第57話 夜の散歩をしないかね

 夜の砂浜にひとけはなかった。海を眺めてもただ一面の黒が広がるばかりだ。ときおり強く吹きつける風が、素肌を乱暴に撫でていく。千紗ちさは身震いして腕をさすった。


「上着、着てくればよかった、かな、かな」

 それでもまだ戻る気にはならない。体の外は冷めてしまっても、内にはじんわりと熱がこもっている感じがして、ベッドに入っても眠れそうになかった。

 波打際に向かいゆっくりと歩く。さすがに水浴びなんてできないけれど、手をぱしゃぱしゃ洗わせるだけでもきっと気持ちいいだろう。


「千紗っ!」

 波に触れようと屈み込んだ千紗の背中を、強い響きを持った声が叩いた。

歌葉うたは、さん……?」

 すぐに身を起こして振り向く。長い手足を振って駆けてくる人影を、暗い中でも見誤ったりはしない。

 けれどここに現れた理由が分らなかった。


「歌葉、歌葉さん? どうかしたの、したの?」

「どうかしたの、じゃねえよ!」

 息を切らせて走り寄った歌葉に、いきなり怒鳴られる。千紗はびくりと身を竦めた。


「一人で黙っていなくなるとか、お前は馬鹿か? 小っちぇえガキじゃあるまいし、もっと周りのことも考えろよ」

 歌葉は本気で苛ついているふうだった。もし四月に同じクラスになったばかりの頃だったら、たぶん怖くて下を向くしかできなくなっていた。

 だけど今は違う。千紗は歌葉を知っている。


「ごめん、ごめんなさい。柚原ゆずはらさんには言って、言ってきたんだけど。ちょっと、ちょっと浜辺を、散歩してくるって、くるって」

「そんなん知るか。いくら言ったからってな、行き先も何も分らなけりゃ……え。言ってきた? 柚原に?」

「う、うん」

 歌葉は黙り込んだ。少ししてから、決まり悪そうに尋ねる。


「それって、はなだも知ってることか?」

「一緒に、一緒に部屋にいたから、聞いてたはず、だけど、けど」

「あいつ、あとでしばく」

 拳を手のひらに打ちつけると、歌葉はふっと力の抜けた息を吐いた。


「ごめん、千紗。ちゃんと確かめないで、でかい声出したりして」

「ううん、いいの。心配、心配してくれたんだよね。ありがとう。嬉しい、嬉しい」

「……じゃ、戻るか」

 歌葉は背中を向けようとした。


「待って、待って」

 その服の裾を、千紗は掴む。

「な、なんだよ? まさか今さら暗いのが怖いってわけじゃないだろ?」


「もし、もしよかったら、少し、少し歩かないかなって、かなって。せっかく、せっかく二人きり、なんだから、から」

 歌葉の肩が強張った。千紗は早くも後悔しかけた。さらに強く誘うこともできず、薄い布地を握る手に、いたずらに力を込める。


「離してくれ。服が伸びる」

「ごめっ、ごめんなさっ……」

 小石が喉に詰まったような気分で、固くなった指を一本ずつ引き剥がし、ようやく開いた手を、歌葉に逆に掴まれた。


「え、え……?」

「散歩、するんだろ。あたしもそんな気分なんだ。一人でうろつくよりはいいしな」

「わたし、わたしも、いい、いいと思う、思う」


 砂を踏む音が潮騒に紛れて消えていく。星の光に照らされた波打際は、モノクロームの夢の世界のようだ。ふと我に返った時には、もう思い出せなくなっているかもしれない。それは、嫌だ。


「歌葉さん、歌葉さんは、わたし、わたしのこと、どう、どう思ってるのかな、かな」

 聞かない方がよかった。歌葉が驚いたような顔をしたのを見て、千紗は唇を噛んだ。だが問いをなかったことにもできないうちに、答えが返ってきてしまう。


「友達だろ」

「そう、だよね。だよね」

 千紗は歌葉の友達だ。ただのクラスメートより一つ上、よく一緒にいるグループの中の一人。どこも間違ってない。文句を言う立場じゃない。


 握った歌葉の手に爪を立てる。ごく軽く。痛くないぐらい。だけど気付いてはもらえるぐらいに。歌葉はこっちを見なかった。千紗は指を緩め、暗い水平線に視線を逃がした。歌葉が足を止めた。


「……今はまだ、な」

「え。え?」

 風に流れた囁きをちゃんと確かめたくて、背伸びをして顔を寄せる。歌葉は急に早足になると、千紗の手を強引に引っ張っていった。

 もし今この時が夢だとしても、絶対に忘れない。千紗は思った。

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