第58話 とびきりの朝
朝食はパンにサラダに目玉焼きと、簡単お手軽なメニューが並んでいます。それでも普段とは違う場所で、気の合う親しい人達と食卓を囲めば、十分おいしそうに感じられます。
早速「いただきます」をしたいところですが、まだ一つ席が空いています。この別荘での最後の食事になりますし、やはり全員揃ってからの方がいいでしょう。
「わたし、先生呼んでくるね」
誰も何も言わないうちから、率先して立ち上がります。クラスのまとめ役の学級委員長として、実に自然な行動です。あわよくば先生の寝起き姿を見たいなどといった、いかがわしい動機が混じる余地などありません。
やけにうきうきとした足取りで、柚原さんが食堂を出ていくと、
向かい合って座った二人の視線が合いますが、言葉を交わすこともなく、気まずそうに逸らしてしまいます。喧嘩でもしたのでしょうか。そのうえ二人とも顔が赤くなっているところを見ると、お熱でもあるのかもしれません。
「歌葉ちゃん、ゆうべ本山さんと何かあったの? 様子がやらしいよ」
おっと間違えてしまいました。「やらしい」ではなく、「おかしい」と言うつもりだったのですが、誤差の範囲なので良しとします。
歌葉ちゃんは激しく身動ぎしてガタガタと椅子を鳴らします。
「な、なんのことだ? な、何もあるわけないだろ? なあ、
歌葉ちゃんは声を引っ繰り返しながら、私の心配をきっぱりと否定します。同意を求められた本山さんも、こくこくとせわしなく頷きます。どうやら私の気のせいだったみたいです。
「千紗と、歌葉は、なかよし」
ニコちゃんがおもむろにのたまいます。歌葉ちゃんはガタンと椅子を倒して立ち上がります。
「ばばば、馬鹿言うなよっ、あたしと千紗が仲いいなんて、そんなことあるわけっ……」
沸騰したように乱れた歌葉ちゃんを、本山さんがじっとりした目付きで見上げます。歌葉ちゃんは身を竦めると、急激に勢いを落とします。
「……ないこともない、かもしれないけど、わざわざ言うほどのこともない、けど言って困るもんでもない、ような気がしたりしなかったり?」
よく分りませんが、とりあえず結論としては二人は仲良しで合っているようです。ニコちゃんのお告げに間違いはありません。
「……
「お前はまた唐突に何を言ってんだよ」
倒してしまった椅子を直しながら、歌葉ちゃんが一子ちゃんの代わりに突っ込みます。ですがいつものようなキレに欠けています。原因を推測するのは簡単です。
「歌葉ちゃん、すっかり縹さんに見限られちゃったね。かわいそうにね」
「おい
「……本当に……哀れですね……」
歌葉ちゃんはこめかみに血管をもりもりと浮き上がらせて、縹さんの後ろに回り込みます。
「なあ縹、夏だってのに暑苦しい黒い服ばっか着てたら、肩が凝るだろ。あたしが揉みほぐしてやんよ」
長身と握力に物を言わせて、縹さんの肩にずぶずぶと指先をめり込ませます。頑固な凝りもいちころです。
「……痛っ、痛いです……こんなことされたら……ボクまた……
縹さんが恍惚と身悶えします。心は一子ちゃんに転んでも、体はまだ歌葉ちゃんを覚えているようです。
「わたし、わたしもちょっと、凝ってるかも、かも」
本山さんは物欲しそうにもぞりと肩をくねらせました。
「せんせー、さつきせんせー、起きてますかー。朝ですよー」
「先生、いいですか。開けますよ。いいですね」
これだけ呼びかけたのだ。万一着替えの最中だったり、まだあられもない姿で寝ていたとしても、史恵に罪はない。完全なる不可抗力だ。
そうっとノブを回して、ドアを開ける。カーテンは引かれたままだ。薄暗い部屋の中に足を踏み入れ、真っ先に視線を向けたベッドは空だった。だが史恵は慌てない。
隅を探す。すぐに見付かる。膝を抱えて座り込んだ安定のスタイルだ。
「もしかして、一晩中その格好でいたんですか?」
だとしたら運転への影響も考えないといけないが、さつきは首を横に振った。
「朝が来たので、日の当たらない方へ避難していたんです。太陽とはあまり相性がよくないんです。明るいと辛い気持ちになってくるんです」
「それは大変ですね。ごはんの用意できましたけど、食堂まで来られそうですか? もしおっくうだったら、わたし、先生の分を運んできますよ」
それと、もちろん自分の分もだ。
「食堂ですね。行きます。私のために余計な手間を取らせるわけにはいきませんから。自分の食べる物があるだけでも恐れ多いです。むしろ自分なんかに食べられてしまう物が気の毒です」
「言っておきますけど、全然大した料理じゃないですから。すいません。先生はみんなで旅行みたいなのは苦手に決まってるのに、車の運転とかお願いしちゃって、なのにろくなおもてなしもできないで、申し訳ないなって思ってます……先生、実は怒ってたりしませんか?」
「そんなことはありませんよ。柚原さんが謝る必要もありません」
さつきは穏やかに微笑んだ。史恵の胸は高鳴った。こんな表情をするさつきを初めて見た。
「一子ちゃん……
「へー。『一子ちゃん』に『あの子』、ですか。本当にずいぶん親しかったみたいですね。一子さんはわたしよりずっと優秀ですもんね。さぞかし頼りになったんでしょうね」
つい平たい調子になってしまう。だがさつきを困らせたいわけではない。回りくどい駆け引きはやめだ。ここは直球で勝負する。
「わたしだって、もっと先生の助けになりたいって思ってます。一子さんみたいな凄い人にはなれないけど、先生が転びそうになった時に、隣りで支えてあげられるようになりたいんです。わたしじゃ駄目ですか? 頼りになりませんか?」
引かれないだろうか。かえって重荷に思われたりしないだろうか。そんな不安を押さえつけ、頑張って気持ちをぶつける。さつきは頼りなく視線を揺らしたが、最後にはまっすぐ史恵を見つめた。
「柚原さん、前にも言いましたけど、私は本当にあなたに助けられているんです。あなたのいない一年一組なんて、とても考えられないぐらいです」
「先生……嬉しいです。ずっとそう思ってもらえるよう、これからも頑張ります」
「ありがとう、柚原さん。それなら私はいなくてもいいですね。二学期からのクラス担任は柚原さんにお任せしますね」
「あはは、却下です。さつき先生がいない一年一組なんて許しませんから!」
学級委員長の権限のもと、史恵は力強く宣言した。
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