血焼き肉裂ける③

 それから、五十二時間が過ぎた。今は関ヶ原が見張りの番だ。

 窓からはくたびれたような夕日の明かりが部屋に差し込んでいる。

「おい、杉越……」

 関ヶ原を横目に、杉越と向かい合ってテーブルに座る。部屋の空気はどこか重たい。

「人って、飲み食いせずに何日生きてられるんだ……?」

「……三日ぐらいだと、どこかで聞いたね」

 僕が織川加奈に食料を与えてから、九十六時間、ちょうど四日間の時間が過ぎていた。

 杉越が最初に見張りを始めるまでにハリネズミ達が餌をやりに行っておらず、そして僕らの見張りに見落としがなければ、この九十六時間にあの公園を訪れた者は居ない。

 僕の『鍵』で閉めた錠は、『鍵』でしか開けられない。この能力はあの時ハリネズミには説明していない。知るタイミングもなかったはずだ。あいつが織川加奈を生かすつもりでいるなら、間違いなくあの倉庫まで足を運ぶはずだ。

 生かすつもりでいるなら。

「僕らの作戦は、読まれているのかもしれない」

 杉越が神妙な面持ちで、外へ目をやった。

 ハリネズミは僕らの前に一方的に姿を現すのを避けようと、織川加奈を見殺しにするつもりなのかもしれない。

「そもそも餓死させるためにあの倉庫に閉じ込めたのかもしれないね」

 ハリネズミは『死にそうな人間』を見るのが好きだと言っていた。その楽しみの一環である可能性もある。

「……何にせよ、ハリネズミが来ないんなら、早く僕らで救出してやった方がいいんじゃないか」

 今まさに、織川加奈はあそこで死にかけているのだ。いや、死んでいてもおかしくはない。しかし、死んでいたとしても、今ならまだ杉越の『左過時計』が間に合うかもしれない。

 それに、餓死するかどうかは、倉庫の彼女だけの問題ではない。この家だって、無限に食料がある訳ではない。いつかは補充に出掛けなければならず、どっちみち外出は必至なのだ。

「……織川加奈。被害者として、その人に聞きたい事もある。よし、助けに行こう」

 杉越が席から立つ。続いて席を立とうとした僕を押しとどめるように、目の前に手のひらを差し出された。

「遥。『支配鍵』を貸してくれ」

「……僕も行くって言っただろ」

 僕は杉越をねめつけた。

「いやいや、そりゃ大事な時は君にも着いて来てもらうけどさ。今はそうじゃないだろう。すぐそこの公園から、女の子をここまで背負ってくるだけだ。これは君の必要のないミッションなのさ」

