血焼き肉裂ける②
朝、目が覚めると、目の前に関ヶ原の顔が。なんて事はなく、むしろ同じベッドに関ヶ原は居なかった。
先に起きて寝室を出てしまったのだろう。僕も顔を洗うために、頭を搔きながらベッドから足を降ろした。すると、足の裏に何か生柔らかい物が当たった。
視線を下げると、僕に踏まれた関ヶ原の顔があった。
「……っ」
「んぶ……」
関ヶ原の唇から寝言とも寝息とも取れない何かが発せられる。それが直に僕の足の裏を震わせ、僕の体に様々な物が迸る。
ぞわり、ぞくり。そんな感じの何かが。
「うおっ」
とにかく僕はほとんど後ろに倒れるようにして、関ヶ原の顔面から足を引き剥がした。
「んぅ……、知らない天井ね……」
床から関ヶ原の声が聞こえる。体制を元に戻し、足元を覗く。そこに安らかな寝顔はなく、目付きの悪い少女が天井を睨みつけていた。
「……おはよう」
関ヶ原に頭上から挨拶を投げかける。
「おはよう。ここはどこ?石橋」
「杉越の家の寝室だよ。お前が昨日ソファーで寝落ちしてたから、杉越がここに運んだ」
「……そう」
関ヶ原は床の上でむくりと起き上がった。
「お前、寝相悪すぎないか」
「あぁ……落ちちゃったのね。肩が痛いわ」
関ヶ原が肩をさする。
「……鼻も打ったかしら」
鼻もさする。後者の痛みはおそらく僕のせいだが言わないでおいた。
「寝相が悪いって、寝る前にちゃんと報告しておくつもりだったのだけどね」
報告してどうにかできる問題だろうか。
そこで、関ヶ原の腹からぐぅ、と音がした。
「昨日は晩御飯も食べずに寝てしまったのね。お腹がペコペコだわ」
お腹がペコペコ。そんな可愛らしい言い方をする奴だっただろうか。もしかしたら少し寝ぼけているのかもしれない。関ヶ原は相変わらず真顔で、表情から読み取れる物は少なかった。
「行きましょう。石橋」
関ヶ原が立ち上がり、寝室を出ていく。僕もベッドから腰を上げ、後を追う。
ついでに寝室の時計に目を向ける。短い針が9。長い針が12。九時丁度を指していた。
今日も平日。僕は生まれて初めて、学校を遅刻、いや、これからサボる事になった。
僕を狙う殺人鬼が街に潜んでいるので仕方ないけれど、高校に入学してから初めての休みだったので、少しだけ残念だった。
「やぁ、おはよう。二人共」
廊下を歩きリビングへ出ると、窓の前に立つ杉越から爽やかな挨拶が送られる。
しかし、爽やかな声と裏腹に、その姿からは疲弊が感じられた。
「おはよう」
「おはよう……あなたここで何してたの?」
関ヶ原が杉越に向けて問う。そういえばこいつにはまだ話していなかった。
「あそこを見張ってるんだ。昨日の夜からずっと」
杉越が例の公園の倉庫を指差す。
「どうして?」
「おそらくハリネズミ、もしくは『三人目』が少女へ餌をやりに現れるだろうから。当面は僕ら三人であそこを見張ろうという話になったんだけど……関ヶ原さんは何か異論はあるかな」
「……ないわ」
関ヶ原は少し考えた後、首を縦にした。
「それで、僕はもうそろそろ眠い……。どっちか代わってくれないか」
杉越が眠たそうに目を擦った。
「それじゃあ、石橋。お願いできるかしら」
「……別にいいが。何でだ」
「朝ご飯を食べたいからよ」
関ヶ原はそう言うが早いかキッチンへ小走りした。戸棚を開ける音が聞こえる。
「それじゃあ、僕は眠るね。何かあったら起こしてくれ」
とぼとぼと寝室へ歩いて行った。彼らしくない、何というか、キレのない動きだった。眠いのだろう。
軽く息をついて、ベランダの窓に肩を預け、倉庫、及びその周辺に視線をやる。このマンションからは、僕らの学校の屋上が少しだけ見える。
僕らのクラスメイトは、命を危険に晒したりせず、変わらずあそこで授業を受けているのだと思うと、何だか不思議な気分だった。
倉庫に視線を戻す。朝の日差しを受けたそれは、人気のなさも相まって何だか寂しげだった。あの中に、織川加奈は囚われている。
人は、飲まず食わずでは三日で死ぬとどこかで聞いた。
昨日、あの倉庫に誰も訪れなかった事を確認した後、『憑き札』での襲撃。更にハリネズミの家での攻防。奴らに倉庫へ行く暇はなかっただろう。
