第36話 夏風邪(仮)その7

 綾乃の追求から逃れようと、千紗はあたふた言葉を並べた。

「わた、わたしっていうか、歌、歌葉さんだって、縹さんと二人の方が楽しめたんじゃないかなって、かなって。だってだって鞭とかロウソクとか、わたしにはよく分んない、分んないから。歌、歌葉さんは好きなのかもしれないけど、けど」


「好きなわけあるかよ」

「きゃんっ」

 切れ味鋭い脳天チョップが背後から突き刺さった。千紗は子犬のような悲鳴を上げた。


「ったく、あたしをなんだと思ってやがる。縹と違って、千紗はいい子だと思ってたんだけどな。少しつき合い方考えた方がいいかもな」

「ごめん、ごめんなさい……でもつき合い方って、つき合うって……わたしと歌、歌葉さんが……」


 歌葉に後半の呟きが届いた様子はなかった。千紗の向かいの席におもむろに腰を下ろす。前髪はしっとりと湿っているし、Tシャツの胸元もあからさまに濡れている。千紗はうつむいた。


「……神楽坂さん、大丈夫ですか……? ボクの鼻息でよかったら……乾かすのに使ってください……」

「乾くわけねえだろ。大人しく座ってろ。ええい邪魔だ、顔を近付けるんじゃ、は、はくちっ……あ、悪い」

 超至近距離からの直撃だった。顔中にくしゃみのしぶきを浴びた綾乃が、うっとりと目を細める。


「……すいません、お代わりください……ボクにとって、神楽坂さんのエキスは最高のご褒……」

「キモい台詞禁止。言ったらもうお前とはもう遊ばねえ」


「……ご報……告が遅れましたが、今日は猛暑日になるようです……」

「だろうな。外クソあっついもんな。だからってこの店は冷房効き過ぎって感じが、へ、へくちっ」


「神楽坂さん……もしかして風邪でも引いたのでは……?」

「こんくらい平気だって。そんなにヤワじゃ、へ、へっぷしっ。うー」

 ずずっと鼻を啜り上げる。


「……名残惜しいですけど……今日はもう帰りましょうか……無理は良くないです……お腹の子に障ります……」

「えっ、歌、歌葉さん、赤ちゃん、赤ちゃんがいるの!?」


「そんなわけあるかよ。妙とだってまだ何もしてないってのに、男となんて冗談じゃねえや。だいたいあたしまだ、は、はくちっ、はくちっ」

 歌葉はぶるりと身を震わせた。二の腕をさすり始める。本当に風邪を引いてしまったのかもしれない。だとしたら大変だ。千紗は暫しためらったのち、言った。


「やっぱり、やっぱりもう帰ろう、帰ろう……ね?」

「……じゃあ、そうするか」

 歌葉は気怠げに息をついた。


     #


 帰りの空気は重かった。行きに比べて疲れているのは普通だとしても、まだ昼の早い時間で、周囲はいたって賑やかなせいで、自分達ばかりが無駄に沈んでいるように感じてしまう。

 歌葉の調子もいまいちだ。強冷房と冷水のダブルパンチを喰らい、外に出れば出たで相も変わらずの凶悪な暑さである。余りの落差にくらくらしてくる。


 綾乃の黒ずくめの格好も大変に暑苦しい。当然本人もきついようで、瞳は虚ろにさまよい、締まりなく開いた口からは絶え間なくうわごとが洩れ出ている。内容は聞き取れないものの、歌葉としてはそれでよかった。下手に理解したら精神が汚染されそうな気がする。


 そして三人の中で最も可愛いらしく女の子らしい千紗が、今はとても暗かった。

 おそらくカフェでの失敗を気にしているのだろう。けれどわざとやったわけでなし、歌葉は怒ってなどいない。本人にもちゃんと伝えたつもりだが、引きずっているらしい。それとも、まだ歌葉のことを怖がっているのだろうか。


 会話が弾むこともないまま駅が近づく。もう少し一緒にという言葉は出てこない。歌葉は青い空を虚しく仰ぐ。

 しかし夏休みはまだ始まったばかりだ。学級委員長の柚原ゆずはら史恵ふみえあたりをつつけば、みんなで遊べるようばっちり仕切ってくれるだろう。


 もちろんたえと歌葉の二人だけで出かける機会も必要だ。

 薔薇色の未来を思い描こうとした歌葉の足は、さらに先へと踏み込む前に止まった。


 千紗達がいない。きょろきょろと左右を見回し、後ろを振り返ったところでほっとする。

 単に遅れているだけだった。距離が開いたのはどうやら綾乃のせいらしい。耳元にしきりと何か話しかけられている千紗が、困った風情で目元を伏せる。


「縹のやつ……」

 もし歌葉のみでは飽き足らず、千紗にまで変態ハラスメントを仕掛けているならただではおかない。ペキポキと指の骨を鳴らす。


「ん?」

 千紗が縹の傍を離れた。とてとてと駆けてきて前に立ち、思い詰めた様子で歌葉を見上げる。


「話、話がある、あるの」

「なんだよ、改まって」

「今日、今日はごめん、ごめんなさい。いっぱい、いっぱい迷惑かけちゃって」

 千紗は大きく頭を下げた。


「大丈夫だから。もう気にすんなよ」

 白い丸帽子をぽんぽん叩く。千紗はその手を取って握り締めた。

「それで、それでね、もし、もしもだけど、わたしのことが嫌い、嫌いとかじゃなかったら、また一緒に、一緒にお出かけしたいなって。どう、どうかな」

 瞳が微妙に涙ぐんでいる。断られるのを恐れているのか。けれど答えは考えるまでもない。


「もちろん。いっぱい色んなとこに行こうぜ」

「うん。嬉しい、嬉しいな」

 こんなの全然大したことじゃない。ただ友達同士で遊ぶ約束をしただけだ。なのになぜか歌葉の頬が熱くなる。


「……すぅ、はぁ……最高に、かぐわしいです……」

「うぉっ!? 縹、てめぇはまたそんなところに!」

 いつの間にか股の間に潜り込んでいた綾乃を、歌葉は全力で蹴り出した。綾乃はずしゃりと地面に這いつくばると、首をねじって千紗を見上げた。


「……よかったですね……」

 千紗は瞳を瞠り、そしてすぐにはにかむように頷いた。歌葉の頬はますます熱くなった。さっきから体がおかしい。もしかして熱中症だろうか。違う。やはり風邪だ。暑かったり冷たかったりで調子を崩し、夏風邪を引いてしまったのだ。

 歌葉は火照る顔を千紗から逸らした。そのまま見つめていたら、もっと熱が上がってしまいそうな気がした。


(「夏風邪(仮)」 了)

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