「でも、もし何かあったら」

「『三人目』はおそらく戦闘向きではないだろうし、針野郎が来た時はこれで何とかするさ。今回の目的は打倒じゃない。逃げるだけなら、この道具は無敵だからね」

 そう言って杉越は手首の『左過時計』を僕に見せつけた。

「それに、君が来ると関ヶ原さんも付いてくるからね。公園付近をオペレートする人間が一人は必要だろう」

 杉越が無線機を関ヶ原に投げ渡した。会話を聞いていたのか、関ヶ原が公園の倉庫を注視したままノールックでそれを受け取る。

「じゃあ、僕と関ヶ原が行く。その『時計』を貸せ」

「それは合理的じゃないなぁ。『左過時計』の扱いに一番慣れているのはもちろん僕だし、諸々の経験も僕の方が上だ」

 なんてったって不老不死だから。と、杉越はそう付け加えた。

 そこで関ヶ原が、こちらを向く事なく口を開いた。

「杉越の言う通りだと思うわ。今回は、杉越一人で行くのが最善だと思う」

 関ヶ原に賛成されてしまうと、これ以上議論の余地はない。吸血鬼捜索隊改め、ハリネズミ掃討隊は二人で過半数なのだ。

 それに、僕にも反論する余地はないように思えた。言い出しっぺとして何かしたかったが、これ以上は駄々のこねようがない。

 心の底からの納得はできないが、ここは杉越に任せるとしよう。

「……分かった」

 頷き、腰を上げてドアまで歩く。『鍵』で開けるためだ。それに杉越がついてくる。

 手のひらから『鍵』を取り出し、錠を開ける。そしてドアを開く前に、杉越に話しかける。

「……死ぬなよ」

 手を差し出し、『鍵』を杉越へ渡す。同時に、指輪に変化したガガも杉越の指へ飛び移った。

 僕の言葉に、杉越は少しだけ嬉しそうな顔を見せた。

「お、今回は心配してくれるのかい。僕らの友情も成長した物だねぇ」

 やれやれ、と杉越は笑った。

「また長生きする理由ができちゃったなぁ」

 杉越がドアを開ける。およそ四日振りの外の空気は、どこか殺伐としていた。

「行ってきます」

 そうして、杉越はこの部屋を出て、突き当りの階段を降りて行った。

 杉越は、『また』と言った。不老不死である彼は、僕の知らない色々な経験をしていて、長生きする理由とやらを他にいくつも持っているんだろう。

 何だかんだで聞きそびれていたが、あいつが無事に帰って来た暁には、今までどんな生き方をしてきたのか聞いてみてもいい。

 僕はドアを閉め直し、充電満タンの無線機を点けた。

 耳元から聞こえる階段を降りる足音を確認しながらリビングに戻る。

「関ヶ原、無線点けろ」

「もう点けてるわ」

 関ヶ原が耳元の髪をかき上げて、無線機を見せた。

 僕も関ヶ原の隣に立ち、窓から外の様子を伺う。視界に入る夕日から、ポジティブな印象はあまり受けられなかった。さっき感じた外の殺伐とした雰囲気をにわかに思い出す。

 何か、ざわざわする。まばらなカラスがやけに目に付く。

『こちら杉越、今エントランスを出たよ』

 マンションの真下の様子を見る。地上から粒のような杉越が真上に手を振っていた。

「こちら関ヶ原。周りに怪しい人影は居ないわ」

「……無駄な事してないでさっさと行け」

『それは僕を案ずるが故の言葉だと受け取るよ。了解』

 杉越は変わらず軽い雰囲気で答えた。実際その通りだったので、何も言い返せなかった。

 その内、こちらを見上げる視線はなくなり、公園へと歩き始めた。

 関ヶ原が言う通り、事件の事もあって通行人は全く居ない。ガガとララが反応していない事から、死角に潜まれている事もなさそうだ。

 何か近くの建物に隠れられているとしたらお手上げだが、あいつの事だから瞬時に避けるぐらいはするだろう。

 そうこう考えている内に、杉越が倉庫の前にたどり着いた。ポケットから僕が貸した『鍵』を取り出すのがここからでも見えた。耳元の無線機からも、ごそごそとした音が聞こえる。

 次に、その『鍵』を錠に押し付ける、こつんとした軽い音。そして次に聞こえるのは倉庫の錠を開く音。ではなく、

 ぎゅる。という、空気が歪むような音だった。

「え」

 杉越の背後に突如、空中に不気味な音と共に輪っかが現れた。そこからナイフを持った腕が生え、杉越へ突き刺した。

 肉と鉄が擦れ合う音がした。

「……おい!杉越!今の音は何だ、どうなってる!」

 見間違いだと思った。こんな遠くから見ているから、きっと何かの見間違いだと思った。願った。

『あー……、「ワープゲート」、かな。これは』

 空中の腕が、また空中へ引っ込んで行く。その様子を後ろ目に見た杉越が、掠れた声でそう答えた。

 無線機の不調ではないなら、彼は血を吐いていた。

「……『三人目』は戦闘向きの能力じゃなかったのかよ!」

『いやぁ……さっきの「ワープゲート」は多分、「三人目」じゃないね。人を捨てれる大きさじゃなかった』

 いつか、ガガから『ワープゲート』という道具について説明を受けた事を思い出す。さっき用いられた『道具』がガガの知る『ワープゲート』であるならば、確か手のひら分の大きさしかないというサイズ制限があったはずだ。

