海水浴 ―朝と昼―

第42話 わくわく

 朝から目も眩むような夏空が広がります。張り切り過ぎの太陽が、熱と光を惜しげもなく地上に降らせ、今日もまた猛烈な暑さになることを約束します。

 普通ならうんざりしてしまうところでしょうが、私達の気分はむしろ逆です。


たえ、屋根の下に入ってろよ。熱射病になるぞ」

 神楽坂かぐらざか邸の厳めしい正門の陰から、歌葉うたはちゃんが注意します。言葉はいささか乱暴ですが、声音は明るく弾んでいます。


「そうだよ妙ちゃん。楽しみなのは分るけど、それならなおさら、あとに備えて体力を温存しておかないとね」

 学級委員長の柚原ゆずはらさんも、しかつめらしく忠告します。同級生に比べてお胸が大きいのをいつもは気にしているようですが、今は膨らみを強調するみたいな線の出るシャツを着ています。温存した体力でいったい何をするつもりなのでしょう。少女の胸には桃色の夢が詰まっています。


 本山もとやまさんは大人しやかに口を閉じたまま、それでも二人に同意するように頷きます。ときどき白い丸帽子の下から歌葉ちゃんを見上げては、目が合うやいなやすぐに逸らすという動きを繰り返しています。最近流行っている遊びとかでしょうか。歌葉ちゃんがやけにどぎまぎ反応していることからすると、何らかの弱みを握っている可能性もありそうです。

 黒ずくめの格好をしたはなださんは、舌を突き出してハァハァと喘ぎながら歌葉ちゃんの足元にお座りです。普段通りで安心です。


 さて私は別に好きで直射日光を浴びているわけではありません。これから私達は一泊二日で海水浴へと出発します。みんなが心配する通り、行く前から体調を崩していてはお間抜けが過ぎるでしょう。


 しかし私達にはまだ一番大切なものが欠けています。私はその降臨を待っているのです。

 それはさつき先生でしょうか。確かに重要です。私達は先生の運転する車で、海まで乗せてもらう予定になっています。それでも海は逃げません。もし先生が体育座りのし過ぎにより、急に来れなくなったとしても、電車を利用すれば済むことです。

 私達の海水浴で、絶対になくてはならないものとは何でしょう。


「あ、ニコちゃん!」

 ピンポンピンポン、大正解です。

 私は飛び跳ねながらぶんぶんと手を振って招きます。


 道の向こうから二つの人影がやってきます。一つはすらりと背が高く、姿勢の良さとあいまって、伝統工芸の人形のような雅さです。貞心ていしん女学院高等部生徒会長、熱心な支持者からは百合の女王の異名で呼ばれる一子いちこちゃんです。

 そして一子ちゃんに手を引かれ、一子ちゃんの差す日傘の陰に入りながら、世にも美しくきらめいているのは、海より尊いニコちゃんです。


 私に気付いたニコちゃんが、胸の前に挙げた手を振り返します。私は涙が出るほど感激します。その仕草は「あなたと永遠に添い遂げます」という意味です。私が今そう決めました。


「おはようございまーす」

「はよっす」

「おは、おはようございます、ます」

 二子ふたこ姉妹を迎えて、柚原さんと歌葉ちゃんと本山さんが挨拶します。


「おはよう。ニコ、あなたもちゃんと挨拶なさい」

「おはよう」

 ニコちゃんがぺこりと頭を下げます。一子ちゃんは縹さんの頭に足を乗せます。一子ちゃんを見るなり五体投地した縹さんの鼻息が荒くなります。


「ちょっと先輩、人んちの門の前で何してんすか」

 慌てた様子で詰め寄る歌葉ちゃんに、一子ちゃんは涼しいまなざしを返します。

「見ての通り、足置きで足を休ませているわ」


「それ、一応人間の頭っすからね。早くどけてください。縹もいつまでそんな格好してんだよ。人に見られたら何かと思われるじゃねえか」

「……ボクはどう思われても……構いません……」

「あたしが構うんだよ。変な評判が広まったらどうしてくれる」


 怒られても、縹さんは歌葉ちゃんにお仕置きをねだりません。ひたむきなまなざしは、ただ一子ちゃんの方に向いています。新たな主従関係締結の予感です。

 寝返り問題の解決は当事者達に任せ、私は麗しい友愛関係の構築を試みます。


「ニコに何か用かしら?」

 しかし私はニコちゃんをお持ち帰りしようとした手を止めます。瞳に絶対零度の光を湛えた一子ちゃんが凝視しています。この先に踏み込むのは危険だとゴーストが囁きます。


「ニコちゃんがあんまり可愛いから、手をつなぎたいって思ったんだよ」

 木を隠すには森の中です。私は本音を本音で上書きします。嘘ではないので虚偽答弁には当たりません。百合力制裁の発動を回避します。

「ん。て、つなぐ。妙、かわいい」

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