまでにも上層の名は度々耳にしていたが、ユーリスは大して気に留めていなかった。滅多に人前に姿を現さないと聞いて、直接関わり合いになることはないかと思い込んでいたのだ。


「変種か。久々に見たな。かれこれ一年振りだ」

 真ん中に立つローブの人物がじっとこちらを見ている――ように見える。リーダー格の男は「Fエフ」と呼ばれているらしいが、この人物がそうだろうか。顔は全く見えないので定かではない。背丈はユーリスより少し小さく、声は中性的で耳触りのいい青年のようだった。

「ええと……俺のことですか?」

「他に誰がいる」

「変種、っていうのは、その……聞いたことがない言葉で」

 途切れ途切れに言葉を紡ぐ。あからさまな緊張は向こうにも伝わっているようで、男は僅かに肩をすくめた。

「人でありながら人ならざる者。そして魔女でもない、はぐれの存在。その数は世界中を探しても極僅か。そのうちの二人は死んだ」

 淡々と述べる男であったが、ユーリスにはその語りが造られた調子のように感じられた。努めて平坦に喋っている印象を受ける。両の傍に立つもう二人のローブの人物は依然として息遣い一つも聞こえてこない。

「お前の右目は対ヘカテーに特化したか。奴は神にとっては余程の脅威らしいな」

 ユーリスは思わず眉を顰めた。自分の右目はヘカテーと戦うために特化している? それが神のためだとでも?

「あの、一体俺の目って何なんですか」

 男はユーリスの問いに対し間髪入れずに言葉を返した。


「変種の右目は “神の希望” 。血塗られた歴史を覆すだ」

 

 またも静寂が訪れる。この男が真実を喋っているとは限らない。だが嘘を吐いているようにも思えなかった。神の希望、歴史を覆す可能性。それが何を示すのか判然とせずとも、今までの常識を根本から引っくり返すような大それた話であることだけは分かる。

 半ば呆然とするユーリスを、男は鼻で笑い煽るように言い放った。


「ニルヴァーナに匿われて育ったらしいな。俺を仇と思わないのか?」


 一瞬にして、身体が凍りついたように動かなくなった。指一本動かせないほどの狼狽が胸に渦巻いている。喉の奥が詰まるような、息の仕方さえ忘れるような。

 そう、そうだ。昨日俺自身が言っていたじゃないか。この男がやった。



 こいつが先生シンハ・ニルヴァーナを殺したんだ。



「いつまで死人に囚われる気だ。神の子なら神の子らしく、予定調和を覆してみせろ」

 男はユーリスの傍らをすり抜けていく。くく、と肩を震わせながら。

 

「俺はお前を見ているぞ、フレンツェル」


 もう二人のローブの人物も彼に付き従うように動き出した。未だ動けないユーリスを置き去りに、廊下の奥の暗がりへと進んでいく。

 コツ、コツと、冷え切った廊下の叩き反響する靴音は、どうしてか一人分しか聞こえなかった。

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