「じゃあ、『四人目』が居たって事か……!?」

 契約者は一つの街に、多くて三人程度じゃなかったのか。そう問おうとしても、ガガは今杉越の手元にある。

『……そうなるね。いやぁ、甘く見過ぎた。こんなのばっかりだ……』

 杉越の声と共に、ごぽりと不穏な音がする。喉で彼の血が逆流しているのか、あるいは。

「っ、杉越!早く『時計』を使え!お前の体を戻して、このマンションに帰れ!」

『いや、僕の予想では……』

 そこで、彼の悪魔、ララが側で口を開いた。

『悪魔の気配がするわぁ』

 それは、ハリネズミの家で聞いた台詞と一緒だった。

「……杉越、あなたの後ろから一人、男がそちらに向かっているわ。おそらく、あいつよ」

 関ヶ原が努めて冷静にオペレートする。その方向を見ると、そこにはハリネズミが居た。

 杉越を狩るつもりなのだろう。

『やっぱり、まだ使う訳には、いかないみたいだ』

 無線機越しに、沈着とも、諦観とも取れる声が聞こえる。

「……!僕もそこに行くぞ!」

 窓から離れ、玄関へ走る。

『……駄目だ。遥』

「お前、その傷で走れるのか!?『左過時計』は二十四時間に一回なんだろ!?一人じゃ逃げ切れない、けど、もう一人居ればまだやりようはあるだろ!」

 半分、自分に言い聞かせるように無線機に叫ぶ。勝算は全くない。

 玄関の靴に、乱暴に足を突っ込む。

「まだ、僕が要らないミッションか!?」

『……っ』

 杉越からの答えはない。それを聞く前にドアを開けた。

「石橋」

 背後から関ヶ原の声がする。

「私も、付いて行くわ」

「……お前は、ここに待機しててくれ」

「嫌よ。あなたばっかりわがまま言って、私だって」

 関ヶ原が玄関へ近づく。その行動を手のひらで、その言葉を言葉で遮る。

「作戦があるんだ」

 片足を外に出しながら、声が震えないように喋る。

「助けたいんだろう?」

 あの時の関ヶ原の台詞を真似る。嘘だとばれないように、堂々と。

 関ヶ原は、数瞬止まった後、得心したように鼻を鳴らし、踵を返した。

「偉そうに……」

 そう言った後、ベランダへと小走りで戻って行った。

「……そもそも僕が先輩だろうが」

 後ろ手で勢い良くドアを閉め、無線機が声を拾わないように呟き、階段を駆け降りる。『憑き札』に追いかけられた時以来の全力疾走だ。

 エントランスを飛び出て、関ヶ原にオペレートを頼む。

「今、杉越はどうなってる!」

 荒い息がノイズにならないように、気を使いながら喋る。

『こちら杉越、ただいま針野郎と接触……』

 答えたのは杉越だった。全力疾走で無線機にあまり集中できてない僕でさえはっきり分かるほど、杉越の声から生気が失われていた。この短い時間で、彼はどれだけ失血したのか。

 それが逆に、僕の足を強めた。これ以上は駄目だ。僕は血が嫌いなんだ。

『こんにちはハリネズミ』

 ハッタリを効かせた、冷静ぶった声だった。杉越がハリネズミと対峙する様子が思い浮かぶ。

『こんにちは時計野郎。どうした?時計は使わないのか?ここからは見えないが、背中の傷が痛々しいぞ』

 小さいながらもハリネズミの声も聞こえる。それだけ、杉越に近い場所にあいつが立っているという事だ。

「関ヶ原!二人の位置は!」

『杉越が倉庫の前。その5メートル前方のハリネズミと向かい合ってる』

 アスファルトの上を駆ける。公園まで、あと曲がり角一つ。

『ああ……くそ。何か失敗続きだ。この前も予想を外して、こんな風に死にかけた。こんなんじゃ先輩風吹かせられないなぁ……同級生だけど』

 杉越がまるで関係のない事を言う。それは、彼がもう時間稼ぎするしかないという事を表していた。

『いいや時計野郎。あの時とは違うさ』

 曲がり角を抜ける。ビー玉が擦れる音と、ハリネズミが構える所が見えた。無線機を介さない、ハリネズミの声が聞こえる。

「お前は生き返ることなく死ぬ」

 じゃらら。という音と共にビー玉の雨が杉越に降りかかる。

 杉越は即座に上着を脱いで振り抜き、いくつかを払ったが、その半数をその身で受けた。絶命に至るに、十分な量の穴が杉越に空いた。

「……なーにが上着一枚で無効化できる、だよ。こういう開けた場所じゃ、焼け石に水だな」

 杉越が地面に倒れ、赤い水溜まりが跳ねた。

「杉越!」

「……おお、お前も来たのか。えっと、鍵野郎」

 ハリネズミが僕に振り返り、ねめつける。

『おいおい……自分から、場所知らせて、どうする……』

 絶え絶えに杉越の声が無線機から聞こえる。無線機がなければ、聞こえないぐらいか細い声になっていた。前に穴だらけになった時より酷そうだ。救急車じゃ助からないかもしれない。

