補習

第37話 補習 その1

 夏休みに入ってから毎日大変な暑さが続いています。私の通う貞心ていしん女学院は全館空調完備ではありますが、24時間365日どの場所も快適というわけにはいきません。


 職員室などがある一階はまだ涼しかったのですが、階段を上るにつれて空気の孕む熱量が増していき、三階まで来るともうほとんど自分の体温と変わらない感じになります。


 お湯の中を泳ぐみたいな気分で廊下を進み、一年一組の教室にたどり着くと、私は真っ先に空調のスイッチを入れました。決められている温度より2度も設定を下げてしまいます。夏は少女をちょっぴり大胆にしてくれます。


 それでも教室は広いので、すぐに涼しくなるようなことはなく、私は中にこもった暑さに押しやられながら、窓際の自分の席へと向かいます。

 このあと待ち受けているのは厳しい補習の時間です。試練を乗り切るためにも、心と体を整えておかなければいけません。私はおもむろに体を横に倒し、隣の椅子に頬を預けます。


 そこはニコちゃんのお尻が置かれる場所です。従って論理的にはニコちゃんのお尻に等しいです。私は今ニコちゃんの温もりに触れ、ニコちゃんの匂いを吸い込みます。天上の聖なる宴が現出します。極楽浄土に大往生です――というふうには残念ながらいきません。


「薄いな……こんなんじゃ全然足りない」

 終業式以降ニコちゃんは学校から姿を消して、最後にこの椅子に座ったのはもう五日も前のことです。検出された残留物質はたった十八個の分子のみ、満腹にはほど遠いです。


「だけど、まだだよ!」

 あきらめたらそこで試合終了です。私は目を閉じ精神を研ぎ澄ませます。ニコちゃんの椅子を、むしろ椅子のニコちゃんを感じつくすべく、いざ深淵へダイブです。


「おっはよー。あれ、たえちゃんどうしたの? 頭でも痛い? 大丈夫?」

 しかし彼岸への旅立ちは中止されます。座面に顔をうずめた私のところへ、柚原ゆずはらさんがぱたぱたと駆けてきます。さすがは遣り手と名高い学級委員長さんです。教室内の些細な出来事も見逃しません。


「おはよう柚原さん。もちろん大丈夫だよ。ニコちゃんと愛を育んでいただけだもん」

 私は身を起こすと爽やかに朝の挨拶を返します。


「あー……そこって二子ふたこさんの席だもんね。もしかして邪魔しちゃったかな?」

「うん。だけどまだ本格的なまぐわいに入る前だったから。柚原さんは、今日も一緒に受けるの?」


 見事補習対象に選出されたのは学年で私ひとりだけですが、柚原さんは猛暑の中わざわざ登校してつきあってくれています。

 もちろん100パーセントクラスメイトを思いやっての行動でしょう。他に不純な動機があるとはちょっと考えつきません。

 柚原さんはカバンを開けて紙を数枚取り出します。


「家にいても退屈だからさ。これ今日の分のプリントね。さつき先生から預かってきたよ」

「ありがとう。朝からさつき先生と何してたの?」

 柚原さんはばっさりとプリントを取り落としました。


「な、何って何が? 先生と生徒だよ? へ、変なことなんて何もないよ?」

「変なことって?」

 なぜか動揺する柚原さんに、私はきょとんと訊き返します。柚原さんはすぅはぁと深呼吸、愛想がいいのに圧が強い笑顔を作ります。

「なんにもないよ?」

 やはり不純な動機はなかったようです。私達の麗しき友情に乾杯です。


 柚原さんの席は廊下側ですが、今は窓際の私の後ろで同じ課題に取り組みます。分らないところがあればすぐに答えを書き写せ、もとい、解き方を丁寧に教えてもらえるので効率的に進められます。


 なにしろ補習はかなり高度な内容です。基本的には一学期にやった範囲の復習、ところどころ小学校課程の確認を含むとのことですが、まさかそんなわけはありません。私が手こずるぐらいですから、最低でも大学院レベルはあると思います。


“問1 傍線部(1)の「あれ」の指し示す内容を答えなさい。”

 文章読解問題の途中で私ははたと顔を上げました。ニコちゃんの「あれ」について想像を巡らせているうちに辛抱たまらなくなったせいではありません。事態はさらに切迫しています。

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