第52話 どきどきタイム

「おねえちゃん、はなして。あつくなってきた。ニコ、もうでる」

 体を拭き終え、替えのパンツをはいたところで、私はぴたりと動きを止めます。特に深い意図はありません。扉が開いたら即行で振り向くかもしれませんが、あくまで反射的な行動です。


 カラカラと引き戸が滑る音がします。謎の光線も、自分で目をつぶってしまうのも、入浴剤も、全てお呼びではありません。私は気合を入れ直して四度目の正直に臨みます。


 指でまぶたを広げながら待ち構えていると、あり得ないほど大量の湯気が押し寄せます。しかしこの事態は想定済みです。

 私はパジャマを手に取ってばったばったと扇ぎます。虚心坦懐に努力をすれば、成果は自ずと現れます。湯気はみるみるうちに晴れていき、もはやニコちゃんの胸部と下腹部をわずかに覆うばかりになっています。ここまで来ればあともう一息です。


「ふぅーっ」

 肺を限界まで膨らませて溜め込んだ空気を、瞬時に解き放ちます。神風です。ついに全ての湯気が吹き散らされます。


「ひょっとこの真似でもしているの?」

 酸欠に耐えながら面を上げる私の前で、一子いちこちゃんがバスタオルでニコちゃんをくるんでいます。


「まだあとに入る人がいるんだから、ふざけていないでさっさと出なさい。しっかり水分を取って、暫くゆっくりするといいわ」

「……そう、だね」

 私は多量の汗をしたたらせながら頷きます。お風呂で摂取したニコちゃん分は、既に5,000キロカロリーを超えています。今はこれで勘弁してあげます。


 ですがまだ終わったわけではありません。ディナーが済んだのなら、お夜食をいただけばいいのです。きっと禁断の味がすることでしょう。希望を胸に抱きながら脱衣所を出ると、はなださんが廊下に正座しています。


「何してるの?」

「……一子さまの、残り湯を……いただこうと思って……」

 縹さんの傍らには空のペットボトルが置いてあります。容量は2リットルです。

 どういうふうにいただいてしまうつもりなのか、私にはまるで見当もつきませんが、あとの処理は一子ちゃんにお任せしたいと思います。


     #


 悲鳴がやんだ。リビングのソファに座る歌葉うたは史恵ふみえは、まじまじと顔を見合わせた。

「終わったか?」

「みたいだね」


 史恵の言葉にかぶせるようにして、少女の体が床にどさりと投げ出される。綾乃あやのだ。白目をむき、口からは泡を噴いていた。ほこほこと立ち上るのは石ケンの匂いである。

 転がした綾乃に、一子が無表情につま先を向ける。


「洗っておいたわ。適当に片付けておいてちょうだいね」

「はい、お疲れさまでした。歌葉さんお願い、手伝って」

「毎度世話が焼ける奴だな。おら縹、こんなとこで寝てたら邪魔だっての」

 ぐったりした綾乃の体を二人がかりで引き起こし、ソファーに座らせる。史恵だけなら大仕事だっただろうが、歌葉は力持ちだ。


「ニコは?」

「和室にいると思います。たえちゃんが湯あたりしたみたいで、少しふらふらしてたから、休ませたら一緒にいるって」


「分ったわ。ありがとう。あなた達もお風呂どうぞ」

「はい」

「うっす」

 一子はそのまま和室へ向かった。歌葉はぐっと伸びをする。


「じゃ、入ってくるか。三人一緒でいいよな?」

「そうだね。あ、でも……」

 リビングの片隅へ視線を向ける。さつきが膝を抱えて座りながら、ウイスキーグラスをちびちびと傾けている。ちなみに中身はぬるい白湯だ。


「先生はどうしますか? 運転でお疲れでしょうし、もしよかったら、その、わたしがお背中を……」

「私は最後でいいです。最後がいいです。最期は誰もが一人なんです」


「意味はよく分んねえけど、とにかくさつきちゃんはあとにするってことだな。千紗ちさ、行こうぜ」

「うん、うん……お風呂、お風呂だよね。歌葉さん、歌葉さんとお風呂、お風呂……」




 歌葉と史恵が一緒に入浴するのはこれが二度目だ。全く意識しないわけではないものの、服を脱ぐ手が止まるようなことはない。

 だが千紗は違った。ぎこちなくもどうにか下着姿にまではなって、だがブラに指を掛けたところで固まっている。

 既に全裸になり、タオルで適当に前を隠した歌葉が、からかうような調子を作った。


「どうしたんだよ千紗、そんなに恥ずかしいのか?」

「恥ずかしい、恥ずかしいかも、かも……」

「……そ、そっか」

 千紗が耳まで赤く染めて身を縮こまらせると、歌葉も今さらのように体を覆うタオルを上下左右に引っ張り始めた。少しでも面積を広げようというつもりらしい。


「だ、だよな、そういう年頃だもんな、しょうがないよな、あれだ、思春期ってやつ? だからあんま気にするなよ、別に全然普通のことだからよ」

「あはは、歌葉さんまで恥ずかしくなってきちゃったみたいだね。乙女だなー」


「ば、馬鹿やろっ、そんなんじゃねーよ! あたしは全然平気だっての!」

「それならタオル取ってみなよ。で、千紗ちゃんの前で堂々と仁王立ちするの」

「なっ?」


「に、仁王立ち、仁王立ちって……」

 千紗は真っ赤な顔で歌葉を見つめた。歌葉はだんだん混乱してきた。

「……ち、千紗がそうしてほしいって言うなら?」


「大丈夫、大丈夫だから! ちゃんと脱げる、脱げるから、ほらもう脱いだ、脱いだ!」

 火がついたような勢いで下着を取り去り、真っ裸になった千紗から、歌葉はそっと目を逸らした。

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