 けど、大丈夫だ。まだ『左過時計』がある。あれさえ有れば、すぐに杉越は無傷に戻る。

 まだ使えない。今、戻しても、ハリネズミからもう一度針爆弾を喰らうだけだ。

 ハリネズミと真っ向から睨み合う。『左過時計』が使えるのは、こいつをここから遠ざけてからだ。

 だが、どうする。

「さて、じゃあ『時計』を奪ってから、お前を殺すとしよう」

 ハリネズミが杉越に向き直り、歩き始める。

「っ、待て!」

 もし、『左過時計』がこいつの手に渡れば最悪だ。杉越は戻れず死ぬし、ハリネズミを倒す事はほぼ不可能になるだろう。

 しかも、今の杉越にはそれに抵抗する方法がない。体は動かないだろうし、『左過時計』は今ほとんど役に立たない。

 どうにかそれを止めようと駆け寄るが、まずい。間に合わない。

 そう思った瞬間。杉越の手元から、何かが飛んだ。

「っ!?」

 ハリネズミがそれを見て体をねじり、回避する。そしてハリネズミの脇を通り、それは真っ直ぐに僕へ飛行した。

 人間の早歩きと同じスピードで。

 そして、僕の指先に届く。それは、『憑き札』で運ばれた、『支配鍵』と『左過時計』だった。

 それが僕の指先、マーカー『C』に触れた瞬間、『札』が消え始める。運ばれてきた二つの道具を落とさないように、急いで掴んだ。悪魔達が扮している指輪とストラップも付いて来る。