おそらく、僕が初めてあの倉庫を開けて以来、奴らはあの倉庫に訪れていないはずだ。
つまり、奴らは一昨日、僕が彼女に食料を与えた事を知らない。奴らの中では、織川加奈は約四日間、何も食べていない事になる。
今日にでも、遅くても明日にはあの倉庫を訪れるはずだ。
「石橋」
背後から声がかかる。
「何だ」
倉庫から目を離さず返事をする。
「朝ご飯、あなたも食べるでしょう?何がいい?」
後ろでガサガサと荒らされる音がする。関ヶ原が戸棚を漁っているのだろう。そしてどうやら僕の分も作ってくれるようだ。
「何でも……、いや、みそラーメンがいい」
何でもいい。と答えかけたが、やめておいた。下手物を食わされる予感がしたのだ。
「了解」
キッチンから出てきた関ヶ原が給湯ポットに手をやった。勝手知ったるといった風だ。
そして三分の間に、お互い見張りを交代しながら顔を洗った。二人共洗顔を済ませて三分が経った頃、関ヶ原が僕の下へみそラーメンを持ってきた。
「はい」
「おう」
みそラーメンを受け取る。関ヶ原のもう片方の手には、みたらし団子味なるものが握られていた。
「いただきます」
関ヶ原がみたらし団子麺をすする。
「……美味いか?」
「とても不味いわ。予想通りよ」
そう語る関ヶ原の横顔、その真顔には、後悔の色は見えなかった。僕は理解を放棄してみそラーメンをすすった。
喉から内臓へ、熱い物が流れていく。織川加奈は、今頃どれだけ腹を空かせているだろうかと、ふと思った。
「見張り、何時間で交代するの?」
「んー……、四時間くらいが妥当じゃないか?」
「了解。四時間後ね」
関ヶ原は頷いて了承した後、テーブルに戻って行った。
僕も倉庫から目を離さないで、みそラーメンをすすった。
「ごちそうさま」
関ヶ原が食了を宣言する。テーブルに着いてから一瞬だった。早い。何のためにテーブルに戻ったんだあいつは。
一昨日の昼休み、屋上での関ヶ原を思い出す。あの時もゼリー飲料を一瞬で飲んでいた。どうやら早食いが得意らしい。フランスパンには何時間も掛けていたが。
そして僕の下へ来た。
「……どうした」
「する事がないわ」
「監視交代まで寝溜めしといたらどうだ?」
「眠くないわ」
そう言って僕の足元で体育座りをした。どうやら心底暇なようだ。そこで僕は、関ヶ原にまだ伝えていない事があったのを思い出した。
「そうだ、関ヶ原。『吸血鬼』の事だけどな。正体はあいつだったよ。杉越だった」
「……?」
関ヶ原が何を言っているんだこいつは、というような目で僕を見る。僕も今まで、幾度となく杉越と関ヶ原をこんな目で見てきたが、見られる側に回るとは心外だった。
何か言ってやろうかとも思ったが、説明した方が早そうだったので、視線をスルーして説明を続ける。
「あいつの持ってる『時計』。どんな能力か説明されただろう?杉越はあれを使って、毎日自分の体を戻してる。『不老不死』なんだ」
関ヶ原がはっとする。理解して貰えたようだ。
「……杉越が……不老不死……」
関ヶ原の真顔が少し震える。僕も昨日、こんな風に驚いてやれば杉越も喜んだのだろう。
また、関ヶ原の声には驚愕以外の感情があるように思えた。神様を目指す者として、『不老不死』の存在には思うところがあるのかもしれない。
「杉越が自分から言ったの?」
「いや、僕が言って、それを杉越が認めた」
「……そう。……彼、まだ眠ってるかしら」
関ヶ原が腰を浮かせて寝室の方角を見てそわそわする。色々聞きたい事があるのだろう。
「一時間しか経ってないし、寝てるだろ」
「……そうね」
関ヶ原が浮かせた腰を元に戻す。関ヶ原にもこんな風に昂ぶる時があるんだなと思う。それだけ神様に執着しているのだろう。
「お前、神様にしてあげるとか言われても知らないおじさんに付いて行ったりするんじゃないぞ」
「……そのおじさんの雰囲気に依るわ。何か超越的な物を感じたら付いていくし、関わろうとする」
ふわっとした基準だ。そのセンスがちゃんと機能しているか甚だ疑問だ。
「だから杉越を吸血鬼捜索に誘った訳だし」
ちゃんと機能しているようだ。
「今思えば、その吸血鬼本人を誘っていた訳だから、我ながら間抜けね」
関ヶ原が変わらず真顔で自嘲する。
