第48話 封印

 相手にされないかとも思ったが、さつきはヤドカリのようにもそもそと毛布から這い出てきた。

柚原ゆずはらさん……?」


「はい先生、いかがですか。わたしと海で泳ぎませんか?」

「夏の直射日光に曝されて海で泳ぐ……そんな恐ろしい真似を、私がすると本気で思っているのですか?」

 心底恐ろしそうに、さつきはぶるりと身を震わせた。


「あはは、実はあんまり思ってないです」

「そうですよね。私なんかが海に入ったら、周りで楽しんでいる人達に迷惑です。頑張って生きているプランクトン達に失礼です。一応念のため持ってきた水着は、値札も取られないまま持ち帰られるんです。そして永遠にクローゼットの奥に封印されるんです」


「先生、水着持ってきてるんですか? 見たいです、見せてください!」

「無理です。私は見せたくありません。むしろ誰も見るべきではありません」

 瞳をどんより曇らせ、再び毛布の中にもぐり込もうとするさつきを、史恵ふみえはなだめて引き止める。


「分りましたから。水着はあとでもいいです。でもせめて浜辺には出ましょうよ。先生としては、生徒を見守れる場にいた方がいいはずですよね」

「私がいてもどうせ役に立ちません。委員長の柚原さんが気をつけるようにしてくれれば、問題はありません」


「でもさすがにわたし一人だけだと、全員にまで注意が回らないです。だいたい今まさに現在進行形で目を離しちゃってますし」

一子いちこちゃ……二子ふたこさんのお姉さんもいるんです。心配いりません。私は邪魔にならないようにしてればいいんです」


「……一子ちゃん。一子ちゃんですか。へー」

 さつきが誰かをちゃん付けするのを初めて聞いた。半眼になった史恵から、さつきはすっと顔を逸らした。


「……運転で疲れてるんです。寝させてください」

「それなら、わたしも少しお昼寝しようかな。あっちは二子先輩、先生からすれば一子ちゃんに任せておけばいいですもんね」


「……いいんじゃないでしょうか」

「ではお言葉に甘えて。失礼しまーす」

 史恵はさつきが掛けている毛布をめくり上げた。


「柚原さん? 何をしているんですか?」

「お昼寝するんです。いいって言いましたよね」

「違います。私と一緒に、という意味ではありません。当り前でしょう」

 さつきは反対側に寝返りを打った。胎児のように背中を丸める。


「柚原さんは、こんなことをする人ではなかったはずなのに……やっぱり私のせいよね。私なんかの近くにいるから、優等生の柚原さんに悪い影響を与えてしまったんだわ」

「そうですよ。先生のせいです」

 史恵は息を整えると、ベッドに上がり、さつきの隣に横たわった。

「だから責任取ってくださいね」


 そして背中から抱きつこうとした時、さつきが再び寝返りを打った。

 相手の顔が文字通り目と鼻の先にある。ちょっと身動ぎでもすれば、どこかが触れることになってしまいそうだ。


 さつきはきっと怒っていない。ただどうすればいいか分らないように、瞳が戸惑いに揺れている。

 それは史恵も同じだった。自分が取るべき行動について、ともすれば空回りしそうな頭で、検討を進める。二人きりの部屋で、一緒のベッドに入って、何をすればいいのだろう。


 何って、それはもちろん……。

 瞬間湯沸かし器さながらに、体が急速に熱くなる。史恵は転がるようにしてベッドから抜け出した。


「熱い、じゃなくて暑いですね! わたし海に入って冷ましてきますね! あ、先生もよかったらぜひ! こんな冷房が効いた部屋に閉じこもってたら、体が冷えちゃってよくないですよ!」


 矛盾したことを口走りながら、さつきのいる空間から離脱する。決して怖気づいたわけではないんだ。史恵は自分に言い聞かせた。ただ、今は少し早いというだけなんだ。




 史恵が砂浜に戻ると、綾乃あやのはまだ埋まっていた。ずっとこの状態でいたのだろうか。もしぐったりしているようなら、真っ先に熱中症を疑うべきところだが、一子の差し出した串にはむはむとかじりついているさまを見る限り、特に問題はなさそうだ。


 クーラーボックスからジュースを取り出す。綾乃に食べ物を与えていた一子が顔を上げる。史恵はひそかに身構えた。

 別荘からここまで歩いてくるうちに、大方の落ち着きは取り戻したつもりだ。少なくとも、顔には出ていない自信がある。しかしなにしろ相手は一子だ。頭脳明晰なのは当然として、勘や五感も相当鋭そうな感じがする。


 もしかしたら、さつきの移り香がしているのかもしれない。だってあんなに傍近くにいたんだから。

 駄目だ。思い出すとまた顔が赤くなってくる。余計に怪しまれてしまう。

 史恵はどうにか心を無にしようと試みたが、一子の関心は別の方へ向いていた。


「ニコ、いらっしゃい。イカ焼きを食べるでしょう?」

 片手の串を綾乃の口の中に押し込むと、もう片方の手付かずの串を掲げてみせる。

「ん、たべる」

 歌葉うたはに手首を引かれたニコが、表情は変えないままに、とてとてと駆け出してくる。


「こら、急に走って転ぶなよ」

 手を払われた歌葉が尖り気味にたしなめると、ニコのすぐ後ろをぴたりと追尾するたえが、さあ来いとばかりに両腕を広げた。

「そしたら私が抱き止めてあげるね。だけど支えきれなかったらごめんね。くんずほぐれつしながら砂浜に倒れ込むけど、わざとじゃないからね」

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