「『憑き札』の余りか……!味な真似を……」

 ハリネズミが消えていく『札』を見て忌々しそうにそう言った。

 そういえば、ハリネズミの家を見つけるために使った『憑き札』。確か、ビニール袋に二三枚残っていたのを思い出す。

 いや、今はそうじゃなくて。

『遥……。「鍵」、返すよ。それから、その「時計」も、あげる』

「……おい、貸す。だろ。あげるって、なんだよ」

『今から関ヶ原さんを呼んで、この前みたいな交渉に持って行こうなんて、思うなよ。こんな開けた場所じゃ、接近戦に持ち込む事は、できない』

 杉越が絞り出すような声で、僕へ忠告する。

「だから!あげるってなんだよ!?」

 杉越が僕の問いに答える事はなかった。

『……逃げろ』

 血が滲み、染み、混ざったような呟きを、僕に残しただけだった。

 ハリネズミが、僕を目掛けて駆けて来る。

「……くそっ!」

 倒れる杉越を視界から消して、逃げる。

「逃げるな鍵野郎!」

 ばちっ。というアスファルトにビー玉が跳ねる音が足元からする。

「ぐぅぅっ」

 体制を崩し、足をもつれさせながらも強引に跳ぶ。直撃は避けたが、肘に割れたビー玉の破片が掠り、浅い傷を残して行った。

 転ばないように足を地面に食い込ませるように踏む。

『石橋!もう一回来るわよ!』

 初めて、関ヶ原の大声を聞いた。それだけ、今の僕は絶体絶命に近いのだろう。

 咄嗟に曲がり角に逸れる。背後で針がアスファルトに打ち付けられる音がする。真っ直ぐ走っていれば、あれを受けたのは地面ではなく僕だっただろう。

「……っ!」

 さらに方向転換を重ね、マンションと逆方向を目指す。

『駄目よ石橋!その距離じゃ撒けない!』

 走る僕の背後で絶え間なく、僕を脅すように針とビー玉の割れる音がする。振り切ることは出来なさそうだ。

『マンションのエントランスに入れば、そいつももう手出しできないはずよ。ここは真っ直ぐマンションを目指して……』

「……そしたら、杉越はどうなる」

 足の方向は変えない。マンションは目指さない。

「僕が逃げ切れば、ハリネズミはあの公園に戻って、杉越の死体を見張るぞ。『左過時計』で、戻せなくなる時間まで」

 走りながら、『時計』を握りしめる。

『……あと二十四時間あるわ。その間に作戦を……』

「その間に『三人目』が来て、杉越を隠すかもしれない。今この間にも!」

 一般人を巻き込まないように、大通りを避けたルートを走る。距離が縮んでいるのか、五感が研ぎ澄まされていくのか、針の音がより鮮明に耳に届く。

 あいつが僕が追って来ている。ピンチだけど、チャンスでもある。

「やるなら今しかないんだよ!」

 叫ぶように走る。走るように叫ぶ。

『やるって、何をよ』

 関ヶ原が動揺した声を出す。

「ハリネズミを……殺す」

『殺すって、どうやって……』

 僕の言葉を突き刺してズタボロにするように、針の金属音が連鎖する。

「話は終わったかぁ!?鍵野郎!」

 ハリネズミは追撃の手を緩めない。足元を掠っていく針を辛うじて避けて、軽傷に抑える。大きな怪我をする訳にはいかない。この『左過時計』は杉越のために使うのだ。使用権を残しておかねばならない。

「そっちはマンションじゃねぇだろう?もしかして、俺を殺して、あの時計野郎を助けようとか思ってんのか?だとしたら絶望的だぜ。分からない奴だなぁ」

『……あなたは、何で』

 ハリネズミと、関ヶ原の声が重なる。

「どうしてそこまで?」

『どうしてそこまで!』

 体中のエネルギーを、片っ端から次の足へ注いだ。喉にも、少し。

「僕が一番知りたいよ、そんな事!」

 口調も荒げて叫ぶ。

 体が勝手に動く。あの時と一緒だ。関ヶ原を夢中で助けた、あの時と一緒だ。

 頭が勝手に回る。この際だ。全部、本当の僕にやってもらおう。

 上手く行くか分からないけど、体が動くままに、思いつくがままに。

「はっ、馬鹿かお前っ!」

 直線、針爆弾が耳の真横を掠っていく。

「っ、危っ」

『石橋っ……-、--』

 無線機が壊されてしまった。走っている内に、耳から外れてしまう。

 耳元で、ビー玉が割れる音がリピート再生される。それでも、恐れるな、恐れるな!

 そして走り抜け、ついに目的地、僕が住むアパートに辿り着いた。

「こっちだ、ハリネズミ!」

 僕の部屋、203号室へ向かうために階段を駆け上がる。二階に上がり、廊下を走る。

 203号室前で止まり、『鍵』使用してドアを開けて体を部屋に滑り込ませる。

「待てよぉ!」

 もう一度『鍵』を使用する。一度錠の部分に当ててしまえば後は自動で開閉される。僕はドアからバックステップで距離を取った。

 そして完全に閉まろうかという瞬間、ドアの隙間に針爆弾が投げ込まれた。針がつっかえとなって無理矢理にドアの動きを一瞬だけ止める。

 その一瞬に、ハリネズミは体を差し込んだ。

 完璧にハリネズミが侵入した後、ドアがばたんと閉まる。

「惜しかったなぁ、鍵野郎」

 ハリネズミの息が、暗く狭い僕の部屋に渡る。先程まで走っていたからか、それとも獲物を前にした興奮か、その息は荒れていた。

 僕の部屋に、僕以外の人間が存在するのは、悪魔を除けば初めてだ。僕の部屋に、殺人鬼が居る。

「……っ」

 体の震えを押さえ、部屋の奥へ向き直り、鬼ごっこを再開する。

「随分狭い所だなぁ、お前んちかぁ?ここ」

 土足のまま、台所へ駆ける。

「この狭さで鬼ごっこは無理だろ!」

 ハリネズミの腕が風を切る。ビー玉が割れる音と、肉に針が刺さる音がした。

「うっ、ぐ、あああっ!」

 右足に焼けるような激痛が走る。何本だ、何本刺さった?動く。まだ動く!

