第46話 人と魚の関係についての考察

「きゃっ」

「痛っ」

 私が苦労して移動した先に、未確認遊泳物体が同時に突っ込んできます。そもそも私が元の位置で大人しくしていれば、何事もなく通り過ぎて行ったような気もしますが、目下のところそれは大した問題ではありません。

 遊泳物体がまるで女の子のような悲鳴を上げたのです。まことに驚きの事態です。


「ごめ、ごめんなさい、藤木ふじきさん、こっち、こっちに来るって思わなくて、なくて」

 遊泳物体が喋ります。というか本山もとやまさんです。恐るべき衝撃の事実の発覚です。泳ぐ人間は実在しました。


「私こそごめんね。怪我とかしなかった?」

「ううん、なんとも、なんともないよ」

 まずはお互いの無事を確認します。水中なので、ぶつかった勢いも小さいです。それに浮き輪もクッションとしての機能をまっとうしました。やはり泳ぐ際には必携です。


「本山さんって、泳ぐの上手なんだね」

 海を泳ぐのは主に魚の仕事です。私は人としてどうかとやんわり問い質します。本山さんも己の異常性を自覚したのか、私の浮き輪を見て少し気まずそうにします。


「一応、前にちょっと、ちょっとだけ、習ってたことあるから。藤木、藤木さんも、よかったら練習してみ……」

 本山さんの言葉をかき消して、豪快かつ爽快な水音が私達の前を過ぎります。

 波を切って軽々と羽ばたく両腕、水面を力強く蹴りつける両足、愛らしくぴこぴこと上下する小さなお尻、そして太陽よりなおまぶしく輝くお顔の持ち主は、私の伴侶たるニコちゃんです。


「……わ、わ、バタフライ? すごいな、二子ふたこさん、すごい。フォーム、フォームもとってもきれい」

 華麗に泳ぎ去っていくニコちゃんを、本山さんが感嘆して見送ります。


「ね、すごいよね、さすがはニコちゃんだよね!」

 生命の源は海です。遥かな過去に陸に上がった生き物は、幾千万幾億年の時を経て、今再び海へと還ります。きっと人という種は、ニコちゃんを海に解き放つために進化したのでしょう。飛び魚も脱帽です。


「勉強、勉強も一番だし、アンティーク、アンティークドールみたいに綺麗、綺麗だし、二子さんに弱点とかって、とかって、あるのかな」

「ないよ。だってニコちゃんだもん」

 独り言のつもりだったのか、私の返しに本山さんは困ったふうにわたわたします。


「違う、違うの、二子さんの駄目、駄目なところを探そう、みたいなつもりじゃ、なくて、なくて」

「もちろん分ってるよ。ニコちゃんを悪く思う人なんていないもんね」


 万が一いたとしても、世界によって速やかに排除されてしまいます。

 ニコちゃんはそれほど特別な存在ですが、ではそんなニコちゃんにふさわしい相手は、やはり特別であるべきでしょうか。ふと考え込んでしまいます。


「藤木さん? どうか、どうかした?」

「どうもしないよ。ニコちゃんの素敵さを改めて噛み締めてたの。噛めば噛むほど味が出ておいしくなるもんね。本山さんもそう思うよね」


「どう、どうかな。ところで歌葉うたは、歌葉さんは? さっき、さっきまで藤木さんと一緒、一緒じゃなかった?」

「歌葉ちゃんなら、下半身がむずむずしてもう我慢できないからって、一人でする気持ちいいことをしに行ったよ」

「一人、一人でするって、気持ちいいことって、それって、それって」


「ここでしちゃえばって言ったんだけど、そんな恥ずかしい真似ができるかって。誰かに見られながらするより、閉じこもってじっくりする方が、すっきりできていいみたいだよ」

「そう、そうなんだ……」

 顔を赤らめた本山さんは、水の中に沈んでいきました。




「ふぅ、すっきりしたぜ」

 溜まっていた欲求を解放した快感のあまり、歌葉はついはしたないことを口走った。


 比較的奥まった位置にあるとはいえ、トイレは誰もが立ち入れる場所だ。現に今も、男子小用の方から二人連れが出てきたところだ。後ろ姿だけからでもチャラい印象を受けるのは、歌葉の偏見だろうか。

 いずれにしろ近付きたくはない。歌葉は口元をきゅっと引き結び、前を歩く男達との距離を開けるため足を緩めた。


「おい、見たかよ。さっきすげぇ美人がいたぞ」

「マジでか。こんな地味な浜に?」

 だが男達の会話に注意を引かれる。まさか自分のことだとは思わない。それでも心当りなら十分あった。


「この辺って昔からの避暑地でな、金持ちの別荘とか結構あるんだよ。たぶんそのどっかから来たんじゃねえかな。いかにもお嬢様って感じだったし。色白くて黒髪ロングで、背はちょい高めだけど、スタイルは文句無し」

「男は?」


「連れてなかった。ってか一人だった」

「一人で来たってことか?」

「それは分んねえけど、近くの別荘の子だとしたら、可能性はあるな。試しに声掛けてみるか。たぶん屋台の方に行ったと思う」


「とりあえずなんか奢らせてもらって、あとは流れしだいってとこだな」

「お前得意だもんな。流れのままごり押すの」

「任せろ」


 任せるか、カス野郎。歌葉は後ろから尻を蹴り飛ばしてやりたくなった。男ってのはこんな奴らばっかりなのか。

 もちろんむかついたからというだけで、何かをするつもりはない。しかし放置する気にもなれない。男達が話していた美人というのは、ひょっとしなくても一子いちこのことではないか。

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