神様志望のイカレた女子に、自分を捜索するプロジェクトに誘われる杉越を思い浮かべる。とても笑顔だったのだろう。事の
改めて窓越しに倉庫を見つめる。あの冷たく暗い鉄の中で彼女は手を縛られて横たわっている。それでも、僕らの方がマシとは言い切れない。殺人鬼に命を狙われている。
「後、あいつ、僕達を巻き込んだ事を後悔してたよ」
「……意外。後悔するのね。杉越みたいな奴でも・・・案外お人好しなのかしら」
意外、案外。関ヶ原にとっても、あいつの落ち込んだ顔は想像しづらいらしい。直に見た僕も、上手く思い出せない。
「……なぁ、関ヶ原。お前この部屋に閉じ込められるつもりはないか」
「ないわ」
即答だった。
「……死ぬかもしれないんだぞ。折角助けてもらった命を大事にしようとかないのか、お前」
「ないわ。誰に救われようと、私の命だもの。使い方は私が決める」
いつもと変わらない声で関ヶ原は言った。
「あなたへの義理を通すため、この命は使う」
「……僕への義理を果たしたいなら、ここで全部終わるまで待っててくれ。それが僕の願いだ」
「嫌」
一文字だった。
「大体、あなたも行くのでしょう?特に理由も無く」
関ヶ原がまるで自分で聞いたかのように言った。
「……起きてたのか?あの時」
「いいえ。でもどうせ、杉越相手にそんな事を言ったのでしょう?」
関ヶ原の言う通りだった。こいつも杉越も、なんで僕より僕に詳しいんだ。
「お前、僕の事どう思ってる?」
「お人好し」
関ヶ原ははっきりとそう言った。反論する要素は少なかった。
「あなたは私の事を助けた癖に、私はあなたを助けてはいけないの?理不尽よそんなの」
関ヶ原は頑なだった。
「何で、そんなに僕への恩返しにこだわるんだ?神様になるのと何か関係あるのか?」
「ないわ。でも、誰かに命を救って貰っておいて、のうのうと暮らすのは、私自身が納得できない。その借りを返さなくては気が済まない。私が」
関ヶ原は『私が』という部分を強調した。
「……お前もお人好しなんじゃないのか?」
こいつも杉越もついでに僕も、僕ら皆お人好しだ。良いチームになれそうだ。
溜息をつく。結局こいつを説得するのは無理そうだ。
「何とでも呼ぶがいいわ」
体育座りをやめ、すっくと立ち上がった。
「絶対に、恩を返す。いつかあなたを助ける」
関ヶ原が真顔で宣言する。そんな事を言う剣幕ではなかった。
そしてそのまま廊下へすたすたと歩いて行った。
「どこ行くんだ」
「闇部屋。適当に本でも読んで時間を潰すわ。四時間経ったら呼んで」
その後、廊下から扉を開き、閉める音がした。
闇部屋。おそらく一昨日見た、奇物だらけのあの部屋を言っているのだろう。違和感のない表現だった。
そしてリビングに一人になる。倉庫へ注ぐ視線を、ちらと指に回す。
「ガガ」
僕がそう呼ぶと、指輪から返事が返って来た。
「はい、何かご用でしょうか。遥さん」
「お前、僕の事どう思ってる?」
さっき関ヶ原にした同じ質問を、ガガに投げかける。
「虫……でしょうか」
あまりに低い評価に、一瞬膝を崩しかけた。
「私達、悪魔の多くは人間に対して強い感情を抱くことはありません。ほぼ無関心です。どこでどう生き死にしようとあまり気にしません」
まぁ、確かに、そうでなければあんな人殺しにしか使えないようなの道具を渡したりはしないだろう。
「いや、そういうのじゃなくて、僕個人の性格について聞いたつもりだったんだが」
「あぁ、そういう事なら……『お人好し』でしょうかね」
同じ問に、同じ答えが返って来た。
いつしかガガが言っていた、関ヶ原が悪魔に近いというのは満更嘘でもないのかもしれない。
お人好し……その評価を胸で反芻する。
自分の命を賭けて他人を助ける。そんな奴はお人好し。確かに、そう考えるのが自然だ。僕の正体を、そう片付けてしまう事はできる。
しかし、僕自身はそれがしっくりこない。何か、違う気がする。それだけではない気がする。
では一体僕は何なのか、何がしたいのか。
動きのない倉庫を眺める。何も変わらないまま、分からないまま、四時間はあっという間に過ぎた。
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