 自分を鼓舞するように、強く右足を前に出しスピードを維持する。台所へ、台所へ。

「ううっ、う」

 ふらつく、右足の怪我と焦りのせいで上手く足が交互に出ない。細い台所の中で、シンクやガスコンロに腕がぶつかる。

「どうした?包丁でも取りに行くのかぁ?」

 背後から急かすように、ハリネズミの愉悦交じりの声が来る。

 大丈夫だ。焦るな。

 ここまでは計画通りなんだから。

「はぁっ」

 息を辛くしながら、台所のその奥へ辿り着く。

「自分から行き止まりに行くのか。あんまり舐めてもらっちゃ困るなぁ」

 ハリネズミの足音は遅い。余裕を持って歩いている。

 舐めるなというのは、こっちの台詞だ。僕が安心安全を目指すようになってから、何年過ごしたと思ってる。

 この家にはあらゆる物がある。災害時の食料、ライト、ラジオ。他にも、火事になった時のための消火器などが、この台所に設置されている。

「喰らえっ!」

 ハリネズミが台所に現れた瞬間に、顔面目掛けて消火器を噴射させる。

「なっ……!?」

 奴の視界を塞ぐ。更に、消火器その物をハリネズミ目掛けてぶん投げる。

「うおらっ!」

「ぐっ」

 ハリネズミは避けれず、消火器の重さを受け、その場に倒れた。

 その間にシンクとガスコンロの上に登って走り、ハリネズミの脇をすり抜ける。

 この狭い空間で目も見えないとなれば、自傷のリスクも高まり、うかつに針爆弾は使えないはずだ。

「ふっざけんな!」

 ハリネズミが、瞬時に上体を起こして『ペン』その物を振り回す。そのペン先が、走り抜けようとする僕の右足に当たる。

 そして、次の瞬間、右足に新たな傷が生まれる。そのショックと足場の悪さで、僕はシンクから廊下へ転がった。

「が、ぐぅうう」

 まずい。右足が、冷たい。さっきまで、熱くて爛れそうだったのに。肉が千切れそうになっているのに、冷たい。

 もう微かにしか動かない。倒れたのもまずい。起き上がる事すら、今は難しい。

 来る。早くしないと、ハリネズミの視界が回復する。

 もう少し、もう少しなんだ。思い描いていた作戦はほぼ成功してる!後は、この『左過時計』さえ渡さなければ、守り切れたら!

「おおおおおっ!!」

 冷たいという感覚が残っている内に、右足を酷使する。もうこの先、動かなくなってもいいから、今、この瞬間、後数歩のために!

