第49話 さざめき

「その時はあたしがどうにかしてやんよ。たえに怪我はさせねえ。ただちょっとばかり痛くするだけだ。嬉しいだろ?」

「痛いのはちょっと、ちょっと……だけど歌葉うたは、歌葉さんに守ってもらえるなら、我慢できるかな、かな……」


 歌葉から少し遅れてついてきた千紗ちさが呟く。ごく小さな声だったので、感知できたのは高性能な百合レーダーを備えた者だけだろう。

 結局ニコは転ぶことなく一子いちこの元までたどり着いた。残りの三人もすぐあとに続き、これで生徒は全員集合である。史恵ふみえは笑顔を作って皆を迎えた。


「おかえり。楽しんでるみたいだね」

柚原ゆずはらは何してたんだ? もし体調が悪いとかだったら、遠慮しないで言えよ。ちゃんと医者のつてもあるからよ」


「ありがと歌葉さん、大丈夫だよ、全然そういうのじゃないからさ」

 本気で心配されると少しばかり後ろめたい。もしかしたら微熱ぐらい出ているかもしれないが、風邪などでないのは確実だ。


「ねえ柚原さん」

「なあに、妙ちゃん」

「さつき先生は?」


「ガハッ、ゲフッ、ゴホッ」

「どうしたの、大丈夫? 先生と何かあったの? みんなの前では言えないようなことなの?」

 ジュースが気管に入って咳き込む史恵に、妙が背中をさすりながら追い込みをかける。


「何もないわ。あるわけがないでしょう」

 ニコにイカ焼きを食べさせていた一子がふいに口を挟んだ。援護された形のはずなのに、史恵は思わず言い返してしまった。


「……どうしてですか。わたし達と一緒にいたわけでもないのに、勝手に決めつけないでほしいんですけど」

 これではさつきの部屋に行っていたのがバレバレだが、一子は問題にもしなかった。


真野まの先生だからよ」

 史恵は唇を噛んだ。理屈になっていないのに、やたらと説得力があった。どういう意味かと質したい。一般論としてか、史恵ではつり合わないという意味なのか、それともさつきに関して何か史恵の知らない情報を握っているのか。例えばもう誰か特定の親しい相手がいるとか。そしてそれはもしかして――。


「なんだよ、なんでこんな変な空気になってるんだ?」

 歌葉が困惑したように首を振る。

「千紗、なんかいい話題とかないのかよ。場がぱあっと明るくなるようなやつ」

「そんな、そんなこと急に、急に言われても、ても」


「妙は。そもそもお前がさつきちゃんのこと持ち出してから、変なふうになったんだぞ。責任取ってなんとかしろよ」

「分ったよ歌葉ちゃん。ちゃんと責任取るね。ニコちゃんを私のお嫁さんにするよ」


「あなたは何を言っているの? イカの餌になりたいの?」

 一子が白い腕を触手のようにしならせた。防御力の弱い水着姿であんなものに巻き付かれたら、失神KO必須だろう。史恵は想像するだけで腰の辺りがぞわりとした。


「妙、馬鹿、余計緊迫させてどうすんだよ!」

「あはは、落ち着いてよ、歌葉さん。別になんでもないんだからさ。変な気を遣わせちゃってごめんね。二子ふたこ先輩もすいません」

 明るく頭を下げてみせる。一子はニコの口元の汚れを拭ってから、雅な微笑を史恵へ向けた。


「気にすることはないわ。だけど礼儀正しいのは大切なことね。楽しい旅行にするためにも、お互い節度を守って楽しむようにしましょう」

「はい、本当にそうですね。ありがとうございます」


「私は少し泳いでくるわ。ニコはどうする?」

「ニコ、ちょっとおやすみする」

「じゃああとでいらっしゃい。一緒に泳ぎましょう」


「ん、そうする。ニコも、おねえちゃんと、もっとおよぎたい」

「待ってるわね。歌葉さん、妙ちゃんがニコに手を触れないよう監視しておいて。お願いできるかしら?」


「うっす。了解っす」

「……ボクも、行きます……一子さまと……一子さまが……ボクに、水責め……」

 一子が海へ向かい、穴から這い出した綾乃あやのが後を追った。


「やれやれだな。とりあえず無事に収まったみたいでよかったぜ」

 見送った歌葉はふうっと息をつくと、呆れと感心が入り混じったような表情で史恵を見た。


「しっかし柚原って怖いもの知らずだよな。よく一子さんを睨んだりできるな。見てるこっちの方がびびったぜ」

「大袈裟だよー。わたしは睨んだつもりなんてなかったし、もちろん一子さんと喧嘩したいなんて思ってないよ……それに本当に勝負をかけるとしたら、夜だもんね……さつき先生の部屋に忍び込んで、ジュルッ……」


「お、おう。なんか知らんけど、ほどほどに頼むぜ」

「あれ、わたし今口に出してた?」

「いや、よくは聞こえなかったけどさ。ちょっとぐらいなら、羽目外したっていいんじゃねえか。やっぱ泊まりは楽しいからな。なあ妙?」


「そうだね、歌葉ちゃん。いつまでも思い出に残る夜にしたいよね!」

 レジャーシートに横たわるや、秒で寝息を立て始めたニコを、ニコニコと眺めながら妙が言った。史恵は心から頷いた。


(「海水浴 ―朝と昼―」了。「海水浴 ―夜と朝―」に続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る