第38話 補習 その2

たえちゃん?」

 私のただならぬ様子に柚原ゆずはらさんも気付いたようです。しかし私に返事をする余裕はありません。意識を極限まで集中させて、すんすんと鼻を利かせると、空気に混じるかぐわしい流れを追跡します。


 間違いありません。発生元は教室の外にあって、もうすぐそこまで来ています。私は戸口の方を振り向きます。まさにその瞬間に扉が開き、隙間から黄金色の光が射し込みます。世にも尊き女神の降臨です。


「ニコちゃん!」

 私はニコちゃんのもとへテレポーテーションすると、小柄な体を腕の中に確保します。もちろんそっと優しくです。柔肌を貪るような真似は決してしません。快楽の余り体が溶け崩れる危険があります。慎み深きは乙女の純情です。甘く儚きこと綿菓子のごとしです。


「妙ちゃん、どうして二子ふたこさんが来たって分ったんだろう……? 匂いで? まさかね、犬じゃあるまいし」

 柚原さんが首をひねりながら傍に来ます。


「おはよう二子さん。今日はどうして学校に来たの? 何か急用かな?」

 見ればニコちゃんはキュロットスカートにポロシャツという軽装です。学校での私服姿は新鮮ですが、特別な事情があることを窺わせます。


「おねえちゃんは?」

 ニコちゃんは透明なまなざしを柚原さんに返します。柚原さんは戸惑いの表情を浮かべます。


「お姉ちゃんって、一子いちこさん?」

「ん」

「一子さんって確か高等部だよね」

「そうだよ。二年生」

 柚原さんからの問いに、私はこくんと頷きます。高等部は同じ敷地内にありますが、校舎は別になっています。普通は生徒が行き来することもありません。


「一子さんとこっちで会う約束してるの?」

「んん。だけどおねえちゃん、きょうがっこうだから」

「ごめんね、ちょっと分らない。どうしようか。とりあえずさつき先生に知らせる?」

「大丈夫、私分ったから。任せて」

 ニコちゃん語の読解ならお手の物です。


「ニコちゃん、私が連れて行ってあげるね」

 私はニコちゃんの手を取ります。途中ではぐれたりしたらいけません。きっちりと繋がるよう入念に指を絡めます。これまで高等部の校舎に入ったことはありませんし、一子ちゃんがどこにいるのか見当もつきませんが、特に問題はありません。


 自分の家までの道順は完璧に把握しています。今は誰もいないはずで、そのうえ朝お布団を敷きっぱなしのまま出て来ましたから、ニコちゃんをお招きするのに最適です。

 いざ約束の地へ旅立ちです。私はニコちゃんとバージンロードに踏み出して、上から足を踏み砕かれました。


 目の前に夜叉が立ちはだかっています。私の幼馴染の歌葉うたはちゃんみたいにすらりと背が高く、けれど歌葉ちゃんではない証拠にセーラー服の胸元が柔らかに盛り上がっています。

 どこかニコちゃんの面影を宿した美しき夜叉は、雅な目に鋭い光をたたえて私の足の甲にぐりぐりと体重を掛けてきます。


「どこへ行くつもりかしら?」

「あ、おねえちゃん。いた」

 ニコちゃんがぱちくりと瞬きします。


 驚きの事実です。なんと夜叉の正体はニコちゃんのお姉さんの一子ちゃんだったのです。容姿端麗、文武両道、人望も厚く高等部の生徒会長を務めるまさに完璧超人ですが、残念なことに重度のシスコンを患っています。ニコちゃんが妹なら無理もないとはいえ、節度と法律は守ってほしいところです。


「おはようございます、一子ちゃん」

「妙ちゃん、おはよう」

 一子ちゃんはやっと私の足を踏んでいることに気付いたらしく、大変ゆっくりした動きでどけてくれます。私達はどちらもニコちゃんを大切に想っています。ましてニコちゃんのお姉さんなら私にとってもお義姉さん、一子ちゃんにとって私は義妹です。二人はいつも仲良し、つまらない諍いなど起こる隙もありません。


 私は一子ちゃんに感じ良く微笑みかけると、ニコちゃんと恋人繋ぎした手を引いて通り過ぎます。

「すぅ、ふぅー」

「ひゃんっ」


 首筋に生温かく湿った風が纏いつきます。私は瞬時に全身の力が抜けてしまい、あえなくその場にしゃがみ込みます。どうやら一子ちゃんが極めし四十八の愛人技が一手、百合の息吹を浴びてしまった模様です。


「さて、この泥棒猫の始末をどうつけたものかしら」

 びくんびくんと痙攣する私を、一子ちゃんが捕食者みたいにつま先でつつきます。私の体の柔く尖った部分はもはや風前の灯です。


「二子先輩、おはようございます」

 しかし一年一組で許可なく淫らな行いに及ぶのは禁止です。柚原さんが私達の間に割って入り、一子ちゃんもひとまず劣情を抑えて優等生のお面をかぶります。


「おはよう。あなたは確か前にニコのお見舞いに来てくれた子ね。妹がいつもお世話になってます」

「いえそんな、わたしこそ二子にこさんには仲良くしてもらってます」

 学級委員長と生徒会長が丁寧に社交辞令を交わします。もう私の出る幕ではないでしょう。あとは若い二人に任せることにして、私はニコちゃんの手を握り直してひっそりと移動を開始します。


「それで二子先輩は、どういった用件で中等部にいらしたんですか?」

「ニコの匂いを嗅ぎにきたのよ」

「……はい?」

「生徒会の仕事で学校にいたら、夏休みで登校してないはずのニコのフェロモンが漂ってくるんだもの。一服しに来るに決まってるでしょう。そうしたら」


 一子ちゃんがぎろんちょと睨みます。私は即座にその場で停止します。もし振り切って逃げようとすれば、今度は荒縄で物理的に拘束されてしまいます。引っ越し屋さんより荷造り上手です。

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