 立ち上がり、トイレに駆け込む。無論、『鍵』を使用して。

 バタンという扉の閉まる音と同時に、ビー玉の割れる音がした。

「はぁっ、はぁっ」

 密室の中でへたり込む。

 間に合った。

 その後、『ペン』が扉を叩いた。能力で扉越しにこっちへ攻撃できないか試してるみたいだ。

 しかし、針がこの密室に突き出てくる事は決してない。

「……この『鍵』で閉じられた物は、閉じている間、頑丈になる。言ってなかったな、あの時は」

 ガガが言うには、無敵。そして悪魔は噓をつかない。

「……勝ち誇ってるのか?だとしたら、惜しかったと言ってやるぜ」

 ハリネズミが苛立ちを抑えるように笑った。

「お前はここに俺を閉じ込めたつもりかも知れないが、それは違う。俺の『ペン』は、穴を開ける『ペン』なんだ。時計野郎を、穴ぼこにしたようにな」

「……それで?」

「何も、あんな細い穴からここを出て行くつもりはない。けどな、その細い穴を密集させたらどうなると思う?」

 トントンと、『ペン』が廊下を叩く音がする。

「その『左過時計』を貰えないのは残念だが……あの時計野郎とお前の右足。それに対して俺が差し出す物は何も……」

 ハリネズミが自慢げに話す。僕はそれを遮った。こいつの真似をして。

「勝ち誇ってるのか?だとしたら、見当外れと言ってやるよ」

「……ああ?」

「お前が抜け出る事できる程大きな穴を開けるのに、一体どれだけの時間が掛かるんだ?何も、お前を閉じ込めるだけが、僕の目的じゃない」

 右足から血が止まらない。狭いトイレに、血の匂いが充満する。

 あの時、杉越は串刺しになって血塗れになりながら、余裕を崩さずこいつを責めて見せた。そんなシーンを思い出した。

 ハリネズミからの反応はない。

「……まだ気が付かないのか?そうだな、思い切り消火器を噴射したからな。僕の血もいくらか廊下に有るだろうし、匂いで気付けというのは酷か」

 僕がそこまで言ってやっと、扉の前から廊下を走る音がした。

 そして台所からがつがつと、複数のガス栓を閉めようとする音が聞こえる。しかし、それは無駄だ。

 ガス栓にも、ロックという錠としての概念が有る。

「この『鍵』で開閉された物は、この鍵でしか開閉できない。……これも、言ってなかったな」

 そして足音が、この扉の前に戻ってくる。

「もっかい聞く。お前が抜け出る事できる程大きな穴を開けるのに、一体いくら掛かるんだ?それはこの狭い安アパートの一室にガスが充満するより早いのか?」

 ハリネズミからの反応は、ない。後はガスが充満するのを待つだけだ。

 僕は血の匂いを外に出すためにトイレの窓を開けた後、トイレットペーパーやシャツで右足を止血する事にした。

「あぁー……そうか。ここまで、なのか」

 先程までの荒々しい声じゃない。まるで他人事のような声でハリネズミはぼやいた。

「……妹が居たんだ」

 そして、全く関係のない事を言った。

「何だ、急に」

「遺言みたいな物だ。黙って聞いてくれ。妹が居たんだ」

 僕は無視して、止血作業を続けた。

「そんでもって俺は穀潰しだった。ニートって奴だな。何も楽しくなくってさぁ、四六時中部屋でごろごろしてたよ」

 ハリネズミは一方的に、感傷を押し付けるように喋り続けた。

「そんな俺を、妹は甲斐甲斐しく世話し続けた。『お兄ちゃんは私が一生守る』って。家事が上手くて気遣いが出来て、優しくて。本当によくできた妹だったよ」

 粘っこい、恍惚とした不快な声が扉を震わせる。

「死ぬときの顔も最高だった……」

 全身に力が入る。自然と、拳を握っていた。

「何で、どうしてお前みたいな奴がっ……!」

「おーおー、結構分かりやすいなお前」

 ハリネズミはふざけた口調をやめる事はなかった。

「……挑発か?僕が我を忘れてここを出るとでも?」

「んー、そういう狙いも無きにしも非ず、だ。けどこれはやっぱり遺言だ。妹の遺言。だって悲しいだろう?」

 暑い。窓を開けているのに、生暖かい血の匂いが中々外へ出ていかない。

「あいつ、友達がいなかったんだよ。俺の世話してるせいで。楽しい事なんて何もない。灰色の人生を送っててさ。もしかしたら俺の世話を生きがいにしてたのかもな。けど、その俺に嬲られて、誰にも覚えてもらえないまま死んで行くんだぜ?悲しすぎるだろ」

 蛆虫のような、白く、不気味な物体が耳にまとわりつくようだった。

「だから、せめて妹が生きていたって事、誰かに覚えてて欲しくてさ」

 僕は振り払うように扉を叩いた。

「じゃあ、殺すな、最初から!」

「いやぁ、そいつは無理な話だな。だってそれが俺の『やりたい事』だったんだもん」

 扉の向こうでがたん、という音がした。

「あー……くらくらしてきた。さっすが安アパート。もう部屋がガスでいっぱいだぜ。さて、もう一言だけ言わせてもらおうか。これは遺言でも、勝ち誇りでもない、負け惜しみなんだが……」

 奴の道具、『ペン』のキャップを閉める音がした。

「時間稼ぎは終わった。何も、閉じ込められたのは俺だけじゃない。お前も、そこに閉じ込められてるんだぜ?」

 時間稼ぎは終わった?何のためだ?こいつは何を待っていた?……負け惜しみ?

「お前っ……!」

 扉の隙間越しに、充満する血の匂いをすり抜け、薄いガスの匂いが漂った。

「覚えてて欲しいとか言っといて、悪いな。一緒に死んでもらう」

 窓からの脱出を試みる。けれど、窓が狭い、血塗れの右足がもつれる。

 熱風が僕の身を包む。

 間に合わない。

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